成田空港の税関職員が一人の旅行者に目をとめた。
僧衣をまとい、数珠を手にした若い男。
その姿は、一見すれば宗教修行を終えて帰国する僧侶そのものだった。
だが、穏やかな外見の裏に隠されていたのは、覚醒剤数キロ分の粉末だった。
逮捕されたのは、台湾出身の21歳の大学生。
カンボジアから日本へ薬物を密輸しようとした疑いで、到着直後に成田空港の税関職員によって身柄を確保された。
押収された薬物は、市場価格で数千万円規模とされ、本人は「頼まれて運んだ」「中身は知らなかった」と供述しているが、荷物の構造や行動履歴から、明確に計画的な犯行だったとみられている。
この事件が注目を集めた理由は、密輸量の多さだけではない。
男が身にまとっていた「僧衣」という偽装こそが、国際犯罪の新しい傾向を象徴していた。
僧侶や修行僧といった宗教的外見は、多くの国で“無垢で敬われる存在”として受け止められる。
そのため、空港職員や入国審査官も無意識に警戒を弱めてしまう。
「宗教関係者に疑いの目を向けるのは失礼だ」という社会的配慮が、逆に犯罪者にとって“最高の隠れ蓑”となった。
出国地のカンボジアでは、僧侶や修行者が日常的に空港を利用しており、彼らに対する検査は最低限にとどまる。
とくに若い僧侶が団体旅行や寄進活動のために移動することは珍しくないため、職員側も警戒を緩めやすい。
この構造的な「信頼の文化」を悪用した点に、今回の密輸の本質がある。
宗教的外見を利用した密輸は、実は過去にも散発的に報告されている。
東南アジアでは、僧衣や修道服を用いた薬物・宝石・資金の不正運搬がしばしば確認されており、
今回の事件もそうした“伝統的信頼”を逆手に取った手口の延長線上にある。
「僧侶=善」という社会通念は、人々の心の奥に深く根付いている。
その信頼を利用し、あたかも信仰の旅を装って入国しようとした行為は、単なる犯罪を超えて“文化的裏切り”とさえ言える。
しかも、実行犯が21歳の学生であった点は、信仰よりもむしろ「若者の無知や弱さ」を搾取する構造を浮き彫りにした。
報酬をちらつかせ、信頼を装い、宗教の衣をまとわせる。
密輸が発覚したのは日本の入国時点であり、この瞬間から司法管轄は日本に移る。
刑法第2条が定めるとおり、「国外で行われた行為でも、日本に結果を生じた場合」は日本法が適用される。
つまり、カンボジアを出国した時点では自由の身であっても、日本に持ち込もうとした瞬間に日本の法域内の犯罪となる。
過去の判例では、密輸未遂でも懲役10年以上、場合によっては無期懲役が言い渡された例もある。
覚醒剤取締法および関税法は、未遂を含め厳罰を定めており、今回も同様の重罪となる見込みだ。
この事件は、国境を越えた密輸構造の変化を象徴している。
従来のような「運び屋」「隠し底スーツケース」ではなく、文化的・心理的信頼を利用した擬態型密輸が登場した。
その背後には、SNSで募集される闇バイトや「安全に稼げる仕事」として若者を勧誘する国際ブローカーの存在がある。
信仰や文化が築いてきた「人への信頼」は、社会を支える大切な基盤のはずだった。
だが、それを悪用し、善意の象徴を犯罪の道具に変える者たちがいる。
僧衣の下に隠されていたのは、信仰ではなく、無関心と欺瞞の粉末だった。