聖書を理解する 23号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡聖なる人にはなれない

●考察➡一般の宗教では自分が修行して良い人になる、清い人になる、聖なる人になることを目指したりしますが聖書の大きな特徴はイエス様だけを聖なる方として讃美しなさい、自分が聖なる者になる必要はないのです、自分の十字架を背負って聖なるイエス様に従えば良いということなのです、自我のある人はどうしても自分が良くなることを考えてしまうのです、イエス様のために自分の命を捨てるのですから、自分が良くなる必要はありません、良くなりたいと思うことすら必要はありません、イエス様が良ければそれで良いのです、ここに食べ物があったとして自分は食べない、イエス様に食べていただく、そうすれば自分の命は捨ててイエス様のためになります、自分は死んでイエス様に生きていただくという生き方です、罪人である自分が死んでも人を助けることは出来ませんが、イエス様の場合は死ぬことのない神様でありますので、どんなことをされても生きておられます、人の命を生かすことも殺すことも出来る方なので、イエス様に生きてもらおうとする方は恵みとして生きることが出来るのです、イエス様が犠牲になって身代わりに死んでくれたとなれば、自分がイエス様の犠牲で生きることになりますが罪人の性質を持っているので死ぬことになります、罪人はイエス様のために死んでこそ復活出来るのです、罪人が生きるためにイエス様に死んでもらうならば決して生きることは出来ません、イエス様の教えはイエス様のために命を捨てることです、自分のために生きる人とイエス様のために生きる人のどちらかになるのですから、イエス様の十字架の救いを信じる人は自分のためにイエス様が死んでくれたと信じることになりますから残念ですが死ぬことになります、イエス様のために自分が死ぬことが生きることなのです、自分が生きようとするところに宗教のトリックがあります、イエス様自身が死を受け入れているのですから、自分が死なないために生きるのは宗教のトリックになります、利益を求めたり長生きすることが宗教とならないように、生きるも死ぬも主イエス様のためとなるように改心することです、自分のための人生ではありません、聖書はイエス様のために書かれた書ですから自分が生き延びるために読むならば危険な書となり、パウロの福音を信じて死ぬことになります、食べたら必ず死ぬ知恵の実となるのです、イエス様は自分のために死んでくれたと信じるのはイエス様を愛しているのではなく、自分が生き延びたいという信仰トリックです。