師匠と我らとの関係 18(下総方面の門下に宛てられた御抄)

 

 

「下総方面の門下に宛てられた御抄」における弟子との関係 

 

 

下総は、現在の千葉県北部と茨城県南部に相当し、鎌倉時代には日蓮大聖人のお弟子方も多く、主な人は、富木常忍、太田常明(乗明)、曽谷教信等が知られています。今回は、既述した同郷の富木常忍に関する御文を除いて、ご紹介します。

 

 

「涅槃経に転重軽受と申す法門あり。先業の重き今生につきずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかかる重苦に値い候えば、地獄の苦しみぱっときえて死に候えば、人天・三乗・一乗の益をうること候。不軽菩薩の悪口・罵詈せられ杖木・瓦礫をかぼるも、ゆえなきにはあらず。過去の誹謗正法のゆえかとみえて、「その罪は畢え已わって」と説かれて候は、不軽菩薩の難に値うゆえに過去の罪の滅するかとみえはんべり〈これ一〉。」(転重軽受法門 新1356頁・全1000頁)文永8年10月 50歳御作 

現代語訳:涅槃経に転重軽受という法門があります。過去世の宿業が重く、現世に一生尽きないので、未来世に地獄の苦しみを受けるところが、現世の一生にこの様な重い苦しみにあうと、地獄の苦みがさっと消えて、死ぬ時には人・天や声聞・縁覚・菩薩の三乗あるいは一仏乗を得ることができるのです。不軽菩薩の悪口をいわれ、罵られ杖木で打たれ、瓦や礫を投げられたのも、理由がないわけではありません。過去世に正法を誹謗した為と見えて、不軽菩薩品に「其の罪を畢え已って」と説かれているのは、不軽菩薩が難に値う理由として、過去世の罪が滅せられる、と見えるのです。(これが第一の理由です)

※本抄は、下総の大田乗明、曽谷教信、金原法橋の3人に与えられた御文で、転重軽受の法門を通して、難が来ても強い信心で仏道修行に励むように激励されています。

 

 

「次に寿量品と申すは、本門の肝心なり。またこの品は、一部の肝心、一代聖教の肝心のみならず、三世の諸仏の説法の儀式の大要なり。教主釈尊、寿量品の一念三千の法門を証得し給うことは、三世の諸仏と内証等しきが故なり。ただし、この法門は、釈尊一仏の己証のみにあらず、諸仏もまたしかなり。我ら衆生の無始已来六道生死の浪に沈没せしが、今、教主釈尊の所説の法華経に値い奉ることは、乃往過去にこの寿量品の久遠実成の一念三千を聴聞せし故なり。有り難き法門なり。」(太田左衛門尉御返事 新1373頁・全1016頁)弘安元年4月 57歳御作

現代語訳:次に寿量品と言うのは、法華経本門の肝心なのです。また、この品は法華経一部(全巻のこと)の肝心、さらに一代聖教の肝心だけでなく、過去・現在・未来の三世の諸仏の説法の儀式の重大な要なのです。教主釈尊が寿量品の一念三千の法門を悟られた事は、三世の諸仏と内面の悟りが等しい為です。ただし、この法門は釈尊一仏の自らの悟りだけでなく、諸仏の悟りもまた同様なのです。我ら衆生が、無始の昔から六道の生死の苦しみの波浪に沈没したのですが、今の時に教主釈尊が説かれた法華経に逢えたのは、その昔・過去にこの寿量品の久遠実成の一念三千を聴聞したからなのです。有り難い法門です。

※本抄は、57歳の厄年をむかえた太田乗明に対して、心身の苦悩を治す大良薬が、法華経寿量品の事の一念三千の法門である事を明かし、文末には、大厄の事は日蓮に任せなさいと保証もされていますね。

 

 

「即身成仏と申す法門は、諸大乗経ならびに大日経等の経文に分明に候ぞ。しかればとて、彼の経々の人々の即身成仏と申すは、二つの増上慢に堕ちて、必ず無間地獄へ入り候なり。記の九に云わく『しかして二つの上慢、深浅無きにあらず。如と謂うは、乃ち大無慙の人と成る』等云々。諸大乗経の煩悩即菩提・生死即涅槃の即身成仏の法門は、いみじくおそたかきようなれども、これはあえて即身成仏の法門にはあらず、その心は、『二乗と申す者は、鹿苑にして見思を断じて、いまだ塵沙・無明をば断ぜざる者が、【我はすでに煩悩を尽くしたり】と、無余に入って灰身滅智の者となれり。灰身なれば即身にあらず、滅智なれば成仏の義なし。されば、凡夫は煩悩・業もあり苦果の依身も失うことなければ、煩悩・業を種として報身・応身ともなりなん。苦果あれば、生死即涅槃とて法身如来ともなりなん』と、二乗をこそ弾呵せさせ給いしか。さればとて、煩悩・業・苦が三身の種とはなり候わず。今、法華経にして、有余・無余の二乗が無き煩悩・業・苦をとり出だして即身成仏と説き給う時、二乗の即身成仏するのみならず、凡夫も即身成仏するなり。(中略)釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌・竜樹菩薩・天台・妙楽・伝教大師は、即身成仏は法華経に限るとおぼしめされて候ぞ。我が弟子等は、このことをおもい出にせさせ給え。」(大田殿女房御返事・即身成仏抄 新1380-1頁・全1005-6頁)弘安3年7月 59歳御作

