SHOUT PIT -5ページ目

私は貝になりたい。

僕と母親の信頼関係はそう強くない。

それは子どもの頃の空白の時間故に仕方のないことだ。

実際、ずっと一緒に暮らしてる親子だって人によっては希薄な関係だ。

 

問題は僕が心を開こうとしてしまっていることにある。

どう頑張っても埋められない信頼関係ならば放っとけばいいことなのに。

 

未だに彼女の敵意にショックを受けてしまうのだ。バカである。

 

ここに信頼関係があれば「本気ではない」と思えるだろうし、

そもそも関係を持とうとしなければどう思われようと構わない筈なのだ。

 


僕は未だに彼女を母親だと思おうとしてもがいてるバカなのだ。

何があっても切れない絆というものを信じたいと思うバカだし、
それを信じきれない愚か者なのだ。


もはや自分が何を追っているのかもわからない。


僕は彼女の発する言葉を区別することができない。
「愛してる」「邪魔」「好き」「面倒臭い」「良い子」「あっちいけ」
「ウザい」「消えろ」「頭が悪い」
※ネガポジ交互に配置しようと思ったけどポジが圧倒的に少なくて泣いた。

ポジティブな言葉の方が本心で、
ネガティブな言葉は疲れているから出たという言葉を
何故信じられる人がいるのか僕には理解できない。

確かに真偽はどうであれ良い方を信じた方が自分が楽というのはわかる。
しかし聞こえの良い言葉に騙されて痛い目を見るというのもわかるのだ。



ガキの頃に変に気負わなければよかった。
本当に僕は人見知りだったんだろう。
相手は知ってるけど自分はよく知らないという状態が大変不快だった。

だから今の今までできなくて消化不良を起こしているのだと思う。
母親に執着するのは多分それだと思う。

そしてこんなに時間が掛かるということは、
それはもはや出来ないことなんだろう。
彼女との絆なんて、絶対作られないんだ。

最近できてきたと思って嬉しかったのに、
やはりダメなのだと思うと酷く落ち込むものだなぁ。



つまらないことだとはわかっているのに。
心は勝手に傷付くもので。
そんなものは放っとけと無視してきたら、変になってしまった。

心の傷なんて無視して生きれば生きれるんじゃなかったんですか。
何にも楽しくなくなったじゃないですか。
全部が苦しくなったじゃないですか。
僕が悪かったんですか。僕が悪いですよね。僕のことですもんね。


僕の頭が悪いのは本当に申し訳ないと思っているのだけど。
人よりも出遅れて母親というものを受け入れようとしてるのに。

普通の人と比べられる人生は本当に苦痛でしょうがない。


受け入れる必要はないって最近思えたけど、簡単に切り替われない。
バカだと思う。バカだと思う。バカだと思う。



私は貝になりたい。

いちゃもん

人の振り見て我が振り直したい肉です、こんにちは。

わかったところで直せないのが常です。

 

止まらない…止まらないよ…ネサフが止まらないよ…。

というわけでネサフ中にまた躓いたので書き留めたいと思います。

以下リンクが問題の記事でございます。

 

ADHDの息子の「スゴすぎるクセ」にどう向き合うかという大問題

 

いや、問題ってほど問題でもないんですけどね。

単純に「このお母さん口悪いなぁ」って思っただけ。

しかも穏やかさアピールが激しい漫画描いてるから余計に鼻に付いただけ。

 

 

先に弁明しておくと、

このお母さんがこの息子にイライラする気持ちはよくわかるよ。

 

うちの愚弟も似たようなものだし、

実際僕も自分の母親に「人を怒らせる天才」を使いました。

実はこれ、僕の発達障害の知人が親に言われてた言葉を流用したんだけど。

つまり僕自身は大変悪意を持って言いました。

腹立つと喧嘩腰になっちゃうよね。

 

当事者にならないとニュアンスが伝わりにくい

こいつヤベーポイントはあるもんな。わかる。

 

 

だからでしょうね。

今回僕が引っ掛かったのはまさにこの「人を怒らせる天才」という言葉。

曇り無き眼で見れば大して酷い言葉ではないかもしれません。

 

まぁ「最悪の性格」という記述も合わさってガチっぽいのが表現されててな。

それがまたなんというか不穏さを感じてしまうね。

 

多分、善い人そうな取り繕いを感じるから

強い感情が浮き彫りになるんだろうね。

実際、思考だけを取り出して書いてたらそこまで衝撃ないわ。

 

後、このお母さんの偉いところは(それが正しい判断かはさておき)、

息子に対して発言はしてないところだとは思います。

やっぱり酷い言葉としての自覚があって、

使わないようにしてはいるというのは大変好感が持てる。

 

それでも敢えてこの記事や漫画で表現してしまったのは

一般的な思考をする読者に対しての感情移入先だったのかな?とか。

単純に自分のイライラを表現したかったのかもですが。

 

 

 

僕の投影を激しく呼ぶ記事でした。

僕が悪意を持って使ったことのある言葉と覆うような穏やかさ。

もはや自身を投影して瞬間的に最低な人間に見えて不愉快でしたが、

自分との違いを見出せてよかったです。彼女は発言していない。

発想が湧いてるだけ良い性格とはいいませんが。

 

 

 

ただ、(おそらく)「ゴミ」となじってきたクラスメイトに対して

「スペースデブリ」と返すのは果たして言い過ぎなんでしょうか?

