稀代の謀略家・山崎正友の悪事年表 12

 

まだ続く「闇の帝王」と不相承法主」の攻防、剥がされた「闇の帝王」の素顔

 

昭和571月  山崎は再び、阿部日顕が遊蕩坊主であると日顕を痛烈に批判する。

「父親の日開上人(日蓮正宗60世法主)が亡くなったときも、友人と吉原の遊廓にいつづけしていたため、(もちろんその時も僧侶の身でした)死に目に会えなかったという逸話は……。」(『諸君!』昭和571月号 )

 

昭和5715日 日顕は「全国教師初登山」で山崎について発言する。

「最近発刊された『謀略僧団 悪業の巣』という小冊子がありますが、それによると山崎正友というような人間が、いかに宗門の僧侶と結託し、それを狂わせているかということを詳しく書いております。ほんのひと握りの我見、我欲、そして我がままで、宗門を自分達のちっぽけな考えによって自由に操ろうとするような魔の用きをもった僧侶達と結託をして、かわいそうに、多くの僧侶がそれに流され、また縛られて、今現在、不幸のどん底に堕ちております。これからのち、ますます彼らは不幸になってまいります。」(『大日蓮』昭和571月号)

阿部日顕の説法では、山崎の「悪業」は、他者を巻き込んで不幸にさせていくと述べている。

 

昭和57111 日顕は「無任所教師初登山」で 発言する。

「また最近、山崎正友と正信会とやらの幹部である佐々木秀明とかの連中との癒着を書いた本が出回っているそうですけれども、やはりそれはそのとおりだと思います。ですから私は二、三年前からそのようなことについても皆さんに警告をしていたはずです。必ずおかしな人間がいて、非常に巧妙な手口で嘘を本当のような形で操り、それに全部が巻き込まれていっているということを申してまいりましたが、そのような本を読めばそれがよく解ったことと思います。もちろん、そこに書かれてあるものが全部ではなく、実際にはまだ隠れた彼等の悪業の数々が必ず有ると思いますけれども、いずれはその全体が明らかになってくると思うのであります。」(『大日蓮』昭和572月号)

 

昭和57119 日顕は「全国宗務支院長会議兼教師代表者会議」で発言する。

「先般『謀略僧団 悪業の巣』と題する、山崎正友等の所業に対しての裏側から見た、ある程度のことを書いた小冊子が出版されまして、私もそれを一読しましたけれども、あれはまだほんの一部分のような感じがいたします。実際にはまだまだ分からないところ、深いところで色々な策動があり、それによって多くの人々が根本的に狂った見解を抱かされ、そして僧と俗の離反、あるいはまた僧と僧との離反等が行われたのであります。」(『大日蓮』昭和572月号)

 

昭和57225日 「月刊ペン事件」の差し戻し審法廷で、被告側証言者として立った山崎は、 彼自身の「悪質だから断固名誉毀損で告訴すべし」と答申していた「報告書」を検事から示されて、「上申書」との食い違いを厳しく尋問される。

山崎は「真実である」ことを学会の雰囲気から「事実無根」と曲げて書かざるをえなかったという、苦しい言い訳を繰り返すが、積極的告訴推進者だった当の本人が、真実を語る裁判になる事は確実であり、「事実があることを告訴せよ」と言っていたことになる。「問題なく名誉毀損は成立する」と確約していた事と大きく矛盾し、上申書が、世間を欺くものであった事を、逆に立証してしまったのである。(サンデー毎日 ’82.12.19167頁)

 

昭和57331日 日顕は「第三回非教師指導会」で自身の相承について、誰にでも通じる根拠のない言い訳をする。

「私としては、君達にこのようなことを申したくもないのでありますけれども、今日、百数十人の者どもが変なことを言っておりますが、その中心は『日達上人はだれにも相承をされた形跡がない。故に阿部日顕師は法主・管長を詐称しているんだ』などというばかげたことなのであります。しかし、もしも日達上人が相承をなさらなかったとすれば、どうなりますか。仏法は絶えたことになるではありませんか。日達上人がもしもそのことをなさらないで御遷化になったならば、本当に仏法はなくなっているわけなのです。〈中略〉もしもなくなったならば、大聖人は仏様ではないということであり、末法の一切衆生を成仏させることはできないということになるのであります。」(『大日蓮』昭和575月号)

