成田空港の税関職員が一人の旅行者に目をとめた。


僧衣をまとい、数珠を手にした若い男。

その姿は、一見すれば宗教修行を終えて帰国する僧侶そのものだった。


だが、穏やかな外見の裏に隠されていたのは、覚醒剤数キロ分の粉末だった。

 

 

逮捕されたのは、台湾出身の21歳の大学生。

カンボジアから日本へ薬物を密輸しようとした疑いで、到着直後に成田空港の税関職員によって身柄を確保された。


押収された薬物は、市場価格で数千万円規模とされ、本人は「頼まれて運んだ」「中身は知らなかった」と供述しているが、荷物の構造や行動履歴から、明確に計画的な犯行だったとみられている。

 

 

この事件が注目を集めた理由は、密輸量の多さだけではない。
男が身にまとっていた「僧衣」という偽装こそが、国際犯罪の新しい傾向を象徴していた。
僧侶や修行僧といった宗教的外見は、多くの国で“無垢で敬われる存在”として受け止められる。


そのため、空港職員や入国審査官も無意識に警戒を弱めてしまう。
「宗教関係者に疑いの目を向けるのは失礼だ」という社会的配慮が、逆に犯罪者にとって“最高の隠れ蓑”となった。

出国地のカンボジアでは、僧侶や修行者が日常的に空港を利用しており、彼らに対する検査は最低限にとどまる。
とくに若い僧侶が団体旅行や寄進活動のために移動することは珍しくないため、職員側も警戒を緩めやすい。
この構造的な「信頼の文化」を悪用した点に、今回の密輸の本質がある。

 

 

宗教的外見を利用した密輸は、実は過去にも散発的に報告されている。
東南アジアでは、僧衣や修道服を用いた薬物・宝石・資金の不正運搬がしばしば確認されており、
今回の事件もそうした“伝統的信頼”を逆手に取った手口の延長線上にある。

 

「僧侶=善」という社会通念は、人々の心の奥に深く根付いている。
その信頼を利用し、あたかも信仰の旅を装って入国しようとした行為は、単なる犯罪を超えて“文化的裏切り”とさえ言える。


しかも、実行犯が21歳の学生であった点は、信仰よりもむしろ「若者の無知や弱さ」を搾取する構造を浮き彫りにした。
報酬をちらつかせ、信頼を装い、宗教の衣をまとわせる。
 

 

密輸が発覚したのは日本の入国時点であり、この瞬間から司法管轄は日本に移る。
刑法第2条が定めるとおり、「国外で行われた行為でも、日本に結果を生じた場合」は日本法が適用される。
つまり、カンボジアを出国した時点では自由の身であっても、日本に持ち込もうとした瞬間に日本の法域内の犯罪となる。

過去の判例では、密輸未遂でも懲役10年以上、場合によっては無期懲役が言い渡された例もある。
覚醒剤取締法および関税法は、未遂を含め厳罰を定めており、今回も同様の重罪となる見込みだ。

 

この事件は、国境を越えた密輸構造の変化を象徴している。
従来のような「運び屋」「隠し底スーツケース」ではなく、文化的・心理的信頼を利用した擬態型密輸が登場した。
その背後には、SNSで募集される闇バイトや「安全に稼げる仕事」として若者を勧誘する国際ブローカーの存在がある。

信仰や文化が築いてきた「人への信頼」は、社会を支える大切な基盤のはずだった。
だが、それを悪用し、善意の象徴を犯罪の道具に変える者たちがいる。

 


僧衣の下に隠されていたのは、信仰ではなく、無関心と欺瞞の粉末だった。

 

 

 

 

 

刑務所内でも、いわゆる「娑婆」の世界と同様、地位争いやいじめなどの様々な問題が日々起こっている。

 

受刑者同士の喧嘩から、刑務官による暴行、逆に職員が襲われる事件まで。
閉ざされた刑務所の中では、社会の目が届かないところで、様々な暴力が静かに繰り返されてきた。
 

 

受刑者同士の暴力

刑務所で最も多いのは、受刑者同士の暴力だ。
雑居房では複数人が同室で生活するため、些細な言い争いが殴り合いに発展することもある。

2020年、札幌刑務所で受刑者が同房者を金属スプーンで刺して負傷させた事件が発生。
2022年には宮城刑務所、2023年には福岡刑務所でも暴行事件が報告された。
動機の多くは「私物の扱い」「貸し借り」「作業態度への不満」といった日常的なものだ。

だが、刑務所では被害を訴えにくい空気も根強い。
報復を恐れて沈黙する受刑者も多いのだ。

実際に受刑者が死亡する事件も多発している。

2003年東京拘置所、2007年福岡刑務所、2009年盛岡刑務所、2015年奈良少年刑務所、2018年広島刑務所…など報道はそう多くないが、死亡するに至る事件も多く発生しているのが事実だ。

ただ、「たまたま死ななかった」というケースも多く、暴力事件としてはかなりの数があるのではないかと考える。

 

 

