またしても、あの男の名前が浮上している。
ネット界隈で一時代を築いた“嫌われ詐欺師”高橋英樹が、再び警察の監視下にある――そんな情報が急速に広がっている。

「仲間づくり」と称した実質詐欺のカラクリ

高橋英樹は過去の経歴は、「未公開株詐欺」「バナナ農園詐欺」「PCR補助金詐欺」「保育園出資詐欺」「ドバイ不動産詐欺」「モンゴルマイニング詐欺」「東京REDトークン詐欺」「KOC出資詐欺」「ミュゼプラチナム出資詐欺」など数々の“詐欺ビジネス”を立ち上げてきた。
だが、その実態は「巧妙に人を巻き込み詐欺をしてた」と囁かれている。

「最初は直接お金を取るわけじゃない。『あなたも仲間に』と勧誘したあとで活動費やら出資金を搾取して、“共犯関係”を作るんです」
(元関係者)

表向きは“夢を語るプロジェクト”。
だが裏では、集めた協力金や運営費がどこへ消えたのか分からないケースが続出していたという。

彼に資金を出した人々だけでなく、
ただの雇用者やスタッフまでもが被害者や抜けられない加害者になっていく――

なんと詐欺師製造機である。

そして国までもが被害者に?!

プロジェクトが増えるたびに被害は拡大し、金額は膨大に。

SNSでは常に正当化した自身を発信し、「成功者」としての殻を被り、注目を集めたがる性格だ。
ただその一方で、業界内では「詐欺師」として有名でお金の繋がりでしかない仲間たち。

今は真相はまだ霧の中だ。
ただひとつ確かなのは、高橋英樹という存在が今も世の中で詐欺被害者を拡大し続けているということ。

次に報じられるニュースが「新事業発表」なのか、「ついに逮捕」なのか、
世間は、共犯者も含めて固唾をのんで見守っている。

 

高橋英樹被害者の方たちに取材をして私が思ったことはこの詐欺師の共犯者も含めて一掃しなければならない。

リーダーを失った詐欺師の卵たちは必ず次の被害者を生んで行くだろう。

必ず全貌を暴く。

次のブログの内容は共犯者にクローズアップして投稿する予定だ。

 

 

2023年、和歌山刑務所の金庫で、受刑者から預かった指輪が忽然と姿を消した、という事件が起こった。


預かり品を保管することを「領置」と呼ぶが、その中でも貴金属や、公的身分証明書(マイナンバーカード)などは「特別領置」と呼ばれ、刑務所における最も厳重な管理対象である。

 

ちなみに私はマイナンバーカードは特別領置として保管されたが、免許証は一般領置品であった。

さらに常に身に着けている貴金属は、私からは何も告げていないが、見た目から察したのか、これは一応「特別領置」としておく。と言われ、小さなジップロックのようなもの入れられたのを覚えている。

 

私から「これは高価だから」などとは言っていない。

もはやそれを告げていても、それを聞き入れてくれるとは到底思えない。

 

 

話がそれてしまったので本題に戻すとする。


領置品については、受刑者の財産権を守るため、鍵の管理から記録簿の照合まで、複数職員の確認を要する——はずだった。

だが、その制度の隙を突いたのは、まさに信頼される立場の刑務官自身だった。

 

この刑務官は、領置品の管理を担当する立場にあった。
保管場所や鍵の所在、点検の周期まで熟知しており、それを逆手に取って、金庫から受刑者の貴金属を持ち出した。

 


しかも、発覚を防ぐために 代替品を用意し、入れ替える という工作まで行っていたという。

消えたのはブランド指輪など複数点。
事件が起きたのは2023年夏から2024年秋にかけての約1年。
被害総額は約23万円にのぼった。

事件の発端は、定期的な金庫内点検の際だった。
「記録にある指輪の数と、実際の現物が合わない」——
担当部署が異常を検知し、刑務所として警察に届け出たのが2025年4月。


代替品を入れていたことで発覚は遅れた。
しかし、後の定期点検で、保管記録と現物の管理番号、封印タグなどにズレが見つかり、不正の疑いが浮上した。
書類上の記録と現物の照合に矛盾が生じたことで、入れ替えが発覚したのだ。
つまり、偶然の点検がなければ、事件は表に出なかった可能性が高い。

 

刑務所の金庫に預けられる「特別領置品」は、受刑者にとって国家への最後の信頼の象徴でもある。


自由を奪われた中で、唯一守られるべき「財産権」。
それを預かる職員が裏切った意味は重い。

 