 

昭和576月 山崎は、日顕の卑劣さぶりを証言する。

「思いおこせば、昭和477月、〝妙信講〟という講中が貴方の教義歪曲と横暴に対して糾弾に立ち上り、『たとえ流血の惨がおころうと、我々はあとにひかぬ』とはげしい行動に及んだことがありました。このとき当時の宗務総監早瀬道応師と、教学部長阿部信雄(現日顕)師は、身に危害が及ぶのをおそれて、いちはやく行方をくらましてしまいました。有馬温泉あたりで、じっと息をひそめて成りゆきを見守っていたそうであります。〈中略〉

日達上人は、成りゆきによっては、あるいは、身に危害が及ぶかも知れないと覚悟を決められ、白装束をまとい、辞世の歌まで用意されて、妙信講説得におもむかれました。

そのころ、北条前会長が、日達上人とかわした会話の記録が、北条氏自身の筆でものこされています。

日達上人『早瀬と阿部は、殺されるかも知れないといってどこかへ逃げてしまった。だから、私が説得にいきました。仏法のために死ねたら、(僧侶として)本望だと思うが……、とにかく逃げてしまったから、法主の私が出かけていきましたよ』

当時の御法主日達上人を、生命をかけてまもるべき立場にあったにもかかわらず、スタコラ逃げてしまった阿部日顕師が、法主を僭称した後、自分の周りの人間をだれも信用できず、昼も夜も、ものものしく身辺の警護を固めているのも、むべなるかなといえましょう。」(『諸君!』昭和576月号)

 

昭和578 山崎は「日顕の相承は不可能である」と証言する。

「少くとも、昭和54722日、お亡くなりになるまで、日達上人は、後継者を決めかねておられたことだけは明白です。そのことについての証人は他にもあります。

私が日達上人のお側をはなれたのは、日達上人がお亡くなりになる四時間前であります。そして、私が、上人のお側をはなれている間に、阿部師が日達上人の側にいたということは、阿部師が東京にいた関係上、不可能です。阿部師は、そこで、昭和53415日、日達上人から、内々に相伝を受けた、と称しています。しかし、この頃、日蓮正宗と創価学会の間は決裂状態になっていたのみか、〝親学会派〟とみなされていた、早瀬総監、阿部日顕教学部長(当時)らは、日蓮正宗内において、日達上人の信を失い、実権をなくしていた最中のことです。」(『諸君!』昭和578月号)

 

昭和571020日 山崎は「恐喝事件裁判」の被告人の身として、初めて池田名誉会長を迎え撃つ当日に遅刻し、アワを食って東京地裁に駆け込む姿を、NHK昼のテレビのニュース報道番組で報じられる。(サンデー毎日 ’82.11.21158)

 

昭和571027日 東京地裁501号法廷で、山崎は裁判長の許可を得て、自ら質問の機会を掴む。“世紀の対決”とマスコミが注視し、自らも「法廷では爆弾がある」「動かぬ証拠で池田氏の仮面を剥がす」「法廷で池田氏にとどめを刺す」と大時代的なセリフで前宣伝していたが、発言は全くのしどろもどろで「君だって弁護士だったのだから分かっていると思って、さっきから黙って聞いていたが、まとまりが全然ない。もっと整理して話しなさい(趣意)」と吉丸真裁判長に警告されるほど、わずか10分余り、一矢報いるどころか、名誉会長の体に一指も触れずに、土俵中央に転がっていたという、誠にお粗末な“対決劇”であり、仮面を剥がされた「闇の帝王」の哀れな素顔だった。サンデー毎日 ’82.11.21156158)

 

昭和5711月 暗闇の帝王、山崎の懲りない発言。

「私がまだまだ手の内に秘しているカードは、決して少なくないことを、念のため、予告しておきます。」(『諸君!』昭和5711月号)

 

 

 

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