刑務官による暴行

2023年、名古屋刑務所で刑務官3人が受刑者に暴行を加えた事件が発覚した。
監視カメラに映っていたのは、日常的に蹴る、殴るといった暴力の様子だった。
刑務所内部での暴行が証拠映像によって明るみに出たのは異例であり、
この事件をきっかけに、刑務官の処遇と監視体制の見直しが全国で進められた。

背景には、慢性的な人手不足と長時間労働、そして「厳しさも更生の一環」という古い意識があった。
職員の間では「しつけと暴力の境界」が曖昧なまま、閉鎖された職場文化の中で不正が常態化していたと指摘されている。

 

 

刑務官への暴力

一方で、刑務官が受刑者から暴力を受ける事件も後を絶たなかった。
2021年には関東地方の刑務所で、受刑者が職員を殴打して骨折させる事件が発生。
同年、拘置所内でも被告人が暴れ、制止しようとした刑務官が負傷する事案が報告されている。

特に、薬物依存や精神疾患を抱えた受刑者による突発的な暴力が増加傾向にあり、
矯正局の資料でも「職員被害件数」は年々増えていた。
現場の刑務官からは「我々も被害者だ」「命の危険を感じることもある」といった声が上がっていた。

 

 

暴力が絶えない理由としては、刑務所は社会の秩序を取り戻すための場所であるはずだが、その内部では暴力が秩序を保つ手段になっていたとも言われる。

原因は複合的だ。

・職員不足と過重労働

・精神疾患・高齢化によるトラブル増加

・「報告すれば自分が損をする」という沈黙の文化

・監視や外部チェックの届かない閉鎖性

こうした構造的問題が、暴力を温存する温床となっていた。

 

 


暴行が事件化する裏では、数え切れない小さな暴力と緊張が日常に潜んでいる。

暴力の連鎖を断ち切るには、処罰の強化よりも、職員教育と受刑者の精神的ケア、そして「外から見える刑務所」の実現が不可欠だ。

 

閉ざされた壁の中で起きたことは、社会の影でもある。

一般の社会で行われていることが、この小さな閉ざされた世界でも発生しているのだ。
 

 

芸能界における“スポンサーとの会食”は、今や避けて通れない慣行となっている。
作品への出演やCM契約において、企業との関係性を築くことは不可欠だ。

 

しかし、その会食の場に“組織系の人間”が同席するケースが、依然として存在しているという指摘も少なくない。

特に若手女優の場合、業界の仕組みに不慣れなまま参加することが多い。事務所を通じて招かれた会合であっても、そこにどのような人物が出席しているのか、本人には判断がつかないことがある。


スポンサー企業の背後に“投資グループ”や“関係会社”を介して、組織関係者が出資している構造は珍しくない。芸能界の資金循環の複雑さが、そのままリスクの温床となっているのだ。

 

 

一度、そうした人物と写真を撮られたり、同席を報じられたりすれば、芸能人側のダメージは計り知れない。
たとえ本人が意図的に関係を持ったわけではなくても、「反社会的勢力との交際」とみなされる可能性がある。

 

事務所もスポンサーも、イメージを守るために契約解除や活動自粛という決断を下さざるを得ない。
結果として、被害を受けるのは常に芸能人側である。

 

この問題の根底にあるのは、芸能界が依然として“金と影”の構造から脱却できていないことにある。
華やかなテレビの裏側には、さまざまな出資者、仲介者、興行関係者が存在し、その一部に“組織系の人間”が紛れ込んでいる。

 


一見ビジネスライクに見える会食の場も、実際には「人脈づくり」という名の支配関係が形成されることがある。

若手タレントの多くは、そうしたリスクを事前に知る術を持たない。
表舞台に立つほどに、“誰と食事をしたか”さえも管理が求められる時代になったと言えるだろう。

 

 

お笑い業界では、番組終了後の打ち上げは日常的な行事である。
スタッフや共演者との親睦を深める場として、自然な形で行われてきた。


しかし、そこにもまた、思わぬリスクが潜んでいる。

居酒屋やクラブの個室で開かれる打ち上げに、“顔が広い客”として組織関係者が紛れ込むことがある。
多くの場合、芸人たちはその人物の素性を知らない。


「応援してくれる常連」「業界の知人」程度にしか認識していないまま、親しげに写真を撮られるケースも少なくない。
問題は、その写真が公開された瞬間に起こる。


たとえ一度の接触であっても、“反社会的勢力との交際”という烙印が押される可能性があるのだ。

お笑い界は特に“庶民的な距離感”を大切にする文化があるため、ファンや支援者との境界が曖昧になりがちである。
だが近年では、企業スポンサーやテレビ局が「反社会的勢力との接点ゼロ」を求めるようになり、その曖昧さは命取りにもなる。


SNS時代では、たった一枚の写真がキャリアを終わらせることもある。

芸人本人の落ち度というより、むしろ“周囲の管理の甘さ”が問題だろう。
事務所や制作会社が、どのような人物が芸人の周囲にいるかを把握しきれていない。
芸能界が抱えるこの構造的な隙を、組織的な人間が巧みに利用しているとも言える。