和歌山地方裁判所は2025年9月、被告に懲役2年6か月・執行猶予4年の有罪判決を下した。
裁判所は判決でこう指摘している。

 

「刑務官という職務上の立場を悪用し、受刑者の信頼を裏切った行為は極めて悪質である」

犯行は計画的かつ継続的。
内部知識を利用し、監査の目をすり抜けたという点が特に重く見られた

被告側は動機として「異動で手当が減った」「借金を抱えていた」と主張したが、
裁判所は「国家公務員としての立場を踏まえれば、正当化し得る理由ではない」と退けた。

懲戒免職処分を受け、被害弁済も進んだとはいえ、
国家が“預かった信頼”を食い潰した事実は消えない。

 

 

同じ構図、名古屋刑務所の不祥事

少し性質は異なるが、名古屋刑務所でも2021〜22年にかけて職員による暴力・不適切処遇が相次いだ。
22人の職員が関与し、うち13人が書類送検。
受刑者に対する立場の優位を利用した一連の行為に、法務省は「矯正行政の信頼を損なう重大事案」と断じた。

暴力と窃盗——形は違えど、共通するのは「閉ざされた空間での権限の乱用」である。
監視が届かない場所ほど、権力は腐敗しやすい。

 

 

「誰も見ていない場所」で起きること

刑務所の中は、外からの視線が届かない。
被収容者は声を上げにくく、職員同士の内部監査も形式的になりがちだ。
この事件は、その「閉鎖性」と「信頼構造」の狭間で起きた。

預かり品制度の管理は二重三重のチェック体制になっているが、現実には鍵の持ち主や記録者が同一人物になることもあり、それが「単独での不正」を可能にしてしまう。

 

今回の事件を受け、矯正当局は再発防止策の検討を進めているという。
職員間の相互監査の強化、外部委員による金庫点検、さらに被収容者が匿名で通報できる仕組みの拡充などが挙げられる。

だが、本質的な再発防止策は“制度”ではなく“倫理”にある。
鍵を握るのは、制度の外側ではなく、その中にいる人間のモラルだ。

 

 

金庫の奥で消えたのは、指輪だけではない。
それは、国家と受刑者の間にあった、「最低限の信頼」という名の見えない契約だった。

見えない場所で起きたこの小さな事件は、矯正行政という巨大な仕組みの中に潜む歪みを静かに照らし出している。
信頼は制度ではなく、人で守られる。
その当たり前のことを、私たちは今、改めて思い知らされている。

 

 

 

 

 

2024年の冬、埼玉県で80代の男性が妻を殺害したとして逮捕された。
妻は長年寝たきりの状態で、介護を続けていた夫は「もう限界だった」と語ったという。
調べに対して、彼は静かにこうも呟いた。
「本人に“もう楽にしてほしい”と言われた気がした」。

 

 

ニュースでは「介護疲れによる殺人」として短く報じられた。
しかしその一文に詰まっているのは、疲弊した家族の叫びであり、社会の構造的な無力である。

 


このような事件は、もはや珍しくない。
厚生労働省によれば、家族間の「介護殺人」は年間40〜50件。
つまり、月に数回はどこかで「限界に達した家族」が逮捕されている。

この事件の特徴は、加害者も高齢者であるという点だ。
自分自身も体が思うように動かず、認知症や持病を抱えながら介護を続けている。
息子や娘は遠方に住み、近所にも助けを求められない。
日々の食事、排泄、夜間の介助──その繰り返しの中で、
「自分が倒れたら、この人はどうなる」という恐怖が、静かに心を削っていく。
やがて、介護と共倒れの境界が消え、“死”だけが残された選択肢に見えてしまう。

 

そこに悪意はない。


むしろ、「これ以上苦しませたくない」という愛情が歪んだ形で表れたにすぎない。
それでも、刑法は「命を奪った」という一点で、彼を裁く。

実際、こうした事件で下される判決は、懲役3年から6年が多い。
中には、殺人にも関わらず、執行猶予付きの判決もある。

 


2023年に起きた兵庫県の事件では、86歳の夫が介護中の妻を絞殺したとして起訴されたが、裁判所は「長年の献身と心身の疲労」を考慮し、懲役3年・執行猶予5年とした。
一方、同じような動機でも、殺害の計画性や方法によっては実刑が下ることもある。
つまり、司法は“悪意の濃度”を測ることに限界がある。
裁判官もまた、「情状酌量の余地がある」と書きながら、「それでも命を奪った」という線を引かざるを得ない。

