「日蓮大聖人の出世の本懐」の本意と捉え方 8(完)
当時の高僧の捉え方
左京日教の捉え方
左京阿闍梨日教又は左京阿日教(生没1428-不明 年)は、本是院日叶と名乗り日尊系の住本寺に入門しますが、文明13(1481)年には大石寺の日有上人門下に入り、名を表記に改めています。その後、大石寺の法主の権限を高め、稚児法主の指南役を務めたと考えられています。
「凡そ円頓の学者は広く大綱を在して網目を事とせず、倩ら聖人出世の本懐を尋れば源権実已過の化導を改め上行所伝の乗戒を弘めんが為め・図する所の本尊は正像二千年の間・一閻浮提内未曽有の大曼荼羅なり、今の時に当つては迹化の教主既に益なし、況や哆々婆和の拙仏をや、」(左京日教 記『穆作抄』富要集2巻285頁)文明17(1485)年、57歳作、祖滅後203年
現代語訳: 概して円頓の学者は、広く大綱(大要)を重要視して綱目(細目)を大事にしていません。よくよく大聖人出世の本懐を調べてみると、源と権教実教の已過の化導を改めて、上行菩薩所伝の乗戒を弘めようとしたのです。図顕する本尊は、また正像二千の間、一閻浮提の内でいまだかつて無かった大曼荼羅なのです。今になれば、迹化の教主は、既に利益は無く、ましてや哆哆婆和(たたばわ:取るに足らない的外れ)の拙劣な仏ではないでしょうか。
※本文の原文は、日順上人が述べられた日興上人のお言葉(日興上人閲、日順上人記『五人所破抄』新2190頁・全1614頁、富要集2巻5頁、嘉暦3(1328)年作 日順34歳 祖滅後46年)にあります。同文が、すでに紹介させて頂いた日精上人の『富士門家中見聞 上 日興』(富要集5巻166頁)にも引用されています。
「当宗としては脱益の教主を造立し奉らざる事は聖人御出世の御本意但迷つて釈迦多宝の仏像を造りけん、法花宗又は自余の他宗などが門家へ反復帰伏の時も所造の仏をば如何と成し奉る・此の事こそ一宗の大事なり、法花宗は法花経に違はざるが肝要なり」(左京日教 記『穆作抄』富要集2巻285頁)
現代語訳:当宗としては脱益の教主を造立し尊崇する事は、大聖人の御出世の御本意をただ迷って釈迦・多宝の仏像を造っているのです。法華宗又はそれ以外の他宗などが当門家に反復・帰伏する時も所持・製造している仏像をどの様に扱われるのか・此の事態こそ一宗にとって大事な事なのです。法華宗は法華経に相違しない事が肝要なのです。
※この時代に、「造仏容認論」が出回っており、日教上人も警告されています。
要法寺の日辰上人の捉え方
日辰上人(生没1508-1576年頃)は、京都要法寺13代貫主として、日尊門流の教学興隆に尽力された方です。
「いかに聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊の木像を最前には破らせ給ふ可きと強ひて申して候しを軽しめたりと思し食しけるやらん、日興はかく申し候こそ聖人の御弟子として其の跡に進んで帰依し候甲斐に重んじ進せたる高名と存じ候は、聖人や入り替らせ玉ひて候ひけん」(要山 日辰上人記『祖師伝』富要集5巻27頁)永禄3(1560)年作 祖滅後278年
現代語訳:どの様に大聖人の御出世の本懐である南無妙法蓮華経の教主釈尊の木像を最近になって破壊させて頂くべきである、と強く述べた事を軽しめたと考えておられえるのでしょうか。日興上人がこの様に述べられた事こそ、大聖人の御弟子として其の後継に喜んで帰依して得られる結果を重くみて、進められた高名(評価の高い業績)と思われたことは、大聖人が身に入り替らせて行われた為なのです。
※日辰上人は、「造仏読誦」「種脱一帯本尊」等の邪義を立てていた人物ながら、この様な殊勝な御文も遺されていたのです。
「口決結要の血脈は聖人出世の本懐衆生成仏の直路なり、聖人御入滅程無く聖言朽ちず符合せり、恐るべきは一致の行者悪むべきは獅子身中の蝗虫なり、建治三年丁丑八月十五日聖人の言く日蓮が申しつる事共、世出世共に芥爾許りも違はゞ日蓮は法華経の行者に非ずと思ふべし云云、未来世弥み聖言符合すべきなりと之を覚知す貴し貴し云云、設ひ付弟為りと雖も新弘通所建立の義無んば付属を堅く禁め給ふ者なり」(『祖師伝』富要集5巻42頁)祖滅後278年
現代語訳:口決結要(ぐけつけっちょう:法華経如来神力品で、釈迦が地涌の菩薩である上行等に付嘱したこと)の血脈は大聖人の出世の本懐であり、衆生成仏の直路なのです。大聖人の御入滅で無かった頃の御聖言と、朽ちることも無く符合します。恐れる事は一致派(法華経の前半部分【迹門】と後半部分【本門】を等しく重視する立場)の行者であり、悪く嫌う事は獅子身中の蝗虫(バッタ)です。建治3年8月15日(の御文に)大聖人の仰せでは「日蓮が申しつる事共、世出世共に少しでも違うならば、日蓮は法華経の行者ではないと思いなさい」「未来世にはいよいよ御聖言に符合する筈です、と之を覚知します、貴いことです貴いことです」(該当する御書不明)。たとえ日蓮大聖人の付弟であると主張しても新しい弘通所の建立の道義が無ければ、付属することを堅く禁止されるべき者です。
※此処では、富士門流全般の心得を御教授されているようです。
◎室町時代の富士門流には、関西系の日辰上人と同時期の関東系に大石寺の日有上人(1409-1482)に加え、保田妙本寺の日要上人(1436-1514)・日我上人(1508-1586)、西山本門寺に日眼上人(-1491)がおられましたが、彼等から「大聖人の出世の本懐」を述べられた御文から、「戒壇本尊」なる名称は、残念ながら見つけられませんでした。ただ、日我上人は、「久遠寺の板本尊今大石寺にあり、大聖御存日の時の造立也」(妙本寺 日我上人 記『観心本尊抄抜書少々』富要集4巻170頁、永禄4(1561)年3月草案、祖滅後280年)と、大聖人の直造の本尊と信じて記述しています。また、要法寺18世の日陽上人は「四月廿四日大石寺に着く(中略)御霊宝等残らず頂拝す、中にも日本第一の板本尊(以下略)」(要山 日陽上人 記『祖師伝附録』富要集5巻59頁、寛永元(1624)年9月以降作、祖滅後342年)と「楠板本尊」を褒めています。しかしどちらも「大聖人の出世の本懐である」とか「戒壇本尊である」とは述べられておられません。
つまり、この時代頃の富士門流の本家である大石寺内に「楠板本尊の存在」が確認されていても、これが、「大聖人の出世の本懐」や「戒壇本尊」等との認識は、全く存在しておらず、大聖人滅後200年以降の後世の創作だろうと思われるのです。