現代語訳:即身成仏という法門は、諸々の大乗経や大日経等に明らかにされています。そうだからといっても、その諸大乗教や大日経の人々が即身成仏できるというのは、二種の増上慢に堕ち、必ず無間地獄へ入ってしまう事なのです。法華文句記の巻九には「そうであるならば二種の増上慢には深浅がないわけではない。仏と衆生が一如であるという者は、自身を省みる心のない大恥しらずの人となる」とあります。もろもろの大乗経にある煩悩即菩提・生死即涅槃の即身成仏の法門は非常に勝れて尊いみたいですが、これはあえて即身成仏の法門では無いのです。その理由は二乗と呼ばれる者は鹿野苑で仏の教えを聞いて、見惑・思惑の煩悩を断じただけで、いまだ塵沙・無明を断じておらず、自分ではすでに煩悩を断じ尽したと思って無余涅槃に入って灰身滅智の者となってしまったのです。身を灰としたのならば凡夫そのままの即身成仏ではなく、心智を滅するのですから成仏の義はありません。これに対して、凡夫は煩悩も業もあり、前生に作った業による苦果の現身を失うことがないので、煩悩・業を種として報身・応身となることができ、苦果の現身があるから、生死即涅槃と、そのまま法身如来となることができると説いて、二乗を叱り戒めたのです。そうだからといって、煩悩・業・苦が法身・報身・応身の種にはなりえないのです。

 今、法華経において、有余涅槃・無余涅槃の二乗がなくした煩悩・業・苦を取り出して、即身成仏すると説かれた時、二乗が即身成仏しただけでなく凡夫も即身成仏したのです。(中略)釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌の菩薩・竜樹菩薩・天台・妙楽・伝教大師は、即身成仏は法華経に限ると考えられていました。我が弟子等はこの事を思い出すべきです。

※本抄は、下総国葛飾郡八幡荘中山郷に在住の大田五郎左衛門尉乗明の夫人に与えられた御消息で、即身成仏の実義を明かし、別名を即身成仏抄と呼ばれています。大田乗明の夫人は、夫とともに早くから大聖人の門下となり数編の御消息をいただいており、その内容から仏教についての要素があったことがうかがえます。内容は、法華経のみが二乗・凡夫の即身成仏を説いていうことを明かし、即身成仏は法華経に限るのに、真言に即身成仏の法門を立てて、かえって法華経を誹謗した善無畏や弘法等の誤りを厳しく破折されています。

 

 

「予が法門は、四悉檀を心に懸けて申すならば、あながちに成仏の理に違わざれば、しばらく世間普通の義を用いるべきか」(太田左衛門尉御返事 新1372頁・全頁1015頁)弘安元年、57歳御作

現代語訳:私の法門は、四悉檀を心掛けて説くならば、とりたてて成仏の理に違わなければ、とりあえず世間の普通の道理を用いていくべきでしょう。

※四悉檀とは仏の教法を四種類に分けたもので、悉檀は成就・宗・理などの意味で、四悉とも云います。大智度論に説かれていて、①世界悉檀は楽欲悉檀ともいい、一般世間の願いによって法を説き、衆生を歓喜させ利益を与える②為人悉檀は各各為人悉檀の略称で性善悉檀ともいい、衆生の機根に応じて法を説き、過去の善根を増長させる③対治悉檀は断悪悉檀ともいい、三悪を対治するために貪欲者には不浄を、瞋恚者には慈心を、愚痴者には因縁を説き習得させ、破悪の益を与える④第一義悉檀は真実義悉檀や入理悉檀ともいい、真理を直接説いて衆生を悟らせる、とあります。

本抄は、先ず摂受型の世界悉檀と為人悉檀から仏法に誘引しても、成仏は叶う事を示されています。公場対決よりも対話が求められる現在、常識豊かに友好を深めていきたいですね。

 

 

「孝経と申すに二つあり。一には外典の孔子と申せし聖人の書に孝経あり。二には内典。今の法華経これなり。内外異なれども、その意はこれ同じ。釈尊、塵点劫の間修行して仏にならんとはげみしは何事ぞ。孝養のことなり。しかるに、六道四生の一切衆生は皆父母なり。孝養おえざりしかば、仏にならせ給わず。今、法華経と申すは、一切衆生を仏になす秘術まします御経なり」(法蓮抄 新1420頁・全1046頁)健治元年4月 54歳御作

現代語訳:孝経と言うものに二つあります。一つには外典の孔子という聖人の書に孝経があり、二つには内典の今の法華経です。内典、外典の違いはあっても、その意は同じです。釈尊が塵点劫の間、修行して仏に成ろうと励まれた事は何の為でしょうか、孝養の為です。ところで六道四生の一切衆生は、皆我が父母です。孝養が終らないうちは、仏に成られなかったのです。今、法華経と言うのは、一切衆生を仏にする秘術がある御経なのです。