 

 

では、その線引きは正しいのか。
法律が「人を殺したかどうか」で裁くのは当然だ。
だが、“その人を殺すに至った社会”を、誰が裁くのか。
介護保険制度の限界、相談窓口の人手不足、地域の孤立。


どれも直接の加害者ではない。
けれど、それらの要因が少しずつ絡み合って、
最終的に一人の人間を「加害者」に仕立て上げる。

この構造の中では、誰も悪くないまま、悲劇だけが生まれる。
司法は個人を裁くが、社会は反省しない。
「気の毒だ」「特例だ」と言いながら、また別の家庭で、同じ事件が繰り返される。

 

 

ニュースのコメント欄には、「かわいそう」「仕方ない」の声が並ぶ。
それは一見、同情のようでいて、実は“他人事”という距離を置くための言葉でもある。
私たちは、誰かが壊れるのを見ても、自分の生活に戻る。

 


その無関心こそが、静かな悪なのではないか。

介護殺人という言葉の裏には、「悪」よりも「限界」と「孤独」がある。
この国では、家族愛が制度の穴を埋める前提になっている。
そしてその“愛の義務化”が、最も優しい人を追い詰めている。

 

 

人を殺すことは、確かに罪だ。

 


しかし、その罪が生まれるまでの過程を放置した社会は、本当に無罪と言えるのだろうか。

 

 

この記事について、地域情報誌の取材を受けました。

2025年10月末の関西地域新聞に掲載されます。

 

 

日本の刑事裁判における有罪率は、世界でも異例の高さを誇る。
その数字はおよそ「99.9%」。
一見すれば、捜査・起訴の精度が高く、司法制度が優れている証左のようにも思える。
しかし、裏を返せばそれは「一度起訴されれば、ほぼ確実に有罪になる」という意味でもある。
その圧倒的な数字の裏側で、検察はどのように“正義”を作り出してきたのか。

 

 

「正義の番人」が踏み越えた一線

2010年、大阪地検特捜部主任検事による証拠改ざん事件が発覚した。
厚生労働省局長・村木厚子氏を「郵便不正事件」で起訴するため、検察が押収したフロッピーディスクのデータを改ざんし、証拠として法廷に提出していた。


その改ざんは、被告人を有罪に導くための“微調整”にすぎなかったが、
それが国家権力による犯罪であることの重さは計り知れない。

特捜部内部では、上司が改ざんを黙認し、組織ぐるみで隠蔽を図った。
「正義を追及する」という大義が、いつしか「起訴を成功させるための勝率維持」へと変質していた。
検察の論理が、正義をねじ曲げた瞬間だった。

 

 

密室の捜査、不可視の取調べ

日本の刑事手続は長らく、密室の取調べを中心に成り立ってきた。
録音・録画(可視化)が義務づけられるようになったのは、こうした不祥事の後のことである。
しかし、可視化の対象は限定的で、検察官の裁量で録音を止めることも可能だ。
つまり、すべての取調べが透明になったわけではない。

「自白偏重」「供述中心主義」と呼ばれる構造の中で、
検察は“真実”ではなく“有罪にできる物語”を組み立てる。
そこに、証拠の取捨や改ざん、あるいは都合の悪い証拠の隠蔽が入り込む余地がある。

 

 

冤罪が告げる構造の歪み

志布志事件(2003年)や袴田事件(1966年)など、日本の刑事司法はこれまでも数々の冤罪を生んできた。
いずれの事件でも共通していたのは、「自白の強要」と「検察による証拠操作」だった。

志布志事件では、住民らが虚偽の自白を強いられ、袴田事件では、決定的証拠とされた“味噌漬け衣類”が後に捏造の疑いで崩れた。
それでも、再審が認められるまでに要した時間は半世紀以上。
袴田巌氏は、逮捕からおよそ48年ものあいだ刑務所に収容され続けた。
人生の半分以上を、国家の“誤り”の中で過ごしたことになる。

この事実を前にして、「司法が機能していた」と言えるだろうか。
人一人の人生を半世紀奪っておきながら、「手続きに瑕疵はなかった」と言い張るような制度を、果たして“正義”と呼べるのか。

法は人を裁くためにあるのではなく、権力が暴走しないように人を守るために存在するはずだ。
それなのに、日本の司法はいつの間にか「守るべき人」を忘れ、「守るべき数字」を追いかけてきた。
袴田事件は、そのことを残酷なまでに可視化している。

