柚野浄蓮氏と日阿上人の血脈次第
今回は、在家信者であったと思われる柚野浄蓮氏と伝記が遺されていない日阿上人の宗門(大石寺)の血脈相承への経緯についてご紹介します。
★柚野浄蓮(生没年不明)に関する御文
「日影伝
釈の日影、俗姓は南条なり、日時に随順して法華を習修し又御書を聴聞す故に当家に於いて精きなり、殊に道心益深くして昼夜誦経、四威儀に題目を唱ふ、又門弟子供養作善をなす時は本尊を書写して弔ひたまふ、其の端書に云く『右妙経抄一卅三年菩薩の為に之を書写す、施主薗部阿闍梨日経応永廿癸巳年三月十五日大石寺遺弟日影(在判)』(已上。又平井に於て弘通あり。
影公大衆に語つて云く血脈を伝ふべき機なり是我か悲嘆なり、終に応永廿六年己亥病気の時油野浄蓮に血脈を授けて云く、下山三位阿闍梨日順は血脈を大抄に伝ふ其の例なきに非す、公白衣たりと雖も信心甚た深き故に之れを授く伝燈を絶えざらしめよと教示して、八月四日没したまふ。」(日精上人記「富士門家家中見聞 下」富要集5巻255頁)
現代語訳:日影伝 釈の日影上人、俗姓は南条です、日時上人に随順して法華経を習修し、又御書を聴聞し、当家(大石寺)に於いて清潔な人です。ことに道心益深くして昼夜を通して誦経し、四威儀に題目を唱えます。又門弟や子供に養育作善を行い、時には本尊を書写したり弔いもされるのです。その端書に「右妙経抄一卅三年菩薩の為に之を書写す、施主薗部阿闍梨日経応永廿20癸巳年3月15日大石寺遺弟日影(在判)」とあります。
又平井において弘通があります。
日影上人が大衆に語りかけて言います。「血脈を伝えるべき機会なのですが、これが私にとっては悲嘆なのです。最終的に応永26年己亥の年、(私・日影が)病気の時に油野浄蓮に血脈を授けて言います。下山の三位阿闍梨日順は血脈を大抄(重要書物)にして伝えますしたが、その例が無い事でもなく、あります。公(柚野浄蓮)が白衣(法衣では無いとの意味、初心者)であっても信心はたいへん深いので、これ(血脈)を授けます。伝燈(伝統)を絶えさない様にしなさい」と教示して、8月4日亡くなられました。
堀日享上人の解説:
柚野浄蓮の事 本師何に拠りて此感説をなすか 粛まざるの至りなり 例を日順に取ること妥当ならず(富要集5巻255頁 天註)
※本抄で、日精上人は、日影上人に事情があって、恐らく在家である柚野浄蓮に短期間の血脈相承をされた、としているのですが、日享上人は認めていない様です。
日因上人の解説
「時に日時上人三回忌、即応永十五年子六月四日なり、応永十三戊年御遷化なるか故なり、然而奥州七ヵ所坊主達と者新田本源寺、森上行寺、加賀野本道寺、柳目妙教寺、宮野妙円寺、会津実成寺、下野平井信行寺なるべし、又小金井蓮行寺、狭島福成寺小薬浄円寺なるべきか、日影上人(下野平井園部御出生俗姓不知)日時上人に随順し出家学道す、武州仙波に台家を学びて後下野平井園部に弘通し会津実成寺に住居すの時日時上人御遷化なり、之によって日阿代官として当山大坊に居住して日影上人を請す、然るに会津雪国にして翌年応永十四丁亥四月御登山なり、日阿代官老衰病に遭い而応永十四丁亥三月十日遷化なり、此に於て天大御相承等柚野の浄蓮に伝えて日影上人に授与す、又精師家中抄日影伝記には日影上人俗姓南条日時に随順し法華を習修す、乃至平井の本尊に云く右妙経妙一卅三年菩提のために之を書写す、施主薗部住少輔阿闍梨日経応永廿癸巳三月十五日、大石寺遺弟日影判云々、応永廿六己亥病中に及び血脈を伝うべき器なき故に柚野の浄蓮に血脈を授く、下山日順血脈を大妙に伝うるに例す、此則白衣なりと雖深信の故に之を授け御弟子日有をして御成人の時を待たしむるか、応永廿六己亥八月四日寂す云々、今私に之を案するに初説を実義となすべきか精師の記恐は時人の口伝を記するものか、後人能々之を尋すべし、但柚野浄蓮授与の板御本尊今岩城妙法寺に在り、紫宸殿御本尊の写なり、端書に云く応永廿七年大伴浄蓮に之を授与す云云、今推するに国替に付き浄蓮子孫岩城に移る者か」(日因上人記「有師物語聴聞抄佳跡 