2024年の冬、埼玉県で80代の男性が妻を殺害したとして逮捕された。
妻は長年寝たきりの状態で、介護を続けていた夫は「もう限界だった」と語ったという。
調べに対して、彼は静かにこうも呟いた。
「本人に“もう楽にしてほしい”と言われた気がした」。

 

 

ニュースでは「介護疲れによる殺人」として短く報じられた。
しかしその一文に詰まっているのは、疲弊した家族の叫びであり、社会の構造的な無力である。

 


このような事件は、もはや珍しくない。
厚生労働省によれば、家族間の「介護殺人」は年間40〜50件。
つまり、月に数回はどこかで「限界に達した家族」が逮捕されている。

この事件の特徴は、加害者も高齢者であるという点だ。
自分自身も体が思うように動かず、認知症や持病を抱えながら介護を続けている。
息子や娘は遠方に住み、近所にも助けを求められない。
日々の食事、排泄、夜間の介助──その繰り返しの中で、
「自分が倒れたら、この人はどうなる」という恐怖が、静かに心を削っていく。
やがて、介護と共倒れの境界が消え、“死”だけが残された選択肢に見えてしまう。

 

そこに悪意はない。


むしろ、「これ以上苦しませたくない」という愛情が歪んだ形で表れたにすぎない。
それでも、刑法は「命を奪った」という一点で、彼を裁く。

実際、こうした事件で下される判決は、懲役3年から6年が多い。
中には、殺人にも関わらず、執行猶予付きの判決もある。

 


2023年に起きた兵庫県の事件では、86歳の夫が介護中の妻を絞殺したとして起訴されたが、裁判所は「長年の献身と心身の疲労」を考慮し、懲役3年・執行猶予5年とした。
一方、同じような動機でも、殺害の計画性や方法によっては実刑が下ることもある。
つまり、司法は“悪意の濃度”を測ることに限界がある。
裁判官もまた、「情状酌量の余地がある」と書きながら、「それでも命を奪った」という線を引かざるを得ない。

 

 

では、その線引きは正しいのか。
法律が「人を殺したかどうか」で裁くのは当然だ。
だが、“その人を殺すに至った社会”を、誰が裁くのか。
介護保険制度の限界、相談窓口の人手不足、地域の孤立。


どれも直接の加害者ではない。
けれど、それらの要因が少しずつ絡み合って、
最終的に一人の人間を「加害者」に仕立て上げる。

この構造の中では、誰も悪くないまま、悲劇だけが生まれる。
司法は個人を裁くが、社会は反省しない。
「気の毒だ」「特例だ」と言いながら、また別の家庭で、同じ事件が繰り返される。

 

 

ニュースのコメント欄には、「かわいそう」「仕方ない」の声が並ぶ。
それは一見、同情のようでいて、実は“他人事”という距離を置くための言葉でもある。
私たちは、誰かが壊れるのを見ても、自分の生活に戻る。

 


その無関心こそが、静かな悪なのではないか。

介護殺人という言葉の裏には、「悪」よりも「限界」と「孤独」がある。
この国では、家族愛が制度の穴を埋める前提になっている。
そしてその“愛の義務化”が、最も優しい人を追い詰めている。

 

 

人を殺すことは、確かに罪だ。

 


しかし、その罪が生まれるまでの過程を放置した社会は、本当に無罪と言えるのだろうか。