「知らなかった」では済まされない時代。


芸能人の交友関係の透明性が、今や信用の一部となっている。
だが一方で、芸能人が過剰に疑心暗鬼になり、人間関係を制限せざるを得ない現実も生まれている。
その歪んだバランスの中で、笑いを生業とする人々もまた、“光と影”の境界線上を歩かされている。

 

 

そして何より厄介なのは、“発覚のきっかけ”が本人の外側から生まれる点だ。
会食を担当した店のスタッフや、偶然その場にいた関係者がSNSで投稿し、そこに「怪しい人物がいた」と書き込む。
その投稿を週刊誌が拾い上げ、「若手女優が反社会的勢力と会食か」という見出しが躍る。
当事者たちは事情を知らぬまま、“ネット発の噂”に巻き込まれていく。

 


いまや一枚の写真も、一行の投稿も、芸能人にとっては致命傷になり得る時代である。

事実よりも“印象”が先行するこの構図こそ、現代の芸能界が抱える最も深い闇の一つである。

 

 

 

繁華街で目立つ飲食店の中には、独特の“やんちゃ風”を打ち出す店がある。
タトゥー、金のアクセサリー、強面なスタッフ――そうした雰囲気をあえて演出し、若者の支持を集める。

 

(これは筆者の個人的な意見だが、“そうゆう店“はなぜか田舎の店、やラーメン屋が多い気がする。)

しかし、その一部には、裏社会と繋がりを持ちながら経営を続けているケースも少なくない。

 

かつてのように露骨な「みかじめ料」や「用心棒契約」は減ったものの、
その代わりに、裏社会が「支援者」や「ビジネスパートナー」として関与する構図が生まれている。

 

新しく飲食店を開く際、物件の契約や人材確保、業者の紹介などで、“地元のつながり”を頼るオーナーは少なくない。
その中に、裏社会の関係者が介在することがある。

地元のつながりと言うとかなりざっくりしたものになるが、実際には先輩、後輩関係などもとから何かしらの上下関係があっただけでも後輩は先輩(年上)を敬わないといけないという風潮がある。

これはその場所で事業をするのであれば避けては通れない道になるのだ。

 

表向きは「顔が広い」「地元に強い人」として扱われるが、実態としては、地域の権益や人脈を管理する半グレーゾーンの影響力者だ。
彼らは開業を支援する見返りに、後々の「協力金」や「紹介料」を要求することが多い。公式に言うなら「仲介手数料」と呼ぶところも少なくない。

 

近年では、オーナー自身が“やんちゃなキャラクター”を打ち出し、強面の仲間や派手な生活、口調をSNSなどで発信する例も見られる。

それは一見、単なるブランディングに見えるが、裏では裏社会との関係を隠すための演出にもなっている。
強面の人物が店に出入りしても「そういうノリの店」と思わせることで、不自然さを消してしまうのだ。

 

一部の店では、裏社会から酒・タバコ・医薬品などを非公式に仕入れるケースもある。
表向きは「現金取引」や「限定品の販売」として処理されるが、中には麻薬や違法ドラッグを裏で扱う店も存在する。

 

オーナーが直接関与していなくても、店の一部が「裏の取り引きの受け渡し場所」として利用される場合があり、警察の摘発対象になる危険性は極めて高い。

 

裏社会との関係は、一度築かれると簡単には断ち切れない。
仕入れ、警備、宣伝、人材――いずれかの面で依存が生まれ、次第に店の経営権まで握られていく。

オーナー側も、「客を紹介してもらった」「トラブルを解決してもらった」など、小さな“恩義”を理由に関係を続ける。
こうして、表向きは独立した飲食店でありながら、実態は裏社会の資金循環の一部となっていくのだ。

 

暴力団排除条例の施行以降、組織としての関与は難しくなったが、
“元構成員”や“関係者の知人”を通じて関係を維持する手口が一般化している。
資金の流れを個人名義に分散し、SNSや口伝えで人脈を保つことで、表向きの証拠を残さない。

こうした形で裏社会が「飲食業界の影」として生き続けているのが実情だ。

 

飲食業界は、資金の出入りが激しく、人脈に依存しやすい。
そこに裏社会が入り込む余地が生まれる。

「助けてもらっただけ」「紹介されたから」――そうした些細な縁から、店もオーナーも取り返しのつかない関係に陥る。
“やんちゃ”という言葉の裏には、今も見えない共犯関係が静かに息づいている。

 

 

 

彼らはスーツも着ればSNSも使う。

 


暴力団でもなく、一般市民でもない――いわゆる“半グレ”と呼ばれる存在だ。
明確な組織形態を持たず、表では飲食業やイベント運営、SNSインフルエンサーとして活動しながら、裏では詐欺・薬物・恐喝・資金洗浄などに関与している。
暴力団排除条例の強化によって「ヤクザ」が動きにくくなった一方で、法の網の外側で動く半グレの勢力が拡大している。

 