上」富要集1巻222-3頁)
現代語訳:時に日時上人の三回忌は、即ち応永15(1408)年子年の6月4日です。応永13戊年の御遷化された為です。そして奥州七ヵ所の坊主達とは、新田本源寺、森上行寺、加賀野本道寺、柳目妙教寺、宮野妙円寺、会津実成寺、下野平井信行寺です。また小金井蓮行寺、狭島福成寺小薬浄円寺も加わるべきでしょう。日影上人(下野の平井園部の御出生で俗姓は知らない)は、日時上人に随順して出家し仏道修行します。武蔵野の仙波に天台仏法を学んだ後に、下野(栃木県)の平井園部で弘通し、会津の実成寺に住居していた時に日時上人が御遷化されます。この事態により大石寺の大坊に居住していた日阿代官が日影上人を法主に要請します。ところが、日影上人は会津の雪国におられ、翌年の応永14(1407)丁亥の年の4月に御登山する予定です。(それに先立って)日阿代官が老衰の為に応永14丁亥の年の3月10日に逝去され、ここに至って、天大の御相承(意味不祥)等を柚野の浄蓮に伝えて日影上人に授与します。又、日精上人の「家中抄 日影伝記」には「日影上人は俗姓南条、南条日時上人に随順し法華を習修する。それから平井の本尊には「右妙経妙一卅三年菩提のために之を書写する、施主は薗部住少輔阿闍梨日経応永廿癸巳三月十五日、大石寺遺弟日影判」云々、とあります。応永26己亥の年、(日影上人が)病中であり及び血脈を伝うべき器も無かった為に柚野の浄蓮に血脈を授けます。下山日順が血脈を大妙に伝えた例に習ったのです。此のきまりは白衣(初めての試み)であると言っても深い信心を持つので、これ(血脈)を授けて、御弟子の日有を御成人するまでの時間を経たたせようとしたのでしょうか、(日影上人は)応永26己亥の年の8月4日に逝去されたとあります。今、私(日因上人)がこの件を考えるのに、初めての説を実話とするべきか、日精上人の記事は日時上人の口伝を記したものか、後世の人がよくよく之を調査してください。但し、柚野浄蓮が授与された板御本尊は、今、岩城妙法寺に在り、紫宸殿御本尊の写しなのです。端書には「応永廿七年に大伴浄蓮に之を授与する」とあります。今、推察すると国替えによって浄蓮の子孫は岩城に移っているのでしょうか。
※本章では、日享上人は天註解説をしていません。しかし、事実だった可能性は高いのではないでしょうか。そうであれば、敬称を略しますが、日時⇒日阿⇒柚野浄蓮⇒日影(そして⇒柚野浄蓮)となるのでしょうね。
★日阿上人(―1407年)に関する御文
「一日阿上人、日有師の相伝に云く日時上人の代官なり、応永十四丁亥三月十日没したまふ、贈上人の事日秀日弁両人は贈官なり、然れども貫主と一同には列せず、近代は来仲日沾贈官なり、此れ等の例に随順して案ずるに貫主か。」(日精上人記「富士門家中見聞 下 日有伝」富要集5巻257頁)
