もう3年前になりますが、2017年秋にこんな記事を書きました。
当時の私の考えは、ブログへとんでいただくとおわかりいただけるかと思うのですが、コロナショックの2020年、多くの方々が「死」や「いのち」というものに何らかの形で想いを馳せることがあったのではないかと想像しています。
実は、前回のブログ(そんなサイズのものではないのです。) を読んでいただいた方々から、メッセージや直接お話した際の感想、「周りの人に読んでと紹介しました」などのありがたいコメントをいくつもいただいておりまして。
日々刻々と状況が変わっている今、お一人おひとりが、ご自分の「核」になるものと向き合う良い時期になっているのかもしれないな……なんて思ったりもしています。
ところで、冒頭の「死」ということについては、その後も少しずつですが探求を進めている最中です。
「死」に関する思想や瞑想の実践、対話。
昨年は、コーマワークという昏睡状態の方々に関わる技術についてトレーニングを受けていました。
「死」に直面した体験談をお聞きするフィールドワークなんかも。
そうそう、私が3年前からはじめた山伏修行は、まさに「擬死再生」の行なのです。
こんな探求をしていると、実は多くの方々が、「死」や「いのち」について話してみたいのではないか、そういう思いは潜在的にあるのではないか、というのが私の手応えです。
普段はあまり話題にしないものの、実は関心のない人ってそういないのではないか、と。
だって、みんな必ず死ぬのだから。
そういえば先日、久しぶりに大好きな映画を観ました(自宅で)。
黒澤明監督の『生きる』(1952年)です。
余命わずかな病にかかった男性が、残りの人生数ヵ月を生きたお話です。
(細かくは書きませんが……ああもう、この自粛生活中にぜひ観ていただきたい!)
そこに出てくるナレーションを一部、ご紹介しますね。
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この物語は、20年ほど前から死んでしまった男が主人公である。
意欲や情熱はなく、忙しさの中でそれらをすり減らしてしまった。
この男が生きた時間を取り戻すには
もっと無駄な時間を積み上げ、もっと胃が悪くなる必要がある。
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果たして私は、「生きた時間」を生きているだろうか?
日々それを、忘れてはならないと思うのです。
いつ死ぬのかは、誰しもわかりません。
だからこそ、お誘い申し上げます。
死ぬまで、生きよう。