暴力団と違い、半グレには明確な階層や盃のような儀式がない。
代わりに、SNSや地域コミュニティを通じて“緩やかに”つながる。
一人ひとりは一般市民として暮らし、顔も名前も社会に溶け込んでいる。
だが、事件が起きた瞬間に数十人単位で集まり、暴力や詐欺行為を行う。
「無所属ゆえに組織犯罪処罰法の対象にしにくい」という法の隙間を突いている。

 

 

半グレが入り込む三つの領域

1. 経済活動への浸透
 飲食店、ナイトクラブ、イベント会社などを通じ、資金源を合法的に見せかける。
 近年は暗号資産やSNS広告を利用した“新しいマネロン”も確認されている。

 

2.若者コミュニティの取り込み
 高級車・ブランド品・現金バラマキなどをSNSで発信し、若年層を魅了する。
 「ヤクザのように怖くない」「仲間意識がある」と思わせ、軽い気持ちで関わった若 者が詐欺や運び屋に利用されるケースも多い。

 

3. 暴力の請負化
 暴力団が手を出しにくいトラブル処理、債権回収、脅迫などを“外注”の形で請け負う。見た目は一般人のため、介入が遅れることが多い。

 

 

半グレの危険は、単なる犯罪行為にとどまらない。
彼らは社会の“境界”を曖昧にし、暴力と日常を共存させる。

暴力の匿名化:誰が命令者か特定できず、責任の所在が曖昧。

・若者文化の汚染:金とステータスを“努力なしで得る手段”として半グレ的生き方を発信。

・経済への影響:資金洗浄を通じて合法経済に不正資金が混入し、業界の信用を損なう。

・暴力団の代替機能:半グレが“新しい裏社会”として機能しつつあり、暴力団排除政策の副作用になっている。

 

半グレの存在を許しているのは、社会の側でもある。
「関わらなければいい」「金を払えば済む」という無関心が、彼らに活動の余地を与えている。
実際、イベントや飲食、アパレルなどの業界では、「半グレかもしれないが、客だから」と目をつぶるケースも少なくない。
暴力や不正が“日常の一部”として許容される空気が広がれば、社会全体の倫理基盤が揺らぐ。

 

 

半グレは「暴力の次の形」だ。
彼らの危険は、銃や刃物ではなく、社会に溶け込む巧妙さにある。
夜の街で笑いながら酒を飲む隣人が、翌日には匿名の脅迫者に変わる――。
その曖昧さを許す社会であれば、次の被害者は誰でもあり得る。

 

 

この記事は2023年12月初旬に、Web版特集コーナーでの記事にしたいと

に取材を受けたものです。重複するものもありますが、Web記事では書ききれなかった心情も記載しています。

 

 

 

普段私は、家でこのブログを書いたりネタを思い出したりする。

家から出るときは大抵、「人と会う」時のみだ。

今日は取材したいネタがあったので取材を申し込みに外出していた。その取材はうまくいったが、帰りに突然の大雨に見舞われたので仕方なくコーヒー屋に入った。

「カフェ」と私が言うのには似合わなさすぎる。

さておき、そのコーヒー屋で妙な話を聞いてしまったので早速書いてみたいと思った。

 

聞こえてきた内容はどうもお金に困った「同級生」のような感じだった。

見たところ30代前半。いや、20代後半か?

ただ同級生の話し方を聞いているととても落ち着いており、30代を感じさせた。

 

両社とも女性。相談者は子連れで旦那の事業がうまくいかずに生活する資金が足りないから気持ちでいいから貸してほしい。―――そんな話だった。

 

その話の結末としては、話しの流れ的にはすでに相談者は同級生に借りていたようで返せず、さらに追加で貸してほしいと頼み込んでいたのだった。

同級生は淡々とお金を借りる以外に何か方法を一緒に模索しようと、金銭的に助けるだけでなく相手に寄り添った提案をしていた。

それを聞いていた私は「このような相手に寄り添える人は大切にした方がいい――」単純にそう思った。初旬に

 

街角のカフェやSNS上で、「副業」や「ちょっとした貸し付け」をうたう個人が増えている。

 

表向きは“友人同士の貸し借り”や“副業仲間への融資”に見えるが、実態は利息制限法や出資法の上限を超える違法金利を取る“個人の闇金”になっている例が散見される。

被害は若年層や副業に手を出したばかりの人、生活が苦しい人に集中している。

そして何よりも金利の仕組みなどを知らない若者はこう言う人物にまんまと騙されるのだ。

金融庁などが指摘するように、無登録で高金利を取ること自体が犯罪行為・重大なリスクだ。

ただ、思いもよらぬ形で加害者(金貸し)をしてしまったという人物もいる。

古い友人から高額な利息を提案してきて、しっかり返してもらった後に被害届を出されるのだ。

そのほかにも1件貸付を行っただけで味を占め、広範囲に手をかけていくような人物もいる。加害者への“なり方”も様々なのだ。

 

 