 

 

■99%の数字が意味するもの

有罪率99%という数字は、検察にとって「誇り」でもあり「呪縛」でもある。
無罪判決は、組織にとって“敗北”を意味する。
だからこそ、起訴前の段階で「負ける見込みのある事件」は排除される。
逆にいえば、起訴された時点で「ほぼ有罪が決まっている」構造ができあがっているのだ。

この構造の中では、検察は「事実の発見者」ではなく、「物語の演出者」と化す。
そしてその演出が国家権力によって行われる以上、被告人には抗う余地がほとんどない。

 

 

正義を監視する目はあるか

大阪地検事件を経て、司法制度改革の議論は進んだ。
しかし、検察内部の構造的問題──組織文化・昇進評価・閉鎖性──はほとんど変わっていない。
検察審査会や録音制度など、外部の監視装置はあるものの、それらが機能するのは氷山の一角にすぎない。

「国家がつくる冤罪」を防ぐためには、正義の番人を監視する、もう一人の番人が必要なのかもしれない。

 

法廷で掲げられる「真実」は、常に誰かの手によって選ばれ、形づくられる。
検察が証拠を作るとき、それは単なる不正ではなく、国家が自らの都合のために“真実”を書き換える行為である。

 

99%という数字の裏には、1%に届かなかった「正義の声」が確かに存在している。
そしてその声を拾い上げられるかどうかこそ、この国の司法の成熟を測る試金石なのだ。

 

 

SNS系ニュースまとめサイトで注目コンテンツとして扱われ、

登録者数100万人を超えるYoutuberの動画内でインタビュー形式でこの件について

私の意見を述べさせていただきました。

 

 

 

 

社会には、「誰かが悪役を引き受けなければ成り立たない構造」が確実に存在する。

そしてその構造を無視して「悪は断罪すればいい」という態度をとることこそ、実は社会の冷酷さをあぶり出すことにほかならない。
今回は、企業の会計不正という“公”の場で起きた事件を手がかりに、「悪いことをする勇気」という言葉を、あえて肯定的に捉えてみたい。

 

 

事件:東芝株式会社会計不正(2008〜2014年度)

日本を代表する電機・重工業メーカーであった東芝は、2015年7月に「2008年度から2014年度にかけて、利益水増しを含む不適切な会計処理を行っていた」と公表した。
調査委員会の報告によれば、約1500億円以上にのぼる利益の水増しや損失繰り延べが確認され、実態としては少なくとも12億ドル分の利益が虚偽であったとされる。

 


この背景には、上層部からの「チャレンジ(目標利益)達成指令」が現場に降りており、その期限が四半期末付近に「あと〇億円作れ」という形で提示されることが常態化していた。
さらに、内部統制の弱さ、役員への追及の甘さ、「上司の指示に逆らえない」という企業文化などがあいまって、組織ぐるみでの会計操作が可能になっていた。
このように、東芝の会計スキャンダルは「悪」として断罪されるべきものだが、同時にその背後には「誰かが責任をとって組織を守るために数値を“整えた”流れ」も確かに見える。

 

 

汚れ役”を引き受けた者たち

この東芝事件で注目すべきは、多くの現場部門長や会計担当者、さらに一部の役員が「数字を合わせるために不正を手伝った」という点だ。

彼らは明らかにルールを破った。

しかし、彼らが守ろうとしたもの――例えば、部署そのもの、あるいは数百人の社員の雇用、あるいは会社の存続、ひいては地域経済への影響――を考えると、「ただ罪を犯した悪人」という言葉では片付けられない側面が浮かび上がる。


例えば、「目標未達ならプロジェクト停止」「部署解体」というプレッシャーの中で、“数字をつくる”ことが生存条件となっていた環境。

報告書によれば「部門長が上司の指示を断れない環境」「内部告発できない企業文化」が、会計不正を制度的に可能にしていた。


こうしてみると、現場で「数字をつくる」ことを引き受けた人間は、まさに“汚れ役”を自ら演じたとも言える。

彼らは悪人として裁かれたが、同時に会社という巨大な構造を守るため、ある意味で“必要な悪”の役割を担っていた。
そしてその矛盾にこそ、「悪いことをする勇気」の本質がある。

 

 