そこだけは僕は冷静になった今もまったくわかりません。

 

ゴミよりスペースデブリの方が酷い言葉なの?

それともお母さんが漫画化する際にやわらかい表現に変えたのか?

パープリン的な。

ADHDな息子さんはその特性故にストレスは多いと思います。
勿論、周りに与えるストレスも大きいのも事実。
だから罵り合いになるのも別にいいのではとは思っちゃうけどな。
ストレスをぶつけ合えばいいじゃん。

だから母子感ではちゃんとやってていいなと思いました。
愚痴には愚痴で対抗ですよ。
愚痴も黙って聞くなんていい子だしね。
絶対「それはお前が悪くない?」って口挟みそうじゃん。
母子共にそこは言わないところが偉いと思う。


いちゃもんからの褒め技が決まったところで今日はこれまで。

自由と平等

自由を求めるくせに今日の自由推しに違和感を覚える肉です、こんにちは。

頭のいい方ではないので少しずつ違和感を噛み砕いております。

 

そんなモヤモヤの一端を晴らしてくれたまとめを見つけたので

紹介させて頂きたいと思います。

 

 

なぜクソ思想が流行し、人間を不幸にするのか - Togetter

 

 

反対派に対する表現がドギツいのでとっかかりにくいところもありますが、

「自由」と「平等」は別物であり、「平等」の上に「自由」が成り立つという

考え方はとてもわかりやすくて目から鱗でした。

 

100M走のスタートラインよろしく、

平等というものは中々見えにくいものです。

カーブとゴールが見えていれば一目瞭然ですが、

(見えていても時々文句が起きてるのがこの問題ですが)見えてなければ

不満を感じる人は少なくないと思います。

 

平等自体がそんな状態であるのに自由を急激に押し進めている現状に

僕は少し違和感…というより不安を覚えていたのかもしれません。

 

 

自由の押し進め方のズルいところはマイノリティを盾にしているところです。

 

マイノリティは不平等を受けていた方も多いですし、

人数の少なさから孤独感やそこからくる鬱憤が溜まっていがちです。

そのエネルギーと不遇さ(同情を引ける)を利用されているのです。

 


まとめ主の「過度な自由」への警告は
「平等性を脅かすもの」に対して行われています。


僕自身、自由を考えていた時に一番困ったことは
「あちらを立てればあちらが立たない」という部分です。

極端な話だと「人を殺すのはその人の自由」という問題。

こんな話を出せば簡単に「いや、ダメだろそれは」ってなるんですが。
これは殺される人の権利が守られていないからダメなんですよね。

 

殺人鬼の自由と被害者の自由が完全にぶつかり解消されない現象です。

…これ殺人鬼のパラドックスって名前付けるのどうですかね。(余談)


この例に関しては現在「平等」が重視されていることになります。
殺人鬼の「自由」より人々が「平等」に生活する権利が優先されています。

 

 

「殺されたい人を殺したい人が殺すのもダメなのはなんでだ!」とか
そういう話が出て来ると本当に複雑になってくるんですけど。

 

この話が複雑化するのは個人の話を逸脱するからなのかもしれません。

 

我々は組織で生きていく生物であります。社会性動物です。

そして組織には色々な種類や思想、思惑があります。

少数単位で言えば大抵の自由は許されてもいいと思えます。
それこそ当事者同士で合意の上で殺し合ったって別にいいでしょう。

しかしそれを「公」が認めるわけにはいかないのです。

それはその単体に向けた意地悪でもお願いでもなんでもなく、
他の組織を警戒しての意味合いが強いと感じます。
(勿論、簡単に非倫理的な行為を認めたくないのもありますが。)

要は「合意の上だったら殺人はOK」とか言っちゃった日には、
「合意殺人」がごりっと増えること請け合いです。
裁判が一気に大変になりそうですね。


全員が全員、善人な一個人というわけにはいきません。
というか、人によって「正義」が異なる以上、無理です。
そして大体の人が一個人でありながら組織の人間なのです。

組織が組織をどうにかしようと思うことは普通にあります。
敵対会社が弱まれば自分の社員を食わせていけるのですから。
僕はビジネスはわかりませんのでどういった切磋琢磨があるかわかりかねますが、より良いものを〜だけではないというのは想像が付きます。