スマートフォン一つで知り合いを募り、送金サービスで資金移動ができる時代、個人間融資は以前より敷居が低くなった。

SNSや地域のコミュニティ、クラブ的なつながりで「誰でも簡単に貸す」「返済は気にしないで」といった声が出回ると、そこにビジネスチャンスを見出す人が現れる。

貸す側にとっては、銀行や正規の貸金業登録が不要で初期コストが低く、小口で何件も回せば短期間で利息収入を稼げるという誘惑がある。

一方で借り手側は、正規の金融機関や消費者金融に申し込めない事情(信用履歴の問題、急な資金需要など)から、個人の短期融資に頼らざるを得なくなる。

こうした需給の歪みに悪質な個人が入り込み、違法金利や暴力的な取り立てに発展する。消費者相談窓口にも、SNS経由での個人間融資トラブルの相談が増えているという報告がある。

 

個人運営の違法貸付に見られる代表的な手口は次の通りだ。

1. SNSやメッセージアプリでの勧誘──「すぐ返してくれればOK」「審査不要」「即振込」といった文面で近づく。

2. 短期間・高利回りの契約書や口約束──年率換算で数十%〜数百%という水準を提示する。利息計算を複雑にして、実際の負担を分かりにくくすることがある。

3. 少額を繰り返し貸し付ける“回転型”──一件ずつは小額でも、継続的な借り換えで総負担が膨らむ。

4. 保証人や名義の提出を要求するケース──個人情報を握り、強めの督促や脅し材料に使う。

5. 強引な取り立て──連絡の執拗化、勤務先への連絡、家族への圧力、悪質な場合は暴力や脅迫に発展する。金融庁の監視対象となっている違法行為だ。

 

 

被害の実際──「借り直し地獄」と個人情報の悪用

被害例は典型的だ。

最初は数万円を「知り合い」から借り、返済期日に余裕がないと追加で貸し付けられる。

借り換えを繰り返すうちに、利息負担が元本を上回り、返済が止まらなくなる。

支払不能に陥ると、貸し手は電話やメッセージで追い込み、場合によっては勤務先や家族に連絡して支払いを迫る。

さらに、本人の同意なく撮影した写真や交友録が脅迫材料として使われるケースもある。

消費生活センターや金融庁に寄せられる相談は、こうした“個人ヤミ金”に関するものが増加傾向にある。

 

法的リスクと刑事罰

日本の法律は、利息の上限や無登録営業を強く規制している。

利息制限法に基づく上限(貸付額に応じて年15〜20%)を超える利率は民事上無効となり、出資法で定める上限(刑事罰の対象)を超えれば刑事責任が問われる。

さらに無登録で貸金業を営むことや、出資法違反(高金利での貸付)には懲役や罰金の罰則が科される可能性がある。最近の法改正・運用強化により、違法な高金利や無登録営業への刑事罰や行政処分は引き上げられている。個人であっても摘発・処罰の対象になる。

 

被害者が警察や相談窓口に行きづらい理由は複数ある。

まず、借金の事実自体を公にしたくないという恥の感情だ。次に、脅迫や報復を恐れて通報をためらう人が多い。さらに、個人間の契約という形を取られていると、法的な救済の仕方が分からないと感じるケースも多い。

結果として被害が長期化し、被害届や相談が遅れることで被害回復が難しくなる。金融庁や消費生活センターは早期相談を呼びかけている。

 

「身近な人からの融資」は心地よい救いに見えるが、それが違法金利や脅迫に変わる瞬間は案外早い。

個人間の貸し借りは、透明性と記録が何より重要だ。困ったときに頼れる公的窓口の存在を、あらかじめ知っておくことが被害を防ぐ最大の防御である。

 

 

 

前回出した記事について、“勧誘の方法”や“魅力に引き出し方”について、時代によってどのような方法で行われていたのか、今の例話の時代まで、どのように変貌しているのかが気になってしまい、調べることにした。

 

結果としていえることは、「手口も道具も変わっただけで、本質は何一つ変わっていない。」ということだ。

 

 

昭和初期――「職業あっせん」の名を借りた罠

昭和初期から戦後にかけて、地方の若者たちは「東京で仕事がある」「寮もある」と声をかけられ、集団就職の名目で上京した。
だが実際に待っていたのは、建設現場や港湾労働、風俗業など、暴力団が仕切る現場だった。

「口入屋」と呼ばれるブローカーが存在し、若者を“紹介”して手数料を得る。
逃げられないように前借金を背負わせ、借金を理由に労働を強制する――いわば合法を装った人身取引だ。

その構造は、現在の「闇バイトで借金返済」「逃げられない脅迫」と何も変わらない。

 

昭和後期~平成初期――街角のチラシと電話の勧誘

1980~90年代になると、勧誘の舞台は繁華街に移った。
ビラ配り、深夜の電話勧誘、雑誌の求人広告。

「誰でもできる」「簡単に稼げる」――この言葉に惹かれて連絡を取る若者が多かった。
だが、紹介された仕事は「金融業の取り立て」「風俗関係」「違法販売」など、グレーゾーンの業種がほとんど。

当時は携帯も普及しておらず、一度会ってしまえば逃げるのは難しい。
断れば脅され、従えば犯罪の片棒を担がされる。
暴力と支配が“リアル”に存在した時代だ。

 