秩序維持”としての悪

もう一つの視点として、犯罪/裏社会的な“悪”を排除してきた社会の流れも考えてみたい。

例えば、夜の街を取り巻く環境において、かつて「裏で糾弾されずに処理されていたトラブル」の登場人物たち――裏稼業者、夜の調整役など――が正面から排除された結果、むしろ制御不能な“悪”が漏れ出してきたという指摘もある。

 

夜の街のクラブ営業に絡む法律が厳格化される中で、合法ではない“夜の調整”が地下化、グレー化し、表に出る形ではなくなった。
この構図において、かつて“見えない役割”を担っていた人間たちは、組織的な秩序を担っていたとも言える。

彼らがいなくなったことで、無秩序・無制御なトラブルが増えたという現象は、必要悪の逆説を象徴している。

 

 

勇気とは何か

「悪いことをする勇気」と聞くと、不道徳や犯罪を思い浮かべるかもしれない。

しかし私が言いたいのは、むしろ「誰も引き受けたがらない役割を、自ら選び取る覚悟」である。

東芝の事件で言えば、数字を“整える”という手段を取った者たちは、一種の“犠牲役”だったとも読み取れる。

もちろん、不正は許されない。しかしその不正が生まれた土壌には「誰かが犠牲になることで誰かが助かる」という板挟みがあった。


このような見方をすれば、「悪を避ける人間」が最も“悪らしい”とも言える。なぜなら、善ぶって手を汚さない分、汚れ仕事を他人に押しつけ、結果として他人を犠牲にしているからだ。
つまり、「清廉でいようとする人間」こそが、実は最も社会の“汚れ”を引き受けたがらない者であり、無意識に“誰かがやるべき悪”を他人に押しつけている。これが私の感じる逆説だ。

 

 

私はこのように考える。
社会が回るためには、清らかな者だけでは足りない。
誰かが汚れ仕事を引き受け、責任を負い、立ち続けるからこそ、その背後で多くの人が汚れずに済む。
それを百パーセント肯定するつもりはない。むしろ、批判とともに考えるべきだ。


だが、私たちが「悪」とラベルを貼る背後には、常に「誰かがなぜその役割を担ったか」という物語がある。
そして、その物語を見ずに「悪=断罪」の構図で終わらせてしまうのは、軽率に過ぎる。

東芝の会計不正という事件を一面的に“金を誤魔化した悪”として扱うのは簡単だ。しかしその裏側には、組織を守ろうとした人間たち、数字という刃を振るってでも守ろうとした部署・社員の存在があった。
彼らが「悪役」を引き受けたからこそ、数百人の雇用が維持されたかもしれないし、一つの事業部が継続されたかもしれない。


その意味で、彼らは“悪を引き受ける勇気”を持った者たちでもあった。
私たちが見なくてはいけないのは「悪をした人」ではない。「なぜその人がその役割を担ったのか」という問いである。
そしてその問いを深めることこそ、自分自身が“悪をしないことで善でいられるか”を問う第一歩にほかならない。

 

 

 

暴力団という言葉は、すでに過去の遺物のように語られることが多い。
反社会的勢力の資金源は断たれ、若者の加入も減り、組織そのものが衰退している──そんな印象を抱く人も多いだろう。
 

だが、全国でただ一つ、「特定危険指定暴力団」として名指しされ続ける組織がある。北九州市に本拠を置く「工藤会」だ。

私がこのテーマを取り上げようと思ったのは、気になるニュースが入ったからである。

気になるニュースというのはまだ調査中の段階なので詳細は伏せるが、そのニュースに関連する「工藤会」を調べているうちに気になったことがあったのであえて今記事に残しておく。

 

 

福岡県公安委員会は、暴力団対策法に基づき、北九州市に本部を置く指定暴力団「工藤会」に対して、2022年12月8日付で「特定危険指定暴力団」としての指定を延長すると発表した。
「特定危険指定暴力団」とは、市民や企業に対して暴力的要求行為を行うおそれがあると認定された暴力団に対して、通常の指定暴力団制度よりも強い監視・取締り措置を可能とする制度だ。

 

 

工藤会がこの指定を受けたのは2012年12月が初めてで、以降毎年、期限を延長しており、2024年12月には延長が再び決定されたとの報道もある。
加えて、2025年3月時点では、改めて11回目の延長が行われていると公表されている。
結果として、工藤会は「全国で唯一」の特定危険指定暴力団として位置づけられており、暴力団対策上、特異な扱いを受けている組織である。

 

 

