あなたに平安がありますように。

あなたが救われますように。

イエス様のみこころのとおりになりますように。





そのうちに、彼らはベツサイダに着いた。
すると人々が、ひとりの盲人を連れてきて、さわってやっていただきたいとお願いした。

イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、
「何か見えるか」
と尋ねられた。

すると彼は顔を上げて言った、
「人が見えます。
木のように見えます。
歩いているようです」。

それから、イエスが再び目の上に両手を当てられると、盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした。

そこでイエスは、
「村にはいってはいけない」
と言って、彼を家に帰された。

さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、
「人々は、わたしをだれと言っているか」。

彼らは答えて言った、
「バプテスマのヨハネだと、言っています。
また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。

そこでイエスは彼らに尋ねられた、
「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
ペテロが答えて言った、
「あなたこそキリストです」。

するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。

それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、

しかもあからさまに、この事を話された。
すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、

イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、
「サタンよ、引きさがれ。
あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。














村を出るとは、人の教えから出ることです。

イエス様を見つめていると、どうしたら良いのかはっきりと見えてきます。

見えてきたなら、人の教えに戻らないで、イエス様に従って行くことです。

人はイエス様が何者なのか見えません。

イエス様に従う者だけが、イエス様が救いだと理解できます。

ペテロはイエス様を人の方に引き寄せたのです。

人はイエス様の方へ近づいて行かなければなりません。

イエス様を自分の都合の良い方へ動かしてはいけないのです。

イエス様が殺されることはあってはならないことですが、人が罪を認めて悔い改めるために、イエス様は死ななければなりませんでした。

罪を認めて悔い改めるためであって、イエス様が人の罪を身代わりに背負って死んで、蘇ることで救われたのなら、人は罪を認めてないし、悔い改めてもいません。

イエス様に罪を着せることで罪が無くなり、罪が無いため悔い改める必要が無くなるのです。

人の教えを信じていると盲目のままです。

盲目の状態で自分が盲目だということはわかりません。

イエス様を見ることで盲目だとわかり、自分が罪人だとわかるのです。