 

ガラケー時代(2000年代前半)――匿名化の始まり

携帯電話が一般化すると、闇の勧誘もネットへ移行する。
掲示板サイトや出会い系の書き込みで「高額バイト」を装い、メールで連絡を取る手口が増えた。

直接会うことが少なくなり、指示はすべてメールや掲示板で完結する。
この匿名性が、裏社会にとって大きな転換点となった。

やがて、若者に「詐欺用口座を譲る」「荷物を受け取る」などを依頼し、報酬を支払う形の犯罪が急増。
この時期に「半グレ」と呼ばれる新しい勢力が生まれ、従来の暴力団より軽装なネットワーク型の犯罪集団が登場する。

 

 

スマホとSNSの時代――“自ら近づく”若者たち

ひとつ前の記事でも述べているように、現代では、SNSが勧誘の主戦場となった。
「高収入」「即金」「顔出し不要」――
そんな言葉とともに、札束やブランド品の写真を投稿し、フォロワーを釣る。

勧誘はもはや“スカウト”ではない。
若者のほうが、夢を追うように自分からDMを送る時代になった。
犯罪の指令は匿名性の高いメッセージツールを利用して届き、報酬は電子マネー。
リーダーの顔も知らないまま、気づけば詐欺や強盗の実行役になる。

SNSが生み出したのは、暴力ではなく“憧れによる支配”だ。
見えない圧力と、比較による焦りが、若者の判断を鈍らせていく。

 

 

変わらない構造――「希望を餌にした搾取」

昭和の「職業あっせん」、平成の「高収入バイト」、令和の「闇バイト」。
どの時代も根底にあるのは同じだ。

  1. 経済的に苦しい若者
  2. 都市への憧れ・成功願望
  3. 情報格差による支配

時代が変わっても、“希望を餌にした搾取”という構造は変わらない。
暴力団が関与していた時代から、今では匿名のSNSアカウントがその役割を担っているだけだ。

 

ここでは昭和初期からの実情を書いているが、若者を利用する構図は、何も今に始まったことではない。
江戸や明治のころから、職を求める若者を食い物にする者はいたのだ。

 

 

「若者の自己責任」と片付けるのは簡単だ。
だが、どの時代にも「誘惑されるほどに追い詰められた若者」がいた。
それは個人の問題ではなく、社会の貧困、孤独、格差、承認欲求の問題でもある。

闇バイトがなくならないのは、“使い捨てにされる若者が常にいる社会”だからだ。
SNSはただ、その現実をより見やすくしたに過ぎない。

 

犯罪の形は変わっても、人を利用する側の論理は変わらない。
「楽して稼げる」という言葉の裏には、必ず誰かの搾取がある。
それを見抜く目を持てるかどうか――
それが、現代を生きる私たち一人ひとりに問われている。

 

 

 

インスタグラムで見た高級車、札束を並べた写真、夜景のバーで笑う若者。
「こんな生活、俺にもできるかもしれない」――そう思った瞬間から、落とし穴は始まっている。


SNS上の「派手な暮らし」は、今や犯罪組織の“広告塔”でもある。
若者たちは知らぬ間に、その演出された夢の裏側で、犯罪の駒にされていく。

 

「日払い可」「誰でもできる」「高収入」「顔出し不要」――。
SNSのタイムラインには、こうした甘い言葉が並ぶ。


若者たちはアルバイト感覚で応募するが、実際の仕事内容は「口座の受け渡し」「荷物の回収」など、詐欺や薬物犯罪の実行役そのものだ。

警察庁によれば、近年増加している“闇バイト”型犯罪の多くがSNS経由で勧誘されており、特に10代後半から20代前半の関与が目立つ。
「副業」「即金」といった言葉の裏に、半グレや犯罪グループが潜む構造がある。

 

SNSに投稿される“リッチな暮らし”は、若者の心理に強く響く。
ローン、奨学金、アルバイト生活のストレス、将来への不安。
そこに突然、現れる「すぐに10万円稼げる」「誰にもバレない」という現実的な誘惑。
最初は小さな口座売買やデータ入力の仕事に見えるが、少しずつ犯罪の核心へと引きずり込まれる。

 

「自分はただの運び屋」「言われた通りやっただけ」――。
気づいたときには、詐欺グループの一員として警察に逮捕される。
SNSで見た“成功者”たちは、実はその裏側にいるリクルーターだ。

闇バイトは、もはや昔の暴力団のように顔を合わせない。
連絡はテレグラムやディスコードなど匿名性の高いアプリ。
「誰に指示されているのか分からない」まま、犯罪行為だけが指示され、報酬は電子マネーで送られる。
顔の見えない命令者、匿名の仲間、誰も責任を取らない世界――。
だからこそ、若者は「自分は罪を犯していない」と錯覚する。

 