そんな弱肉強食の世界で「抜け道(穴)」を増やすのは得策ではありません。

簡単に入れる会社だよ〜どんな人でも自由に入って抜けれるよ〜
なんて会社があったら敵対会社の社員が入って色々引っこ抜いたり
めちゃくちゃにしてさっさと逃げて行くに決まっています。

移民問題なんかもそれぞれ理由が根深く本当に難しい問題だと思いますが、
簡単に受け入れられないのはあまりにその数が多いとその国の過半数以上の
自国民をぶち込んで選挙で最高責任者を自国民にしその国を内部から乗っ取ることが事実上可能になってしまうからです。
アーリア人がシュメールを滅ぼした方法ってどっかの本に書いてあった。

それをしようと企んでる輩がいるという話は僕にはできませんが
(そういったソースは持ち合わせていませんので)、可能であるという状況はパンツ履いてないに近い気持ちです。スースーします。

つまり、残念ながら、
何かいい方法が見つからない限り移民問題は大変難しいのです。

自分たちもいつ海外進出しないとまともに食って行けなくなるかを考えると、
なんとも他人事ではないのですけれど…。難しい問題です。
まとめ主が言うようにその国自体が自国民を守ることに徹底することができたら一番いいのかもしれないとは思いますが…。それはそれで国家間の話が出てきて難しい祭でございますね…。


まぁ、移民問題なんかは政治色が強くなってくるので
僕はここらへんでやめておきますが。

今回はまとめ主の主張の足先ではなく根本的な感覚のところで共感を覚えた
というところを強調しておきたいと思います。

要は彼は「過ぎた自由は他者の平等を脅かす可能性があり、それは
結果として多様性を失うことになる」
と言いたいのかなと解釈しました。
個人的な解釈なので違ったらごめんね。

結局のところ人には数の不平等が存在し、
マイノリティにかまけているとやっていけないというのは事実。
異様に複雑化していきそこらじゅう穴だらけになってしまうからね。

まとめ主の「平等を脅かさない自由は問題ない」というのは
これもまた定義が難しいところで「平等」が不安定である状態だと
賛否両論生まれることになるとは思うんですよね。



多様化を進めるに当たって僕が必要だと思っているのは
「保存」と「進化」なんです。

新しいものを受け入れて取り込んで行くことは大切です。
それを僕は「進化」に定義していて、今までの文化や状態を維持することを
「保存」と定義しています。

今日の自由推しは僕にとって「進化」に近いんです。
要は今までの考え方ややり方を変えなければならないものなので。
少なくとも大変密な議論が必要になってくるものなので。
変化とか改革とかそこら辺のイメージです。

対して全世界、或いは全国がそれをすべて受け入れてしまっては
「保存」ができなくなってしまいます。
建造物や文書なんかを保存してても文化の保存にはなりません。
感覚、感性、言語、そういったものが文化たるものです。
そこに違うものが入ってしまったら、それは違うものになってしまう。
故に違う感覚に抵抗感を覚える人がいるのも不思議ではないのです。

僕にとってはどちらも大切なものです。
どちらもなくなっては多様性を失うと感じます。
どんな多色も、すべて混ざり合ってしまえばただの淀んだ黒になってしまう。
個々の確立が約束された状態こそ、真の多様性なのです。


ただ、それを身近で両立する術を僕は知りません。
「棲み分け」というのが今の応急処置になっております。
自然を残す為に隔離された島のように、確固たる和を作る他ないです。
しかしそれはルールとして確立しているものではありません。
これらは時に対立してしまい要らぬ争いや傷を生んでいます。
新しい世代の入れ替えが起こる時はどうしても通る道なんでしょう。

ここで「保存」と「進化」の名目がしっかりとしていれば、
無用な争いも傷も生まずに世代交代をしていけると思うのですよ。
どちらかが優遇されることによって自分たちの立場が脅かされると思うから
互いに嫌悪し合ってしまうような気がしますし。


この話はまた文化やなんかの話なんで少々毛色が違うかもです。
ホント、今日の自由革新は大風呂敷を広げ過ぎです。
有耶無耶にして賛成派を増やしたい感が凄いです。

誰かがそれを意図しているとかいう陰謀論的な話ではなくて、
いつか誰かが思い立ったら悪さができる穴は怖いって話です。
ほら、僕だって悪友にそういう穴付く提案ができるかもですし。
危険視できる人間がいるってことは、穴を付ける人もいるんですよ。

そしてそういったことを恐れる人が少なくないナイーブな問題を、
こんなに急激に、おおっぴらに、エンターテイメント的に、
押し進めて行くのはなんだか怖いと思われて当然だよ。
もっと優しくしてって話。