指定制度の中身と工藤会に課せられた措置

「特定危険指定暴力団」に指定されると、以下のような措置が警察・公安委員会によって講じられる。

・みかじめ料の要求、面会の要求、電話・メール等による圧力、事務所使用など、暴力的要求行為に対して“中止命令を経ずに逮捕可能”という強化措置。

・組事務所を警戒区域とし、組員の集合・うろつき・出入りといった行為を規制する。

・組織の活動基盤(事務所・資金源・組織間関係)に対する捜査・資産凍結・使用禁止などを促す。例えば、工藤会傘下の複数事務所について使用禁止の仮処分が出されたという報道もある。

 

工藤会の場合、指定後も「暴力的な要求行為が続いている」との福岡県警の判断が、延長理由として挙げられている。
また、構成員数の減少や本部事務所看板の撤去など“弱体化”の兆しも報じられているが、それでもなお「特定危険」としての指定を続けることが必要だという当局判断がある。

 

 

なぜ「延長」が続くのか――背景と意義

暴力団の“構造的な危険性”

工藤会は過去、市民襲撃事件や港湾工事への介入など、一般市民・労働現場を対象にした暴力行為が長年指摘されてきた組織である。
このため、暴力団対策法が改正された2012年以降、「市民や企業に重大な危害を加えるおそれがある暴力団」として、特定危険の指定対象となった。

 

継続的な取り締まりと活動変化

指定後、福岡県警を中心とした捜査・離脱支援・事務所撤去などの取り組みが進められており、例えば10年で事務所28か所の撤去という報道もある。
構成員数もピーク時の1,210人から20%以下に激減していると報じられている。
こうした変化にもかかわらず、依然として「危険性あり」と判断され続けているのが、延長の背景にある。

 

制度的禁止・抑止メカニズムとしての機能

指定延長は、暴力団をただ「指定暴力団」というカテゴリに置くだけでなく、より強い取り締まり手段を政府・公安委員会に与える枠組みである。
つまり、延長をすることで「この団体には特別な監視状態が続いている」という社会的シグナルを発する意味もある。

 

 

工藤会の「特定危険指定暴力団」としての登録・指定延長という制度的な枠組みは、暴力団対策における先鋒のひとつである。全国唯一という文字は、制度運用上の“モデルケース”でもある。
だが、延長という形で制度が維持され続けることは、言い換えれば「危険の可能性」が継続しているという状態の裏返しでもある。


その背景には、暴力団が社会に侵入し、企業や地域の“見えない構造”に根を張ってきたという現実がある。
制度の枠を超えて、「取るべき次の一手」「抜け道を塞ぐ実務」が問われ続けているのが、現在の暴力団対策の課題だ。

この制度の延長が、単なる“指定を維持するための形式”に終わらず、実質的な組織崩壊・地域からの暴力団排除につながる転機になりうるか――

 

そこが、今後の注目点である。

 

 

この記事は2025年6月15日発売の週刊誌に掲載していただきました。

週刊誌内ではもう少し省略化されていたため、こちらで全文を紹介します。

 

 

誰かが誰かを傷つける理由は、いつももっともらしく装われる。
だが、ときにその理由は、あまりにも空っぽだ。
「顔が似ていたから」「アジア人に見えたから」。
そんな一言が、人を殴る、殺す、侮辱する、という暴力を正当化してしまう。

 

 

コロナ禍で生まれた「見えない敵」

2020年、世界がパンデミックに沈んだとき、ウイルスより早く広がったのは恐怖と偏見だった。
アメリカやヨーロッパでは、アジア系住民への暴力が急増した。
道を歩いていただけの女性が突然背後から殴られる。
通学途中の子どもが唾を吐きかけられる。
飲食店で働く男性が「ウイルスを持っている」と罵られ、職を失う。

カリフォルニアの非営利団体「Stop AAPI Hate」によれば、2020年から2023年までに報告されたアジア系に対する嫌がらせ・暴行は1万件を超えるという。
 

中国人、韓国人、日本人、ベトナム人。
そこに違いはない。
“アジア系”という記号のもとに、すべてが一括りにされた。

 

加害者の多くは、被害者の国籍を知らない。
ただ「似ている」というだけで、怒りの矛先が向けられる。

 


2021年、ニューヨークではフィリピン系の女性が教会前で暴行を受け、重傷を負った。
同じ年、サンフランシスコでは84歳のタイ人男性が散歩中に突き飛ばされ、死亡した。
いずれの事件も、加害者は「アジア人だから」襲ったと供述している。

