楠板本尊の作成者は誰か

 

大石寺中心の歴史を詳細に記述したのは下記の如く17世法主の日精(生没16001683年)である。

 

日精上人記『日蓮聖人年譜』(富要集567146頁)

日精上人記『富士門家中見聞上中下』(富要集5147266頁)

 

楠板本尊の彫刻を宣伝したのも日精なので、彼を彫刻作成者とする考えもあるが、私は歴代法主の中で、6世日時・9世日有・14世日主に、それぞれ楠板本尊作成の動機があり、日精以前に石山が楠板本尊の彫刻を作ったとすれば、この3人に絞られると考えている。


①日時(?-1406)は、日郷系安房妙本寺日伝との裁判に勝ち、日道門流(富士大石寺門流)を形成するが、日道門下には安房妙本寺や北山本門寺に匹敵するほどの本尊・御影が無かったので、日時は自ら願主となって御影を造立する。

 

「桧彫刻大聖人(等身御影裏書)敬白大施主、奥州法華宗僧俗男女、野州法華宗等僧俗男女、武州法華宗等僧俗男女、駿州法華宗等。嘉慶二年太才戊辰十月十三日、願主卿阿闍梨日時在り判、仏師越前法橋快恵在り判。 総本山。」(第三漫荼羅脇書等『富要集8190頁』)

 

また、多数の書写本尊を作成している事から「楠板本尊」作成の可能性もあり得るだろう。

 

②日有(14021482)は、奥州、京都・越後を布教し、人力・財力を結集して本山を復興させ、大石寺に事の戒壇・本尊堂の必要性を主張し、

 

「当宗の御堂は如何様に造たりとも皆御影堂なり、十界所図の御本尊を掛奉り候へども・高祖日蓮聖人の御判御座せば只御影堂なり」(有師物語聴聞抄佳跡上『富要集1193頁』)

 

と述べ、紫宸殿本尊を板本尊に摸刻する。

 

「(弘安三年三月日紫宸殿の本尊を摸刻し左の加筆を為す)文安二年乙丑十一月六日、九世日有在判、須津(すど)の庄鳥窪の住持日伝に之を授与す、総本山。」(第三漫荼羅脇書等『富要集8194頁』)

 

「一、宝冊に云く、元徳二年興師書を以て大石寺を視篆せんことを命ず師乃ち之れに応ず其の状に曰く日興跡条々の事。これを大事とす当山日浄記に云く、然るに日有未聞未見の板本尊之れを彫尅し己義荘厳の偽書を作る其の偽書とは、此の文並に番帳を指すなり、所言全く実跡たらば驚歎に堪へざる処、所言実に悪口ならば速に之を削除し復末徒の悪言をも禁ずべし、請ふ明示を惜むなかれ。」(両山問答『富要集第742頁』)

 

と他宗派からも指摘されるほどであり、「楠板本尊」作成の最有力者であろうと考えられる。

 

③日主(15551617)の代に、北山本門寺から、西山との出入りにより、北山において信仰の中心とされ戒壇本尊としていた本門寺大堂本尊が紛失するという事件があり(この後北山では生御影信仰が中心に)、この機会を捉えて、日主は、大石寺こそ真の戒壇建立の地を主張し、

 

「大石寺は御本尊を以て遺状と成され候、是れ即ち別付属唯授一人の意なり。大聖より本門戒壇の御本尊、興師より正応の御本尊(譲座御本尊)法体御付属なり」(「日興跡条々事示書」歴全1459頁)

 

と述べている事から、自身の主張に合う戒壇本尊を作成した可能性が考えられる。

 

以上私は、少なくとも日精以前に大石寺で「楠板本尊」の彫刻またはそれに準ずる漫荼羅を作成した可能性の高い人物として、上記3人が考えられるが、宗史情報の拡大に加え科学技術の進歩により、「楠板本尊」作成年代及び作成に関与した真の人物を特定する日も近いだろうと推考している。


 

 

 

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