高額転売ブームの裏で、ポケモンカードは新しい“通貨”になった。
2024年4月、東京で暴力団関係者がカードショップからトレーディングカードを盗み、逮捕された。


1枚数十万円の希少カード。だが、この事件が示したのは、単なる窃盗ではない。
かつて「シノギ」と呼ばれた裏社会の資金源が、
いまや子どもの遊び道具にまで手を伸ばさなければならないほど、崩れ落ちているという現実だった。

 

 

暴力団の“ビジネスモデル崩壊”

暴力団の資金源は、長く建設、飲食、風俗、賭博など“現金の動く産業”にあった。
しかし法規制と社会的排除の進行により、銀行口座の凍結や取引停止が進む。
結果、従来のシステムが回らなくなり、“現金商売”に依存せざるを得なくなった。
金が動かない組織は、もはや力を保てない。
今回の事件は、まさにその象徴だった。

 

 

トレカ市場という“新しい闇”

近年、トレーディングカード市場は爆発的に拡大した。
希少カードは1枚で車が買える値段になることもある。
そのため、カードショップや個人コレクターが新しい“狙い目”として浮上した。
中古市場の匿名性、メルカリなどでの転売ルート――。
これらが、闇市場の新しい資金循環を作っている。
裏社会が金の匂いを嗅ぎつけないわけがない。

 

 

暴力団の“末端化”と変質

今回逮捕された組員は、いわゆる幹部格だった。
それでも、やっているのは「カード泥棒」だ。
このギャップこそが現在の暴力団の実態を物語る。暴力も権威も通じず、資金もない。


組織の末期は、もはや“反社会勢力”ではなく“社会の周辺に取り残された人々”になりつつある。
その姿は、もはやアウトローではなく、生き残りを賭けた弱者そのものだ。

 

 

ポケモンカードを盗んだ暴力団員の姿は、単なる犯罪者として切り捨てられるものではない。
暴力団という存在は、かつて社会の“裏側の調整役”として機能していた。
グレーゾーンの取引を捌き、誰も手を出さない領域で責任を負ってきた時代が確かにあった。

だが、法規制と社会的排除が進み、その役割が完全に否定されたとき、
彼らは居場所を失った。


暴力を封じられ、資金も絶たれ、最後に残ったのは“社会に取り残された人間たち”という現実だった。

そんな中で、子どものカードを盗むという行為は、堕落ではなく、縮図だ。
裏社会という仕組みを社会が不要とした結果、
その“余剰”として取り残された者たちがどう生き延びようとしているのか。
それを、この事件は静かに映している。

 

暴力団を擁護する必要はない。
だが、彼らを生んだのもまたこの社会だという事実だけは、忘れてはいけないのかもしれない。

 

 

一部の若者の間で、いま再び「地下格闘技」という言葉が注目されている。


動画配信の普及で、かつては閉ざされた空間だった地下イベントの映像が、SNSや動画サイトを通じて誰でも見られるようになった。


血が飛び、観客が叫び、勝者が歓声を浴びる。
その光景は、格闘技とも暴力ともつかない“危うい熱”をまとって拡散されている。

 

 

主催者は「自己表現の場」と言い、批判する側は「暴力の商業化」と呼ぶ。
だが実際の現場では、そのどちらの言葉も現実を言い当ててはいない。
そこにあるのは、金と承認欲求と、行き場を失った人間の衝動である。

 

 

表のリングでは戦えない者たち

出場者の多くは、表の格闘技団体に居場所を失った者たちだ。
プロ契約に届かなかった者、少年院上がり、喧嘩自慢、暴走族。
リングに上がる理由は、栄光ではなく再起だ。
「一度負けた人生を、もう一度試してみたい」そう言ってリングに立つ者もいる。

ルールはあるが、守られないことも多い。試合というより、実戦に近い。
会場の空気は熱気よりも緊張が支配している。

 

 

裏の金の流れ

地下格闘技の背後では、さまざまな金が動いている。
出場者のギャラ、賭け金、スポンサー、撮影協力費。
興行そのものが反社会的勢力の資金源となっているケースも少なくない。
一部の主催団体では、負け試合に“仕込み”があるという噂も絶えない。
誰が勝つかを知っているのは、主催者と一握りの関係者だけだ。

 

それでも選手たちは上がる。
負けても名前が残るという報酬があるからだ。
“地下”とは、金よりも名を得るための場所でもある。

 