被害者の顔を見ても、名前を呼ぶことはできない。
アジア人は、誰でもよかった。
その無差別さこそが、この差別の本質だ。
個人ではなく、記号として攻撃される。
それは、存在を消されることとほとんど同じだ。

 

 

似ていることが、危険になる場所

アジア人が“似ている”という言葉は、しばしば無邪気な冗談として使われる。
だが、その「似ている」が境界を曖昧にし、憎悪を拡散させる温床にもなる。
米国でアジア系への暴力が起きると、被害者が中国人か日本人かなどは問題にされない。
それは同時に、「区別する必要もないほど、彼らは同じだ」という認識の裏返しでもある。
その認識が、暴力を加える手を軽くする。

かつて移民労働者として受け入れられたアジア系は、経済成長の影で“沈黙する少数者”として描かれてきた。
そしていま、社会が不安定になるたびに、その沈黙をいいことに標的にされる。
沈黙は美徳ではない。
それは、暴力を呼び寄せる沈黙でもある。

 

 

差別はいつも、社会の鏡

アジア人差別は、単に人種間の問題ではない。
社会の中にたまった怒りや不満が、最も声を上げにくい場所に流れつくという構造の問題だ。
肌の色が少し違う。
言葉の発音が少し違う。
その些細な差が、社会の歪みを受け止める「的」になる。

だから、差別はいつも時代の鏡だ。
恐怖と不安が増すとき、最初に叩かれるのは「外の者」だ。
アジア系だけでなく、黒人、イスラム教徒、移民、LGBTQ──誰もが順番にその“外側”に置かれる。
そして誰もが、いつかはその外に立つ可能性を持っている。

 

 

アジア人差別の現場では、怒りよりも静けさが残るという。
泣くことも、訴えることもできないまま、日常に戻る人たちがいる。
彼らの痛みは、ニュースにもならない。
差別の多くは、報道されるほど劇的ではないからだ。
レストランで冷たい態度を取られる。
タクシーに乗ろうとして拒まれる。
会話の中で笑われる。
そうした小さな傷が、積み重なっていく。

その傷は、国籍の数だけ存在する。
そして、それを「自分のことではない」と見過ごす社会の中で、差別は静かに育っていく。

アジア人差別の多くは、言葉にならない。
けれど、言葉にしなければ消えてしまう。
「誰が」「どこで」「なぜ」という説明がつかない暴力だからこそ、
それを語ることが、唯一の抵抗になる。

“同じ顔をしている”という理由で誰かが倒れる。
それが現実である限り、私たちは沈黙してはいけない。
それは、誰かが次に倒れる場所を、静かに許すことになるからだ。

 

 

 

 

2023年春、山梨県の山中湖村付近のホテルで、国内の指定暴力団傘下組織の幹部らが香港マフィアとみられる外国勢力との会合に参加していた疑いが浮上した。

 

この“密会”は、裏社会における組織の国際的な連携の一端をあらためて示すものとなった。

捜査関係者によると、国内の暴力団傘下組織に所属する複数の幹部が、暴力団員であることを隠し、宿泊を禁止しているホテルに宿泊していた疑いで逮捕された。


この宿泊に伴って、香港マフィアとみられる人物らと「盃事(義兄弟の契り)」と称される儀式を交わしていた動画も確認されている。

このような動画は逮捕された人物らの押収された携帯電話から出てきたものであるとみられる。
ホテルのレストランを貸し切って行われたとされ、出席者約30人規模ということも発表されている。

 

 

「盃事を行える広い事務所なんて今時ない。ホテルのレストランを借りて行う組織が増えている」
つまり、国内の暴力団は監視・取り締まりが厳しくなる中で、海外勢力と関係を深め、資金や事業の多角化を進めているとみられる。

 

 

捜査当局は、暴力団排除条例や反社会的勢力排除の枠組みを活用して宿泊契約詐欺の疑いなどで捜査に入り、複数の逮捕が実際に行われた。
このような“義兄弟の契り”を伴う会合は、組織的犯罪処罰法や犯罪収益移転防止法、暴力団対策法など、複数の法制度が交錯する領域である。特に、暴力団と外国マフィアとの連携が裏付けられた場合、資金洗浄・薬物等の国際取引・マネーロンダリングなどの広範な捜査対象となり得る。

 

 