勧誘の手口は年々巧妙化している。

・まず、派手な生活を演出するアカウントを作り、「この仕事で成功した」と投稿。

・フォロワーに「副業興味ありますか?」とDMを送る。

・最初の仕事は「簡単で安全」。

・その後、「次はもう少し高額な仕事」とエスカレートしていく。

この段階的手法によって、若者は少しずつ「犯罪の境界感覚」を失っていく。
やがて罪悪感よりも「報酬」や「仲間意識」が優先されるようになり、抜け出せなくなる。

 

闇バイトに関与した若者の多くは、もともと犯罪意識が薄い。
それでも法律上は、詐欺・強盗・脅迫といった重大犯罪の実行犯として扱われる。
「騙された」と訴えても、刑事責任は免れない。
さらに、個人情報や家族情報を握られているため、辞めようとしても脅されるケースが後を絶たない。

この構図では、若者は“使い捨て”にされる。
組織にとっては、逮捕された一人を切り捨てれば済む話。
次の“応募者”は、今日もSNSで見つかる。

 

社会が抱える構造的な問題

若者が巻き込まれる背景には、社会構造の影がある。
・非正規雇用や低賃金による経済的不安
・「努力が報われない」と感じる閉塞感
・承認欲求とSNSの“比較文化”
・そして、孤独

これらが合わさることで、「簡単に稼げる」「成功者のように生きたい」という幻想が生まれる。
犯罪グループは、その心理の隙を正確に突いてくる。

 

SNSは夢を見せる場所であり、同時に現実を歪める鏡でもある。
“楽して稼げる”という言葉の裏には、誰かが搾取される構造がある。
派手な生活の光の裏に潜む影――それを見抜ける目を、社会全体で育てる必要がある。

 

 

 

2023年、タイから帰国しようとした日本人女性が、バンコクの空港で拘束された。
スーツケースの底から覚醒剤が見つかったのだ。
しかし彼女は「頼まれただけ」と話し、密輸の意図を否定した。
荷物は、現地で知り合った日本人男性から「日本の友人に渡してほしい」と言われ、封を開けないまま預かったものだったという。

 

こうしたケースは、実はアジア圏で近年増加している。
知らぬ間にヤクザや国際麻薬組織の「運び屋」に仕立て上げられる旅行者が後を絶たない。

 

「どうして引き受けたのか?」という疑問は当然だ。
だが、犯罪組織は人の“善意”や“油断”を徹底的に利用する。

典型的な手口はこうだ。

・旅先で偶然知り合った「同じ日本人」や「親切な現地スタッフ」を装う。

・数日間にわたり一緒に行動し、信頼関係を築く。

・「荷物を一緒に日本に送ってくれない?関税が安くなるから」など、
一見もっともらしい理由を説明する。

多くの人は、「断る理由がない」「同じ日本人だから安心」と思ってしまう。
中には“お礼”として小さな謝礼金を示す場合もあり、
「ただのお手伝い」と錯覚させるよう仕向けられている。

つまり、承諾は信頼と油断の積み重ねの末に生まれる。
突然「知らない人に頼まれる」のではなく、“知っている人”になってから頼まれるのだ。

 

 

依頼者は「日本にいる知人に渡して」と伝えるケースが多い。
実際には、その“知人”こそがヤクザや半グレ、あるいは海外マフィアの受け取り役だ。

旅行者が帰国すると、空港で荷物の受け取りを待つ人物が現れる予定になっている。
しかし、空港検査で麻薬が発覚すれば、旅行者はその場で逮捕。
依頼者も受け取り役も姿を消す。

旅行者は「運び屋として利用された」だけでなく、
結果的に自分の名義で密輸した“主犯扱い”になる。
組織側は、最初からそうなることを計算済みだ。

 

では、なぜ彼らは他人を使うのか。
理由は明確だ。

「疑われにくい」「捕まっても切り捨てられる」からである。

ヤクザや麻薬組織にとって、一般旅行者はリスクを肩代わりしてくれる“使い捨ての盾”だ。
もし荷物が摘発されても、本人は「知らなかった」と主張し、組織までたどり着かない。
没収や逮捕も想定済みであり、
組織は複数の「運び屋」を同時に走らせて、1件でも成功すれば利益が出る仕組みになっている。

つまり、一人の逮捕は計画の一部にすぎないのだ。

 

逮捕されることが分かっていて、なぜ麻薬を持たせて入国させようとするのか。彼らは彼らなりに、“実験“をしているのだ。

 

 

1成功率の計算(期待値)の問題

 組織は「全員が成功する必要はない」と計算しているため、たとえ100件のうち10件が摘発されても残り90件で利益が出れば計画は成立するという期待値の論理で動いているのだ。

 

2使い捨ての“シールド”/責任の分散

 一般人を運び屋に使う最大の利点は、組織幹部に繋がる証拠が出にくくなる点にある。摘発されても被疑者は「頼まれただけ」「中身を知らなかった」と主張して捜査がそこで止まることが多く、組織は幹部を守るために使い捨ての盾を用いるのだ。

 

検査の“試し打ち”やカモの選定
小〜中規模の荷物を運ばせて空港・税関の反応を試す、あるいはどの隠匿方法が有効かを見極めるための「試し打ち」として一般人を使うことがある。成功パターンを把握すれば、その後に同じ手口で大きな輸送を試みることができるのだ。