現代語訳:一つ、日阿上人は、日有上人の相伝では日時上人の代官であるとあります。応永14丁亥の年3月10日に亡くなられました。贈上人の事ですが、日秀上人と日弁上人の両人が贈官です。しかしながら、貫主として一同に列していなくて、近代は来仲日沾上人が贈官です。此れ等の例に随順して考えると貫主でしょうか。
「夫れ日什発心の根源は武蔵仙波の玄妙法印にて有りしが、冨士大宮の学頭に成り給ふて・有し時・渋沢の浄妙と云ふ大石の檀那の処にて・日時上人の御代官日阿上人に対し奉りし御法門候ひてつまり給ひて・乃ち帰伏し給ひて候ひしが、当門徒の化儀に謬り仏法に退屈召されて・退大取小の面々にて御座候上。是第一の謬なり」(日因上人記「有師物語聴聞抄佳跡 上」富要集1巻210頁)
現代語訳:そもそも日什上人(1314-1392年)が発心した本質的な原因は、武蔵仙波(現埼玉県川越市、天台宗の関東中心地)の玄妙法印(日什の天台宗僧侶時の名)となり、冨士大宮の学頭に成られた時に、渋沢の浄妙と云う大石寺の檀那の場所で、日時上人の御代官である日阿上人に対して法門をし詰まってしまい、帰伏されたのですが、当家の門徒の化儀に誤りがあり、仏法に退屈していた退大取小(大乗から退転して小乗の教えに執着するの意)を主張する顔ぶれだったからでしょう。これこそが第一の誤りです。
日因上人の解説
「時に日時上人仙波学門なり、序を以て日什玄妙能化を教化す・故に宗祖の書抄を拝見さしむ、故に日什玄妙・内得解すと云へども忽に天台の講解を捨て難し・故に序を以て富士大宮千眼学頭として移り来る、仍て内々当山に通用して当家を学す・故に渋沢浄妙の所にして日阿上人と法門之有り、終に当山に皈伏し日時上人の弟子と為る而も当山の行躰・勤め難く終に当山を出て身延山・岩本実相寺等と六門徒を学行し終に直受相承を立つ、一品二半宗と云う」(日因上人記「有師物語聴聞抄佳跡 上」富要集1巻210頁)
現代語訳:時に日時上人は仙波学門です。事(仏教或いは日蓮仏法か)の始まりから日什玄妙の能化を教化します。それ故に、宗祖大聖人の書物を拝見させます。その為に日什玄妙が内得信仰し解脱したといっても、すぐに天台宗の講義・解釈を捨て難いのです。その為に事の始まりから富士大宮の千眼学頭として移り来ます。従って内々には当大石寺に通って大石寺の宗義を学びます。その為に渋沢浄妙氏宅で日阿上人と法門を交わして最後には大石寺に帰伏し日時上人の弟子となります。そうしても当山大石寺の行躰や勤めが難しくて、終には当山を出て身延山や岩本実相寺等と六門徒を学行し終に直受相承を立てます。此れを一品二半宗と云います。
※宗門では日阿上人を第七世法主されていますが、日阿上人自身の伝記は残されていません。日時上人の代官とありますが、能化であったのかどうかも明記されていない為、おそらく高僧では無かったと思われます。混乱期の当時だからこそ、日阿上人の血脈相承が認められ、柚野浄蓮氏が相承候補とされてたのでしょうね。
◎宗教が発生・発展してきた目的は何かと言えば、第一に人類・人々を幸せにする事でしょう。特に日蓮仏法では、自身の人間革命、つまり人間性の確立、仏法用語で即身成仏・一生成仏がその直道とされたのでしょう。
でもどうしても宗門が発展できない場合、法の継承を定め、口伝や書物で令法久住されてきたのですね。ところが、大聖人滅後、六老僧や在家信徒に分裂が生じ、有力だった興門派も日興上人滅後、雨後の筍の様にバラバラに分かれてしまって現在に至っています。
日蓮正宗では、法の継承が僧侶による血脈相承と解釈され、今に繋がっている様に見せていますが、今回の記事で必ずしもそうではないと明らかになったのではないでしょうか。