※本抄は、曾谷教信入道法蓮に与えられた御文で、法蓮の法華経を読誦しての亡父への追善供養こそ真実の孝養であると、御教示されています。

 

 

「法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余へ心をうつさば、必ず輪廻生死のわざわいなるべし。ただし、師なりとも、誤りある者をば捨つべし。また、捨てざる義も有るべし。世間・仏法の道理によるべきなり。末世の僧等は、仏法の道理をばしらずして、我慢に著して、師をいやしみ、檀那をへつらうなり。ただ正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ。」(曽谷殿御返事 新1434頁・全1055-6頁)健治2年8月、55歳御作

現代語訳:法華経の大海の智慧の水を受けた根源の師を忘れて、他へ心を移すならば、必ず生死に輪廻する禍となるのです。ただし師であっても誤りのある者は捨てなければなりません。しかしまた捨てない場合もあります。これらは世間や仏法の道理によるべきです。末法の僧等は、仏法の道理を知らないで、我慢に執著して、師を卑しや檀那に諂っている。ただ正直であって少欲知足である僧こそ真実の僧なのです。

※宗門の僧は、真の日蓮仏法を知らないで我慢に執著して、大聖人の御心に随わず檀那に諂いながらも威張っています。そして正直でも少欲知足でもない全く稚拙な僧なのですね。

 

 

「経に云わく『いたるところの諸仏の土に、常に師とともに生ず』。また云わく『もし法師に親近せば、速やかに菩薩の道を得、この師に随順して学せば、恒沙の仏を見たてまつることを得ん』。釈に云わく『本この仏に従って初めて道心を発し、またこの仏に従って不退地に住す』。また云わく『初めこの仏菩薩に従って結縁し、またこの仏菩薩において成就す』云々。返す返すも本従たがえずして成仏せしめ給うべし。釈尊は一切衆生の本従の師にて、しかも主・親の徳を備え給う」(曽谷殿

御返事 新1435頁・全1056頁)健治2年8月、55歳御作

現代語訳:法華経に「在在諸の仏土に常に師と倶に生まれる」と説かれ、また「もし法師に親近するならば、速やかに菩薩の道を得ることができる。この師に随順して学ぶならば、恒沙の仏を見ることができる」と説かれています。釈には「もとこの仏に従って初めて道心を発し、またこの仏に従って不退地に住する」とあり、また「初めこの仏・菩薩に従って結縁し、またこの仏・菩薩によって成就する」とあります。くれぐれも本従を間違えないで、成仏していきなさい。釈尊は一切衆生の本従の師であって、しかも主と親の徳をも備えておられるのです。

※此処での釈尊とは日蓮大聖人の事であり、師弟関係で言えば、池田大作先生と私達・創価学会員にも相当するでしょう。

 

 

「『法華経は末法の始め五百年に弘まり給うべきと聴聞仕り、御弟子となる』と仰せ候こと。師檀となることは三世の契り、種・熟・脱の三益別に人を求めんや。『いたるところの諸仏の土に、常に師とともに生ず』『もし法師に親近せば、速やかに菩提の道を得、この師に随順して学せば、恒沙の仏を見たてまつることを得ん』の金言違うべきや。提婆品に云う『生ずるところの処にて、常にこの経を聞かん』の人は、あに貴辺にあらずや。その故は、次上に『未来世の中に、もし善男子・善女人有って』と見えたり。善男子とは法華経を持つ俗のことなり。いよいよ信心をいたし給うべし、信心をいたし給うべし」(秋元殿御返事 新1456頁・全1070-1頁)文永8年1月、50歳御作

現代語訳:「法華経は末法の始めの五百年に広まることになると聴聞して、御弟子となった」と仰せられている事について、師となり檀那(弟子と同等)となる事は、三世にわたる約束であり、種熟脱の三益の法理も別の人に求めてはならないのです。「いたるところの諸の仏土に、常に師と倶に生まれる」「もし法師に親近するならば、速やかに菩提の道を得ることができ、この師に随順して学ぶならば、恒河の沙のほどの仏を見ることができる」との金言に違いがあるでしょうか。提婆品にある「生まれる処で常にこの法華経を聞く」とのこの人とは、あなたではないでしょうか。その理由は、この前の文に「未来世の中に、若し善男子・善女人あって」と説かれているからです。善男子とは法華経を持つ俗人のことです。一層深く信心に励んでいきなさい。

※秋元殿に対する大聖人の確信あふれる御指導、師と弟子をつなぐ絆の深さ、我々も増々強盛な信心で、師弟の道を歩まなければと決意する次第です。

 

 

◎下総方面の門下にも重要御書が贈られていますが、これ等を拝読しますと、富木殿や秋元殿をも含めた、全員仲が良く強盛な信心で結束固くされ、武家社会の妙法家族(創価家族と同様)の様子が分かりますね。私達も広布推進に、更に頑張っていきましょう。

 

 

 

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