 

動画文化が変えた地下の風景

SNSや動画サイトの台頭で、地下格闘技は新しい形を得た。
かつての閉じた世界が、いまはスマホ一台で拡散される。
主催者の中には、再生回数やスーパーチャットを目的に試合を組む者もいる。
リング上の血が、クリック数に変わる。

暴力は、恐怖ではなく“エンタメ”になった。
それを観る者も、出る者も、その構造に気づきながら乗っている。稼げるなら、それでいい。
そう思えるほど、社会はこの熱に慣れてしまった。

 

 

地下格闘技は、格闘技でも犯罪でもない。
その曖昧さこそが、いまの時代に合っているのかもしれない。
法律の外で生きる者、夢を諦めきれない者、暴力を売り物にする者。
彼らを同じリングが飲み込み、歓声とともに吐き出す。

そこにあるのは正義でも悪でもなく、ただ「生きている」という実感だけだ。

 

暴力が金に変わり、欲望が数字として流通する時代。
その流れの中に、地下格闘技もまた位置づけられている。
誰かの生き様が、誰かの娯楽になる。

それは特別な事件ではなく、現代社会の一断面にすぎない。

 

 

 

「すぐに貸します」「保証人不要」「即日振込」
その言葉を信じた瞬間、抜けられない世界が始まる。
SNSで広がる個人融資の闇。
法改正で“闇金”という言葉は減ったが、現実には、姿を変えて生き残っている。

 

 

かつての闇金はわかりやすかった。
事務所があり、電話をかければ粗暴な声が返ってきた。

 


だが今は違う。


SNSのDMひとつで取引が成立する。相手の顔も声も知らないまま、金だけが動く。
「貸金業登録番号」など存在せず、契約書もない。
唯一残るのは、スマホに残った送金履歴とメッセージのログだけ。

金を借りた側は、やがて気づく。


利息が日ごとに膨らみ、返せない額に変わっていくことを。
そして、支払いが止まった瞬間から、別のメッセージが届く。
「職場に連絡する」「家族に言う」「顔を晒す」
暴力ではなく“情報”で人を縛る。これが今の闇金のやり方だ。

 

 

最近の闇金は「個人間融資」を名乗る。
匿名アカウント、アイコンは一般人。
投稿には「助けたいだけ」「お礼は気持ちでいい」と書かれている。
だが、実態は従来の闇金と何も変わらない。

 


利息は法外で、取り立ては執拗。
違うのは、暴力の代わりにSNSの“晒し上げ文化”を使う点だ。

返せない借り手を見せしめにし、恐怖を広げて支配する。
それは路地裏の怒号よりも静かで、確実な脅しだ。

 

さらに悪質な場合は、闇金は至って「普通」に振舞うのである。

脅せば恐喝になることを知っている闇金は、「闇金感」を出さずにじわじわと債務者の首を絞めてくる。

恐喝になりそうな言葉は残さずに、態度で示すのだ。

夜道のストーキング、生活の中で感じる違和感。

そうやって債務者たちに「気付かせる」のである。

 

 

最も、闇金が生き残る理由は、需要があるからだ。
失業、病気、ギャンブル、風俗、家庭の崩壊。
銀行が門前払いをするその裏側に、いつも「貸します」の声がある。
「誰も助けてくれなかった」
そう言う人の隙間に、闇金は入り込む。

人の弱さと金の流れが交わる場所に、
正義も法律も届かない。そこに生まれるのが“ビジネス”だ。

 

 

闇金という言葉は、もはや古いのかもしれない。
アプリとSNSの中で、違う名前に変わりながら、今日も金が動く。
それでも本質は変わらない。
金を貸す者と、借りるしかない者。
その関係がある限り、この仕組みは止まらない。

 

 

 

 

表向きはバーやラウンジだが、常連だけが知る合図で奥の扉が開く。

そこに並ぶのはスロット台、カードテーブル、そして見張り役。
この場所の本当の主は、店主でもスタッフでもない。

裏で金を流している“胴元”――つまり、暴力団だ。

 

 

グレーゾーンから始まった“日本型ギャンブル”

日本のギャンブル文化は、もともと“グレーゾーン”の上に成り立っている。
パチンコはその代表例だ。

表向きは「遊技」だが、景品を買い取る「三店方式」で実質的な換金が行われる。


この仕組みは戦後の混乱期に生まれ、暴力団がその利権を押さえていた。換金率の調整、台の搬入、警備――どこにも彼らの影があった。

 

