大石寺が売られ謗法の地に
今回、紹介の書物(日有上人の談を南条日住上人が聞書されたのか、或いは日有上人の直記なのか、のどちらかの御文を日因上人が紹介されている「「有師物語聴聞抄佳跡」)の中に、「大石が原(大石寺)が捨てられた(売られた)」と繰り返し書かれています。本件の出来事は、宗門にとって、明らかにしたくない恥部の事実だった事に間違いないでしょう。
「伍朝にては難波の四天王寺を初として候、其の上釈尊出世の本懐たる末法修行の寺に於ては未だ三国に立ち候はざる処に此の富士大石寺は上行所伝の題目弘通寺の元にて候、柳袋の彦次郎地頭方より得銭をかけられて候間、此大石が原と申すは上代地頭奥津方より永代を限り十八貫に買得にて候処を、公事迄かけられて候事、末代大切なる子細にて候間此の沙汰を成ぜんが為めに三人の留主居を定めて候えば如何様の思案候ひけるや、留主居此の寺を捨て除き候間六年まで謗法の処に成り候間、老僧立帰り高祖聖人の御命を継ぎ奉り候、さ候間一度謗法の処と成り候間、又地頭奥津方より廿貫に此の大石を買得申し高祖聖人の御命を継きたてまつり候と仰せ給ひ候已上。」
(日因上人記「有師物語聴聞抄佳跡 上」富要集1巻185-6頁)
現代語訳:日本国では難波国(現在の大阪)の四天王寺が寺発祥の初とされています。さらに釈尊の出世の本懐である末法の修行の寺に於いて、インド・中国、日本の三国に未だ建立されていないのに、此の富士大石寺は上行菩薩所伝の題目を弘通する寺の元なのです。柳袋の彦次郎は地頭方より給金をいただいている期間中に、此の大石が原という場所は上代の地頭の奥津方より永代に亘るように銭十八貫文で買い得たのですが、公共事業までする事になったという、末代まで続く大切な事情があるので、此の事業を行う為に三人の留主居を定めたのは、どの様な考えがあったのでしょうか。留主居が此の寺を捨て除いた6年の間、謗法の場所に成ったのです。老僧は、寺に立帰り高祖日蓮大聖人の御命をお継ぎされるのです。そうする間、一度謗法の場所と成った期間中に、又地頭の奥津方より(老僧は)銭20貫文で此の大石寺を買い戻すと言って高祖大聖人の御命をお継ぎする事ができた、と仰せられました。 以上です。
上記文書の堀日享上人見解:
柳袋彦次郎未だ他の文献に見えず 奥興古書同一なり 三人の留守居は山城阿等の事なるべし 六年事不明なり 他の文献に見えず (「有師物語聴聞抄佳跡 上」富要集1巻185頁 天註)
※老僧とは、大石寺9世日有上人御自身の事で、大金を払って大石寺を買い取り大聖人の御命をお継ぎできた、と自慢されてもいますね。
大石寺31代日因上人の註解:
「次に柳袋の彦次郎等と者未だ之を勘へず、但し此の下日有上人御代の事之を記するか、彦次郎即地頭なるか、或は地頭より柳袋彦次郎に申付けられ大石寺より年貢を取り給ふ事なるか、中に於て上代地頭奥津方とは日行上人・日時上人両代の間・日郷の弟子中納言阿闍梨日伝と伝ふ僧奥津方に取入り違乱をなす故に十八貫文を出し、此大石が原を永代買ひ得たる者なり、然るを亦彦次郎地頭より年貢を取らんと欲する故に日有上人末代の事を思召し三人の留主居を指し置かせられ申し被きを致為せ玉へる者か然るに此三人の留主居・寺を捨て退き去る故に六年の間・彦次郎に奪取られ謗法の地と成り玉ふなり、之に依つて日有上人御老躰の身として寛正年中に甲州大杉山より立ち帰り・此の寺に住し二十貫文を出して此の大石が原を買い取り寺を建立して・高祖大聖人を安置し法命を相続すと申す御説法なり、老僧立帰るとは日有上人御自身の事なるべし、寛正元年庚辰より文明十四壬寅九月廿九日に至る廿三年なり、故に知ぬ寛正三年の比・六十有余の老僧なるべし、応に知るべし高祖大聖人の御命を継ぎ奉るの処大切なり」
(日因上人記「有師物語聴聞抄佳跡 上」富要集1巻187頁)
現代語訳:柳袋の彦次郎等の事は、未だに罪に問うていません。但し、此の文書の下で、日有上人御代の事なので之を記されたのでしょうか、彦次郎は当時地頭だったのか、或いは地頭が柳袋彦次郎に申付けられて大石寺より年貢を取り立てる事をしていたのか、この際中に上代地頭の奥津方とは、日行上人・日時上人両代の間・時代に、日郷の弟子の中納言阿闍梨日伝と伝えられている僧は、(彦次郎等が)奥津方に取入って違乱を行なったので銭十八貫文を差し出して、此の大石が原の土地を永代に買い得たのです。ところがまた、彦次郎は地頭より年貢を取ろうと欲を出した為に、日有上人は末代の事を思い計って三人の留主居を指名して大石寺に置き、(彦次郎等の)申し立てに対して対応係(被害者側)にさせようとしたのですが、ところが此の三人の留主居が、寺を捨てて退去した為に、6年間、(この土地を)彦次郎に奪い取られて謗法の地と成ったのです。この為に日有上人が、御老体の身でありながら、寛正年代中に甲州の大杉山より立ち帰り・此の寺に住み込み銭二十貫文を出して此の大石が原を買い戻し寺を建立して・高祖大聖人像を御安置し法命を相続したと云うお説法(お話)です。老僧が立ち帰るとは日有上人御自身の事なのです。寛正元(1460)年庚辰より文明14(1482)年壬寅9月29日に至る23年です。だから知ってください。寛正3(1462)年の頃の60有余歳の老僧なのです。本当に知ってください。高祖日蓮大聖人の御命をお継ぎすることができた場所であり大切なのです。
上記文書の堀日享上人見解:
寛正中大杉山の事因師已に時の伝説に動かされたるものか(「有師物語聴聞抄佳跡 上」富要集1巻187頁 天註)
※日有上人及び日因上人の両人とも、大石が原にある大石寺が一時期(6年間)ではあるけれども、謗法の地になったという史実を認めておられます。日享上人は天註で懐疑的でしたが、本書の末尾に「現本曽て疏釈部に編入せしも今日有上人の深義あるを見て更に相伝信条部に改輯せり」とあり、事実と認めざるを得ない様です。
◎宗門では長年にわたり、大石寺の宗史を「富士の清流」の如く何の乱れも無いと宣伝されて来ましたが、実際の史実はそうでは無く濁流もあった、という事例です。