 

複数ルート・多重化(冗長化)戦術

一度に大きな貨物を動かすよりも、複数の小口を並行して運ぶ方が安全だと組織は判断している。小口の一部が失敗しても全体としては利益が残るため、没収は輸送損としてあらかじめ織り込まれているのだ。

 

信用・仲介費用・手間の節約

 現地の仲介業者やブローカーに報酬を支払って運ばせる方が、組織が自前で行うよりも手間とコストが低くて済む。失敗時の責任は仲介者に押しつければよく、内部コストが抑えられるのだ。

 

混乱と目くらまし

あえて摘発されやすい小物を走らせることで捜査リソースをそこに集中させ、本命の大型密輸を別ルートで通す「目くらまし」戦術を取ることがある。摘発そのものが捜査の注意を逸らす道具になり得るのだ。

 

代替的な利益(情報・関係の構築)

運び屋候補を試す過程で、誰が協力しやすいか、どの職員が弱点かなどの「人に関する情報」を得られること自体が組織にとって重要な収穫となる。こうした情報は今後の作戦に役立つ資産なのだ。

 

心理的・脅迫的効果

運び屋が拘束された際、その家族や関係者に対する圧力や脅迫材料として利用し、結果的に組織の要求を飲ませるための手段にすることがある。心理的効果や二次的な利用まで見越して一般人を使っているのだ。

 

日本の麻薬取締法や関税法では、「中身を知らなかった」は弁解にならない。
所持・輸入の形跡があれば、密輸の容疑で起訴される可能性が高い。
過去には無罪を主張しながらも、長期の拘留・裁判に苦しんだ例もある。

また、海外で逮捕された場合はさらに厳しく、一部の国では死刑判決が下るケースもある。

 

知らない人の頼みを決して聞き入れないようにすることを自身に言い聞かせるべきである。

そして聞き入れるときには、何があっても仕方がないと覚悟を決めておくことが必要不可欠である。

 

 

 

刑務所に服役している父親の子どもにとって、入学式は喜びと同時に寂しさを背負う日だ。


真新しいランドセルを背負い、母親の手を握って校門の前に立つ。
だが、周囲の子どもたちが「お父さん」と駆け寄る姿を見ると、どうしても肩を落としてしまう。

そこに現れるのが、父親の仲間たちだ。
黒いスーツに身を包み、整えた髪に光沢のある靴。
一見すれば会社員か親族にしか見えないが、彼らは「代役」として式に臨む。


母親の隣に並び、子どもの背後に立ち、記念写真では堂々と父親の位置を埋める。

校長の挨拶、担任の紹介。式が進む間、仲間は静かに見守る。
ときおり小さな声で「背筋伸ばせよ」と囁き、子どもを励ます姿は、まるで本当の親のようだ。

 


式が終わると、校門前でランドセル姿の子どもと写真を撮り、母親に「いい顔してるな」と笑みを向ける。

その後、写真はすぐにプリントされ、刑務所へと届けられる。
面会室で差し出された写真を見つめ、服役中の父親は無言になる。
「代わりにちゃんと行ってきた。立派に座ってたぞ」
仲間の言葉に、父親の目尻が震える。硬い表情の奥から、こらえきれない涙がこぼれることもあるという。
写真を胸に抱き、わずかに笑みを浮かべながら、「ありがとう」とだけ呟く姿は、外に残された家族と仲間が織りなす不思議な絆を象徴している。

 

 

入学式だけでなく、中学や高校の卒業式でも同じような光景が見られる。
制服姿の子どもが壇上で証書を受け取るとき、会場の片隅にはスーツの男が静かに座っている。
周囲からは親族にしか見えないが、実は父親の“代役”。
「お前の息子、立派に卒業したぞ」と刑務所に伝えるのも、仲間の務めとされる。

 

 

これらの行為は、社会から見れば「異様」と言えるかもしれない。
しかし裏社会では「子どもを孤独にさせないこと」「親の顔を立てること」が、義理を果たす行為として大切にされている。


それは組織の結束を示す儀式であると同時に、服役中の父親にとっては外の世界と家族を結ぶ数少ない糸でもある。

ある元組員の息子は、成人してからこう語ったという。


「子どものころは恥ずかしかったし、父親がいないことを隠したかった。でも、式にスーツの人が来てくれて“お前は見られてるぞ”って言われたとき、不思議と安心したんです。」

 

子どもにとって、その存在は「父親の代わり」であると同時に、自分が孤立していないと感じさせる拠り所だった。
それは社会の常識から見ればいびつかもしれない。だが、当事者にとっては確かに支えとして残る。

 

入学式の記念写真、卒業式の証書、運動会の声援、成人式の振袖姿。
それらはすべて、刑務所の壁を越えて父親のもとへ届けられる。

 


表社会からは理解しがたいかもしれないが、その一枚の写真や一言の報告が、彼らにとっては「義理と人情」の証なのである。