一時期、警察との協定で表面からは姿を消したが、
「裏スロット」「闇カジノ」といった形で今も金の流れを支配している。

 

「海外企業の運営を装い、実際は国内で集金」という構図だ。
中にはSNSで「スタッフ募集」「アフィリエイト報酬あり」と称して若者を集め、運営の片棒を担がせる手口もある。

表に出ない資金の流れ、海外口座を経由したマネーロンダリング。
ギャンブルはもはや遊びではなく、“資金洗浄の舞台”となっている。

 

 

オンラインカジノという新たな“裏の賭場”

近年、暴力団が目をつけているのがオンラインカジノだ。
海外の合法カジノサイトを装いながら、日本人プレイヤーを対象にした“実質的な違法サイト”が増えている。
SNS広告や配信者のステマによって利用者が急増し、そこに暴力団が参入する。
運営側の「顧問」や「仲介」として関与し、口座の管理や現金化ルートを提供しているのだ。

中には、配信者を使って「勝てば儲かる」「安全に稼げる」と宣伝させ、
利用者を借金漬けにして裏金融へ誘導するケースもある。
警察の摘発が進んでも、サイトは次々にドメインを変えて再登場する。
“地下の賭場”がインターネットに移動しただけで、構造そのものは何も変わっていない。

 

 

なぜ暴力団はギャンブルにこだわるのか。

理由は単純。
ギャンブルは「現金が動き、人の欲望が集まる場所」だから。
薬物や詐欺と違い、参加者の多くが自発的に金を賭けるため、罪悪感が薄い。
だからこそ、裏社会にとって理想的な“シノギ(資金源)”になる。

 

 

さらに、賭場には“情報”が集まる。
誰が金を持っているか、どんな人脈を持つか。
そうした情報をもとに、別の商売――投資詐欺・闇金・風俗――へと繋げていく。
ギャンブルは単なる稼ぎ場ではなく、“裏経済の中継点”として機能している。

 

 

カジノ法が整備されても、暴力団が完全に姿を消すことはない。
法が整えば抜け道を探し、規制が強まれば海外へ逃げる。
それが裏社会の生き残り方だ。

いまや賭場はビルの一室にも、スマホの中にもある。
そして、どちらの場所でも金は同じ方向に流れていく。
胴元が誰であれ、最終的に勝つのは“仕組みを作った側”だ。

 

 

 

 

「人は、どこまで自分の身体を差し出せるのか」。

 

 

 


この問いを軽々しく扱うつもりはないが、現実は冷酷だ。

命を延ばすための行為が、いつの間にか“取引”へと変わる瞬間がある。

 

 

貧困と負債のなかで、臓器を売る選択を迫られる人々が存在する。

南アジアの一部地域や東南アジアのスラムでは、借金を清算するために腎臓を売ることが日常化している地域があるという報告がある。

 

地元で即金を受け取り生活の目先をつなげた者でも、その後に慢性的な健康被害や経済的困窮を訴える例は少なくない。

現地取材や学術調査はいずれも、短期的な「救済」が長期的な被害につながる比率の高さを指摘している。

 

 

臓器が国外の富裕層へ渡る過程は、仲介者と医療機関、場合によっては犯罪組織が絡む複雑なネットワークだ。

仲介業者は「安全だ」「合法だ」と説明するが、実際には書類が偽造され、提供者の同意があいまいなまま手術が行われることがある。

 

移植ツーリズムとして患者を受け入れる病院でも、術後のフォローが不十分で合併症や拒絶反応が放置される事例が報告されている。最近の医学研究でも、海外での移植は術後合併症や拒絶の発生率が高いとのデータが示されており、リスクは決して小さくない。

 

 

 

さらに悪質なケースでは、「借金の肩代わり」と称して臓器を差し出させる手口や、被供体が移動させられ書類も偽造されるような人身取引の形態が確認されている。国際機関は、こうした事例を「人身取引」として警告している。

被供体の術後ケアがない、契約どおりの報酬が支払われない、健康が損なわれた後に誰も責任を負わない――現地の証言はどれも重い。

 

実例を挙げると、地域によっては「腎臓を売った者がその後働けなくなり、かえって貧困化した」「手術が素人同然の環境で行われて失敗し、被供体が命を落とした」といった被害が報告されている。

