日蓮大聖人の御生活の状況 中

 

 

更に続いて、日蓮大聖人が御弟子達に送られた御消息文より、鎌倉での大聖人の厳しい御生活状況に思いを馳せてみましょう。

 

 

 「この月の十一日たつの時より十四日まで大雪ふりて候しに両三日へだてて・すこし雨ふりてゆき(雪)かたくなる事金剛のごとし・いまにきゆる事なし、ひるも・ よるも・さむくつめたく候事法にすぎて候、さけはこをりて石のごとく、あぶらは金ににたり、なべかまは小し水あればこおりてわれ・かんいよいよかさなり候 へば、きものうすく食ともしくして・さしいづるものも・なし。
 坊ははんさくにてかぜゆきたまらず・しきものはなし、木は・さしいづるものも・なければ・火もたかず、ふるきあかづきなんどして候こそで一なんど・きたる ものは其身のいろ紅蓮大紅蓮のごとし、こへははは大ばば地獄にことならず、手足かんじてきれさけ人死ぬことか ぎりなし、俗のひげをみればやうらくをかけたり、僧のはなをみればすずをつらぬきかけて候、かかるふしぎ候はず候に去年の十二月の卅日より・はらのけの候 しが春夏やむことなし、あきすぎて十月のころ大事になりて候しが・すこして平愈つかまつりて候へども・ややも・すればをこり候に、兄弟二人のふたつの小 袖・わた四十両をきて候が、なつのかたびらのやうにかろく候ぞ・まして・わたうすく・ただぬのものばかりのもの・をもひやらせ給へ、此の二のこそでなくば 今年はこごへしに候なん。
 其上兄弟と申し右近の尉の事と申し食もあいついて候、人はなき時は四十人ある時は六十人、いかにせき候へどもこれにある人人のあにとて 出来し舎弟とてさしいで・しきゐ候ぬれば・かかはやさに・いかにとも申しへず・心にはしずかに、あじちむすびて小法師と我が身計り御経よみまいらせんとこ そ存じて候に、かかるわづらはしき事候はず、又としあけ候わば・いづくへもにげんと存じ候ぞ、かかる・わづらわしき事候はず又又申すべく候。」(兵衛志殿 御返事1098-9頁 弘安元年1129日 57歳御作、楠板建立1年前)


【通解】 この月の11日の辰の時から降り出した雪が大雪となり14日まで振り続き、その後23日少し雨が降ると雪が固くなりまるで金剛の様ですが、今もって消えません。 昼も夜も寒く冷たい事は並外れています。 酒は凍って石の様であり、油は凍って金に似ています。 鍋・釜に少し水が入っていると、それが 凍って割れてしまいます。 寒さはますます激しくなってきて、衣服は薄く、食物も乏しいので外に出る者もありません。
 庵室(又は御堂)はまだ半分作りかけの状態で、風雪を防ぐこともできず、敷物もありません。 木を取りに表に出る者もいないから、火も焚けません。 古い垢のついた小袖一枚くらい着た者は、その肌の色が、厳寒のために紅蓮(ぐれん)・大紅蓮のようです。  その声は阿波波(あはは)地獄、阿婆婆(あばば)地獄から発する異様な声そのままです。 手や足は凍えて切れ裂け、人が死ぬことが絶えません。 在家の人の鬚を見ると凍って瓔珞(ようらく、意味:仏堂・仏壇の装飾具)をかけた様であり、また、僧の鼻を見ますと鈴を貫きかけた様になっております。 この様に不思議なことはかつて無かった事です。 その上さらに自分(日蓮大聖人)は去年の十二月三十日から下痢をしていましたが、今年の春・夏に なっても治りません。秋を過ぎて十月の頃、重くなり、その後、少し治りましたが、ややもすればまた起こることがあります。 そんな時に、あなた方 兄弟お二人から送られた二つの小袖は、綿が四十両も入っているのに、夏の帷子(かたびら)の様に軽いのです。 まして、今までは綿の薄いただ布ばかりの様な衣服でした。 どれほどつらかったか推量してみて下さい。 この二つの小袖が無かったならば、今年、自分(大聖人)は凍え死んだでありましょう。
 その上、衣服のみならず、あなた方兄弟といい、右近尉からの事といい、食料も相ついで到着しました。 この庵室は、人が少ない時でも40人、多い時には 60人にもなる。 いくら断っても、ここにいる人の兄といって来たり、舎弟といって尋ねて来ては腰をおちつけるので、気がねして何ともいえずにおります。 (大聖人のお気持ちとしては)心静かに、庵室で、小法師と二人だけで、法華経を読誦したいと願っていたのに、こんなに煩わしい事はありません。 また、年が明けたならば、どこかへ逃げてしまいたいと思っています。 こんな煩わしい事があれば、また申し上げることにしましょう。





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