SNS系ニュースまとめサイトで注目コンテンツとして扱われ、

登録者数100万人を超えるYoutuberの動画内でインタビュー形式でこの件について

私の意見を述べさせていただきました。

 

 

 

 

社会には、「誰かが悪役を引き受けなければ成り立たない構造」が確実に存在する。

そしてその構造を無視して「悪は断罪すればいい」という態度をとることこそ、実は社会の冷酷さをあぶり出すことにほかならない。
今回は、企業の会計不正という“公”の場で起きた事件を手がかりに、「悪いことをする勇気」という言葉を、あえて肯定的に捉えてみたい。

 

 

事件:東芝株式会社会計不正(2008〜2014年度)

日本を代表する電機・重工業メーカーであった東芝は、2015年7月に「2008年度から2014年度にかけて、利益水増しを含む不適切な会計処理を行っていた」と公表した。
調査委員会の報告によれば、約1500億円以上にのぼる利益の水増しや損失繰り延べが確認され、実態としては少なくとも12億ドル分の利益が虚偽であったとされる。

 


この背景には、上層部からの「チャレンジ(目標利益)達成指令」が現場に降りており、その期限が四半期末付近に「あと〇億円作れ」という形で提示されることが常態化していた。
さらに、内部統制の弱さ、役員への追及の甘さ、「上司の指示に逆らえない」という企業文化などがあいまって、組織ぐるみでの会計操作が可能になっていた。
このように、東芝の会計スキャンダルは「悪」として断罪されるべきものだが、同時にその背後には「誰かが責任をとって組織を守るために数値を“整えた”流れ」も確かに見える。

 

 

汚れ役”を引き受けた者たち

この東芝事件で注目すべきは、多くの現場部門長や会計担当者、さらに一部の役員が「数字を合わせるために不正を手伝った」という点だ。

彼らは明らかにルールを破った。

しかし、彼らが守ろうとしたもの――例えば、部署そのもの、あるいは数百人の社員の雇用、あるいは会社の存続、ひいては地域経済への影響――を考えると、「ただ罪を犯した悪人」という言葉では片付けられない側面が浮かび上がる。


例えば、「目標未達ならプロジェクト停止」「部署解体」というプレッシャーの中で、“数字をつくる”ことが生存条件となっていた環境。

報告書によれば「部門長が上司の指示を断れない環境」「内部告発できない企業文化」が、会計不正を制度的に可能にしていた。


こうしてみると、現場で「数字をつくる」ことを引き受けた人間は、まさに“汚れ役”を自ら演じたとも言える。

彼らは悪人として裁かれたが、同時に会社という巨大な構造を守るため、ある意味で“必要な悪”の役割を担っていた。
そしてその矛盾にこそ、「悪いことをする勇気」の本質がある。

 

 

秩序維持”としての悪

もう一つの視点として、犯罪/裏社会的な“悪”を排除してきた社会の流れも考えてみたい。

例えば、夜の街を取り巻く環境において、かつて「裏で糾弾されずに処理されていたトラブル」の登場人物たち――裏稼業者、夜の調整役など――が正面から排除された結果、むしろ制御不能な“悪”が漏れ出してきたという指摘もある。

 

夜の街のクラブ営業に絡む法律が厳格化される中で、合法ではない“夜の調整”が地下化、グレー化し、表に出る形ではなくなった。
この構図において、かつて“見えない役割”を担っていた人間たちは、組織的な秩序を担っていたとも言える。

彼らがいなくなったことで、無秩序・無制御なトラブルが増えたという現象は、必要悪の逆説を象徴している。

 

 

勇気とは何か

「悪いことをする勇気」と聞くと、不道徳や犯罪を思い浮かべるかもしれない。

しかし私が言いたいのは、むしろ「誰も引き受けたがらない役割を、自ら選び取る覚悟」である。

東芝の事件で言えば、数字を“整える”という手段を取った者たちは、一種の“犠牲役”だったとも読み取れる。

もちろん、不正は許されない。しかしその不正が生まれた土壌には「誰かが犠牲になることで誰かが助かる」という板挟みがあった。


このような見方をすれば、「悪を避ける人間」が最も“悪らしい”とも言える。なぜなら、善ぶって手を汚さない分、汚れ仕事を他人に押しつけ、結果として他人を犠牲にしているからだ。
つまり、「清廉でいようとする人間」こそが、実は最も社会の“汚れ”を引き受けたがらない者であり、無意識に“誰かがやるべき悪”を他人に押しつけている。これが私の感じる逆説だ。

 

 

私はこのように考える。
社会が回るためには、清らかな者だけでは足りない。
誰かが汚れ仕事を引き受け、責任を負い、立ち続けるからこそ、その背後で多くの人が汚れずに済む。
それを百パーセント肯定するつもりはない。むしろ、批判とともに考えるべきだ。


だが、私たちが「悪」とラベルを貼る背後には、常に「誰かがなぜその役割を担ったか」という物語がある。
そして、その物語を見ずに「悪=断罪」の構図で終わらせてしまうのは、軽率に過ぎる。

東芝の会計不正という事件を一面的に“金を誤魔化した悪”として扱うのは簡単だ。しかしその裏側には、組織を守ろうとした人間たち、数字という刃を振るってでも守ろうとした部署・社員の存在があった。
彼らが「悪役」を引き受けたからこそ、数百人の雇用が維持されたかもしれないし、一つの事業部が継続されたかもしれない。


その意味で、彼らは“悪を引き受ける勇気”を持った者たちでもあった。
私たちが見なくてはいけないのは「悪をした人」ではない。「なぜその人がその役割を担ったのか」という問いである。
そしてその問いを深めることこそ、自分自身が“悪をしないことで善でいられるか”を問う第一歩にほかならない。