そうした報告は過去の調査や最近のメディア報道で繰り返し指摘されており、闇市場に流れた臓器取引のリスクは現実のものである。

 

問題の深さは、単に違法行為を摘発すれば解決するものではない点にある。

需要(移植を必要とする患者)と供給(貧困や搾取に晒される潜在的ドナー)が同時に存在するかぎり、ルートは別の形で生き残る。

国際的な宣言や各国の法整備は進んでいるが、実効的な取り締まり、被供体の保護、そして国内の移植待機の解消――どれもが同時に進まなければ、根本的な解決にはならない。

 

 

臓器を求める側の切迫した気持ちは理解できる。

だが、「海外で安易に手配すれば助かる」という期待は、時に命を縮める。

 

手術の失敗、術後の放置、支払われない報酬――想像以上に現実は恐ろしいものである。

 

 

 

 

 

2023年、あるNPO法人の代表が臓器移植法違反の罪で起訴された。


海外で臓器移植を希望する患者を仲介し、その見返りに高額の報酬を受け取っていたとされる事件だ。

手配先は東欧のベラルーシ。患者はそこで移植を受けたが、術後に死亡したケースもある。

 

裁判では、被告は「患者を救いたかった」と主張した。

しかし東京地裁は「営利目的の無許可仲介」と断じ、懲役8か月、法人に罰金100万円の有罪判決を下した。
臓器売買を防止するために定められた臓器移植法に照らせば、明確な違法行為だった。

 

 

だが、判決を読んで感じたのは「刑が軽すぎる」という違和感だった。
金銭が絡み、命が動いたにもかかわらず、量刑はわずか数か月。
「これは本当に犯罪として裁かれているのか」。
そうした疑問は、私が感じただけでなく、事件後にネット上でも広がった。

 

この報道をきっかけに、日本ではどのように臓器取引が扱われてきたのか――その歴史と制度の裏側を追ってみる必要があると感じた。

 

 

臓器取引の歴史

臓器移植法が施行されたのは1997年。
当時の日本では、脳死を「人の死」とみなすことに社会的な抵抗が強く、臓器提供は極めて限られたものだった。死者の身体を損なうことへの忌避感、宗教的・文化的背景、そして「臓器提供=命の取引ではないか」という倫理的懸念。これらが重なり、制度は存在しても現実にはほとんど機能していなかった。

 

2010年、法改正によって15歳未満からの提供も可能となり、家族の同意による提供範囲も拡大した。それでも年間の脳死ドナー数は百数十人前後。対して、移植を待つ患者は常時一万人を超える。腎臓移植を希望する人だけでも全体の九割近くを占め、平均待機期間は十年以上に及ぶ。

この“供給と需要の極端な不均衡”が、渡航移植という新たな道を生んだ。


2000年代初頭、新聞や週刊誌は「臓器移植ツアー」を報じ始めた。

中国、フィリピン、東欧諸国――患者は仲介業者を通じて現地の病院に送られ、手術を受ける。だが、そのドナーがどこから来たのか、どのように臓器が手配されたのか、詳細は一切公表されない。

それでも、国内で順番を待てば死が先に来る。
「合法かどうか」よりも「生き延びられるかどうか」。その一点が人々を動かした。
こうして、善意の医療制度の隙間に、金銭が介在するグレーゾーンが生まれていった。

 

 

 

事件が映し出した制度の限界

今回のNPOによる仲介事件は、そのグレーゾーンがいかに制度の外側で拡大していたかを示す一例だ。
被告の団体には、およそ150名の患者が移植仲介を依頼していたとされる。腎臓や肝臓の手配を受けた患者の中には、現地で命を落とした者もいた。

判決は「営利性が明白であり、医療倫理を著しく損なう行為」と断じた。
それでも、科された刑は懲役8か月。
臓器移植法における違反の上限刑は「1年以下の懲役または100万円以下の罰金」に過ぎず、殺人や詐欺に比べれば極めて軽い。

理由は単純だ。臓器仲介は「誰かを直接傷つけた犯罪」としてではなく、「許可のない手続き違反」として処理されるからである。
だが、臓器の出所が不明なまま金銭が動き、命が取引される現実は、もはや単なる行政違反ではない。そこには人の生死と倫理が介在している。

 

 

 

今回の事件は、制度の隙間で生まれた「命の取引」の現実を浮かび上がらせた。
臓器売買は禁じられている。しかし、法の外でそれが行われる理由は単純だ。


――それが“必要”だからである。

 