この会合の報道は、我が国の裏社会の構造が“国内だけ”の問題ではなくなってきていることを示している。
歓楽街・夜の街という“ローカルな場”から、国際犯罪ネットワークとの接続点が浮上してきており、これまで見過ごされてきた“海外への出口”が顕在化しつつある。
さらに、ホテルや貸し切りレストランという一見無害な場所が、儀式・会合の舞台となることで、監視・摘発が難しくなる構造も見えてきた。

 

裏社会の国際化は、目立つ形では進まない。
盃事のような伝統的儀式や、ホテル・飲食店などの民間施設を利用した偽装会合は、監視の目を逃れるための新たな手法として定着しつつある。
組織同士の連携は、かつてのような派手な抗争や露骨な利権争いの形ではなく、資金・人材・情報の共有を通じて静かに広がっている。

 

 

それは、表向きには穏やかな社会の裏で、蜘蛛の巣のように複雑に結びつき、見えない網を広げていく構造ともいえる。
日本の裏社会は今、静かに、しかし確実に、世界とつながり始めている。

 

 

 

裁判官――社会の中で「最後の判断」を下す立場にある人間だ。
だが、どれほど高い倫理が求められる職であっても、完全に人間の弱さから自由ではいられない。
近年、そんな“法を司る者”が、逆に法の裁きを受ける立場になった事件が相次いでいる。

 

 

SNS投稿による弾劾・免職

近年、ある裁判官がSNS上で行った投稿をめぐり、弾劾裁判で免職された。
投稿の内容は、過去の事件に関する遺族への言及だった。
被害者の尊厳を軽んじるような文面が公開され、一般ユーザーから批判が殺到。
やがて「公正中立であるべき裁判官がこのような発言をするのは許されない」という声が広がり、国会による弾劾手続きに発展した。

 

投稿自体は、直接的に誹謗中傷を意図したものではなかったとも言われる。
だが、SNSという公共の場で、裁判官が“個人的な見解”を軽々しく述べたことが問題の核心にある。
裁判官が自らの発言の重さを忘れ、「ひとりの個人」として感情を吐き出した瞬間――その行為は職の信用を一瞬で失わせた。

 


法廷で言葉を選び抜くことを仕事にしている人が、ネット上では感情のままに発信してしまう。
職業としての矜持が、たった数文字で崩れ落ちた。

しかも、その後に続いた本人の言い訳がまた無残だった。
「意図は違った」「誤解だ」という弁明が繰り返されるたび、責任感の欠如が浮き彫りになった。
法を司る者が、自らの言葉を裁けなかったのだ。

SNSの使い方は自由だが、裁判官という肩書きを持つ以上、社会はその“自由”を甘く見ない。
彼らが発する一言は、個人のつぶやきではなく、司法そのものの声と受け止められる。
その自覚を欠いた発言が、どれほど多くの人を失望させるか――それを理解できなかった時点で、この免職は当然の帰結だったと思う。

 

 

児童買春事件――“裁く者”が“被告”になるという矛盾

2000年代初頭、現職の裁判官が児童買春の容疑で逮捕・有罪判決を受けた事件が報じられた。
相手は未成年、しかも金銭を介した関係。
裁判官としての立場以前に、人として越えてはならない一線だった。
社会の秩序を守る側が、その秩序を壊す側に回ってしまう。
この皮肉は、司法という組織の“聖域意識”が生んだ歪みとも言える。
「自分だけは大丈夫」という慢心が、最も危険な犯罪の形で露呈したのだ。

 

 

元裁判官のインサイダー取引疑惑

近年では、退職した元裁判官がインサイダー取引で有罪判決を受けた事件もある。
在職中に培った信頼や情報網を使い、株取引で利益を得ようとしたとされる。
「元」とはいえ、かつて法の番人だった人物が、経済犯罪の加害者になる――。
ここにもまた、職業的エリート意識と人間的欲望のバランスを見失った姿がある。
司法という堅い世界の外に出たとき、人はあっけなく自制心を失うのかもしれない。

 

 

裁判官は社会の規範を体現する存在であり、その判断一つが他人の人生を左右する。
だからこそ、他の職業よりも「清廉であること」を強く求められる。

けれど、そこにこそ落とし穴があるのかもしれない。
完璧であろうとするプレッシャーが、逆に逸脱を生む。
権威の裏側には、常に孤独と緊張がつきまとう。
そして、どれほど法を知り尽くしていても、人間の欲や弱さまでは裁けない――自分自身であっても。

 

 

裁判官が法に裁かれるとき、私たちは「正義」という言葉の危うさを思い知らされる。
それは制度の欠陥ではなく、人間という存在そのものの限界かもしれない。