 

善意と倫理の狭間で、人々は今日も生きるための選択を迫られている。
そして、その選択の延長線上には、国境を越えて広がるもうひとつの市場がある。

 

次章では、その視線を日本の外に向ける。
臓器を「輸出入」する世界の実態――国際的なグレーゾーンの中で、命はどのように取引されているのかを追っていく。

 

 

 

 

2024年初め、世界各地で「本人が知らぬうちに犯罪に使われる」事件が相次いでいる。


それはもはや、SFの中の出来事ではない。AIが人の顔や声を完全に再現し、現実世界で詐欺や情報操作を行う時代が到来したのだ。

 

 

 

最も衝撃を与えたのは、香港で起きたディープフェイク詐欺事件である。


犯罪グループは、実在する企業幹部の映像と声をAIで複製し、ビデオ会議上で「本物」として社員に資金送金を指示。
結果、会社から数十億円が奪われた。
その会議に参加した社員の誰一人として「偽物」だと気づけなかったという。
顔も声も、動きさえも、完璧に本人だった。

 

 

こうした事件はすでに国境を越え、日本でも確認されつつある。
SNSでは、実在の人物の顔を流用した“偽アカウント”が急増。
「写真を無断使用され、見知らぬ詐欺広告に登場していた」
「就活の面接動画が、別人の“犯罪自白映像”に加工されて拡散された」
など、本人の意志と無関係に「存在」が切り取られ、犯罪の部品として使われる事例が出ている。

 

問題は、AIによる生成物が「誰の著作物でもない」点にある。
つまり、法的には“所有者不明の偽物”として扱われることが多く、現行法では明確に処罰できないグレーゾーンが存在する。


被害者が訴えても、「本人が写っているとは限らない」として削除請求が通らないケースさえある。

警察もまた、この新しい犯罪形態への対応に苦慮している。
従来の犯罪捜査は「犯行現場」「物証」「通信履歴」などの実体を追う構造だった。
しかしディープフェイク犯罪では、“犯人”も“被害者”もデジタル上にしか存在しない。


痕跡がクラウド上に分散しており、どこから手をつけるべきか判断が難しい。

この問題の本質は、「人間の信用がデータ化されてしまった」ことにある。
顔も声も身分も、AIによって模倣可能となった今、「本人である」という証明の根拠が急速に失われつつあるのだ。


つまり、かつて最も信頼された「顔の一致」が、もはや本人性を保証しない。

SNSや動画プラットフォームでは、すでに“自分が自分であることを証明する”
AI本人認証の導入が進められている。皮肉なことに、AIが生み出した問題を、AIによって解決しようとしている構図である。

 

AIは人の顔を使って犯罪を始めた。
だがそれは、AIが悪意を持ったからではない。
人間が「信頼」をデータに変換し、それを制御できなくなった結果である。

この先、顔や声といった“個人の象徴”が、どこまで他者に利用されるのか。
私たちは、もう一度問い直さねばならない。

 

 


「人間とは何をもって“本人”と呼べるのか」。

 

 

 

 

2024年1月中旬、愛媛県の地方都市にある商業施設で、信じがたい事件が起きた。

 


買い物客や家族連れでにぎわうカフェのテラス席で、男性が銃で撃たれ命を落としたのである。

平和な午後のひとときを突き破った銃声は、現場に居合わせた人々だけでなく、地域全体を震撼させた。


「まさかこんな場所で」という驚きと恐怖が、ニュースとともに全国を駆け巡った。
事件の現場となったのは、誰もが日常的に利用する全国チェーンのカフェ。

 


日常の延長線にあった空間に、突然“非日常”が侵入した瞬間だった。

 

 

警察発表や報道によると、撃たれた男性と容疑者は、かつて同じ組織に属していた関係にあったとされている。
その後、男性は組織を離れ、別の組織へ移籍し、最終的には関係を断っていた。

事件の背景には、反社会的勢力の内部対立や報復があったとみられている。
だが、今回の特徴は、その抗争が裏社会の範囲にとどまらず、一般社会の空間で実行されたという点にある。
閉ざされた世界の争いが、一般市民の生活圏にまで流れ出してきた――その事実こそが、最も深刻な問題である。

 

 

なぜ、あえて人の多いカフェが舞台となったのか。

 

私個人としてはこのように考察する。


動機のすべてはまだ明らかではないが、いくつかの推測が成り立つ。

被害者がよく立ち寄る場所だった可能性が高く、加害者ともここで面識があった可能性がある。
または、目撃者が多い環境を選ぶことで、示威的な意味を持たせた可能性。
さらに、発砲後の逃走経路や防犯カメラの配置を計算に入れた上での犯行だったとも言われている。

いずれにしても、公共空間での発砲は、一般人を巻き込む危険を極めて高くする行為である。
事件当時、店内には家族連れや学生など多くの客がいた。
偶然の条件が重ならなければ、被害はさらに拡大していた可能性がある。

 

 

この事件は1月に発生し、事件発生の翌日の夜には捜査関係者らによる指名手配がなされた。

この対応についてはスピード感のある対応であるといえる。

通常、殺人などの重大事件でも「指名手配」に至るまでには数日〜数週間かかることが多いのである。

さらに、事件発生後1週間あまりで逃走先とみられる暴力団事務所の家宅捜索が行われたとの報道もある。

警察側は「一般市民が巻き込まれるリスクが極めて高い」と判断し、逃走中の容疑者を早期に捜索・指名手配に至ったと考えられる。

 

その後、2024年3月5日付で、指名手配されていた同幹部が岡山県内で逮捕されている。

 

カフェやショッピングモールといった場所は、多くの人にとって「安心」の象徴だ。
家族で食事をし、友人と語り、ひとりでくつろぐ場所――そこに危険が潜むとは誰も思わない。

しかし、この事件はその常識を打ち砕いた。
どんなに明るく整った空間でも、暴力の火種はどこにでも潜んでいる。
裏社会の抗争は、私たちが暮らす日常と地続きの場所に存在しているのだ。

ただ、すべての暴力団関係者が一般人を巻き込むわけではない。最も、加害者側も

一般人を巻き込もうと思っていたとは考え難い。

 

 

事件後、地元の商業施設では防犯カメラの増設や警備体制の強化が検討された。
だが、本質的な安全対策は施設の側だけに委ねるものではない。

 

警備員を配置するには人件費や業務委託費がかかるし、防犯カメラの設置には維持補も含めて莫大な費用が掛かる。

しかも完全にこれらに頼っているから安心。とは到底思えない。私たち自身が、異変を察知する感覚を持つ必要がある。
違和感を覚えたらその場を離れる、危険な場面では撮影や接近を避け、安全確保を最優先に行動する。
そして、社会の“裏側”の出来事を遠い世界の話として片づけないことだ。

知らないことが安全を守るわけではない。
むしろ、知ることこそが、自分や周囲を守る最初の一歩である。

 

 

 

 

地震、豪雨、土砂災害。日本では毎年のように「助け」が必要とされる状況が生まれる。

行政、企業、ボランティア、市民。あらゆる人々が動き出し、支援の輪が広がる。

 

その光景は、社会の力強さを示すものでもある。
 

だが、その裏で必ず動く者たちがいる。

人々の善意が集まる場所には、必ず「利益」を嗅ぎつける影が現れる。彼らは力ずくではなく、合法の仮面をかぶって近づいてくる。反社会的勢力やそれに近い構造を持つ業者たちだ。

 

 

たとえば、最近報じられた悪質リフォーム業者の摘発事件では、災害を口実に「屋根が危ない」「すぐに直さないと保険が下りない」と高齢者宅を回り、高額な工事契約を結ばせていた。実態は、反社関係者とつながる下請けネットワークが資金を吸い上げる構造だった。

 

また、震災復興や土砂災害の解体工事現場では、無許可で工事を請け負い、代金をだまし取る例も後を絶たない。表向きは「地元業者」や「支援団体」を名乗りながら、その裏では廃棄物の不法投棄や補助金の不正取得が行われている。

 

かつての反社会勢力は、暴力と恐喝で金を動かした。しかし近年は、経済の中に溶け込む形へと変化している。


建設、運送、清掃、リサイクル、人材派遣――。

いずれも、災害時に必要とされる業種であり、現場では「助ける側」に見える存在だ。だが、その一部は資金洗浄や名義貸しのルートとなっている。


暴力団排除条例が全国で施行されたいま、彼らは“フロント企業”として合法業に擬態し、社会の善意を利用して利益を得る方向に舵を切った。

 

さらに近年目立つのが「トクリュウ」と呼ばれる匿名・流動型犯罪グループの存在だ。暴力団のような組織的序列は持たず、SNSを介して人を集め、短期間だけ動く。災害時の物資輸送や人員派遣を装いながら、詐欺や個人情報収集に転用するケースもある。
従来の“反社”の定義では捉えきれない新たなグレーゾーンが、支援現場にまで浸透しつつある

 

 

「支援団体」と名乗る者の中にも、問題は潜む。
寄付金の使途が不明瞭な団体、活動実態のない“幽霊ボランティア”、あるいはSNSで寄付を募りながら個人口座に資金を集めるケース。こうした行為は必ずしも暴力団の仕業ではないが、結果的に反社会的な資金流通に加担することもある。

善意の寄付は、透明性が確保されなければ「資金源」に変わる。
公的機関や自治体の認定、会計報告の有無を確認するだけでも、被害は減らせるはずだ。

 

 

被災地で活動する行政や企業、市民が持つべき視点は明確だ。
それは、「相手を信じる」ことと「確認する」ことを両立させる意識である。

ボランティア登録や業務契約を急ぐ前に、許可証や登記情報を確かめる。
寄付金を送る前に、その団体の活動実績を調べる。
たったそれだけで、“善意の出口”が悪用される可能性を減らすことができる。

行政の側でも、復旧事業の入札や補助金支給において「反社チェック」を形式的に終わらせず、下請け・再委託の段階まで監視する仕組みが求められている。

 


反社は法を恐れないが、仕組みと透明性を嫌う。
見える化の努力こそが、最大の防御になる。

ただし、人間というものはとにかく疑うことを嫌う。

「せっかく手を差し伸べてくれているのに」という気持ちに負けて、確認作業を怠ってしまうのである。悪徳業者らはこう言う人間らしい部分につけ込んでくる。

 

災害のたびに問われるのは、「どれだけ早く支援できるか」ではなく、「どれだけ正しく支援できるか」だ。

反社が入り込む隙は、制度の穴ではなく信頼の穴。
“助ける”という美しい行為を、誰かの食い物にさせないために――。
社会全体がもう一歩、疑う勇気と確認の習慣を持たなければならない。

 

 

ヤクザの世界にも、恋愛や家庭がある。
 

この話はわたしが実際に刑務所内の同部屋にいたある組織の人間から聞いた話である。

ふいに思い出したので、書き留めておきたいと思った。

 

「結婚」は、一般社会のそれとはまるで意味が違う。
組織の一員であるという現実と、ひとりの人間としての情。
その狭間で、彼らはそれぞれの形の「夫婦」を選んでいる。

 

ヤクザであっても、病院の手続きや住民登録、子どもの認知など、現実の生活には法的な家族関係が欠かせない。

籍を入れなければ、妻も子も“他人”扱いになる。
面会や代理手続きができず、行政的にも守ることが難しくなる。

だからこそ多くの者は、「家族を守るため」にあえて正式に結婚届を出す。
それは愛情というより、“義理”と“責任”の形に近い。

 

 

もちろん、籍を入れることには大きなリスクもある。
配偶者がヤクザであるだけで、社会的に「反社会的勢力関係者」と見られ、
賃貸契約、銀行口座、就職などあらゆる場面で制限を受ける可能性がある。

ただし、行政や企業の判断では、籍があるだけで自動的に“反社認定”されるわけではない。
本人が活動に関与しているか、資金関係があるかなど、実質的なつながりの有無が重視される。

とはいえ、世間の目は冷たい。
「名前だけで偏見を持たれる」現実があることも確かだ。

 

 

組の上層部や古参の人ほど、籍を入れないことが多い。
理由は単純で、女性を守るためだ。

籍を入れなければ、その女性は「反社会的勢力関係者」ではない。
もし自分が逮捕されても、捜査や報道の波が直接届かない。
それに、ヤクザの世界では離婚も多い。
籍を入れずにいれば、別れるときの手続きもない。

結果として、“内縁関係”という形が現実的な選択になる。
それでも生活は夫婦そのもの。式こそ挙げずとも、互いに情でつながっている。

 

 

近年では、組の影響力低下や反社排除の厳格化を背景に、結婚式自体を挙げるケースは激減した。
あっても、ごく限られた関係者による内輪の食事会程度。

それでも籍を入れるとき、多くのヤクザは静かに役所へ向かうという。
派手な儀式も、指の欠けた誓いもない。


ただ一枚の紙に、彼らの「義理」と「情」が交わされるだけだ。