今回、まとめの解釈によって僕の不安を言語化できました。
「自由」の歴史は長く、大変難しい話です。

自由のぶつかり合いを多く見てきました。
なるべくならそれで傷付く人を減らしたいと思いました。
しかし、余程酷くその人の生活を脅かされることがないのであれば、
自由というものはぶつかって行くものなのかもしれないとも時々感じます。
それこそ江戸っ子の悪態みたいな感じで。

僕は人を嫌うことを抑圧してしまう性格なので
どうしても吃驚してしまうのですが、健全な社会でもそれはある筈です。
僕の感覚が異常なのは理解しているのでそういう社会というのも
決して不健全ではないのかなと。
過敏になり過ぎるのも危険ではあるかな。

過敏になり過ぎない為には仲間が必要だと思います。
やっぱり人は安定した家があって初めて戦場にいけるものですから。

それぞれの思想にそれぞれの家があれば平和なのになー。
ジオンのコロニーみたいに平等な環境があればやりやすそうです。
それでも邪魔な思想だと思ったら消しに掛かる人はいるのかなー。
難しいなぁ。

難しい。

生きるということ2018

表現することによってしか認識ができない肉です、こんばんは。

というのも忘れちゃうからだね。すぐにね。かなしいね。

 

 

僕は常に生きることについて考えてきた愚か者です。

 

歩く時に歩くことを考えるとゲシュタルト崩壊を起こすように、

生きながら生きることを考えるというのはなかなかの苦行です。

上手な人はいるだろうけど、少なくとも僕には大変な作業です。

 

それでもやってしまうのはもはや性です。

やめろと言われてもやってしまうのです。

楽しいのか苦しいのかさえもわからないけれど、やってしまうのです。

 

 

自殺だの死にたいだの延々と書いてきた一塊の肉が

生きることを考えているなんて滑稽な感じもしますが、

僕にとってそれらも生の一環だと思っております。

死者は死にたいとも思えませんからね。

 

 

という訳で、なんか前にもまとめてたかもしれないんですが、

肉式2018年版生きる論をだらだらとまとめたいと思います。

まとまるとは言ってない。

 

 

「何故生きるのか」

そこにネガティブな疑問を持ったことはない僕ですが、

その問い自体には興味があるといえばあるのです。

 

生まれて食って寝て生んで死んでまた生まれて…。

生物の起源から恐らく途切れることなく続いてきた

この目も眩むような途方も無い営みを考えていると、

この連続に一体何の意味があるのかと疲労感を覚えることもあります。

 

僕はその先の意味(あるかないかの結論さえ)を知れないことに

小坊の時に絶望した記憶があります。

妄想や想像や推論なんて楽しめはするけど結局は虚構ですから。

僕は盛大にがっかりしたものです。

 

余談ですが、今の僕の仮説は「模索する生命」となっています。

これも結局は推論(しかも一個人の)なんですけれど。

細胞が作り出している巨大生命体である僕らが何も知らないように、

僕らが何かの生命となっていたとしても、彼らもまた模索しているという。

だからこそ多様性が必要なのであり、あらゆるデータが必要なのです。

種類と数はあればある程いい。

 

結局のところ何故生きるのか模索中なのであれば、

それを知りたい仲間の僕としては存続を望むわけで、

「生存したい」という気持ちに同意し生きたいと願うわけです。

そうなれば「生きたい理由」というのは簡単なわけです。

言ってしまえば繁殖・繁栄です。

 

 

そして、「生きたい」の達成率は死を感じた瞬間に見ることができます。

「死にたくない」という恐怖がそのまま数値です。

 

「死にたくない」は自身として何かを達成していないからだと思っています。

 

未練という奴でしょうか。

健全な生命体で言えば子孫を残していないとかかもしれません。

 

しかし人間は奇妙なもので、ミームなどのものでも残せれば

満足できる生命体のようです。(体験してないから確信はないけど)

 

 

その「死にたくない」の繋がりですが、

自分なりに納得がいく仮説ができたので一つ。

 

死の孤独感と恐怖は現世との一体感を得ていないから起こりえるという仮説。

 

他者との強い共感、自分との同一化が行われていれば、

自分は死んでも他の人は生きてます。

実質、死というものがなくなることになります。

 

そもそも生命はそれを狙ってこの繁殖の形を取っている筈なのです。

タンパク質などの物質には寿命がありますから、

常に再生を繰り返すことで不死を手にいれたわけです。

 

教育の話をするときも持論として出しますが、

親子はいとも容易く強い共感を持つことができます。
故に子孫が安全な環境であれば死への恐怖は大分和らぐ筈です。


他者を自分と一体化させる。それが愛なのかなと思います。
そして個として、何かを残せた時に安らぎを得られる。

僕らはそういうシステムなのかもしれません。



自分を嫌いになったことで、「自分なんかが関わったら人は嫌がるだろう」と
謙虚さを履き違えた思考に囚われ、人との繋がりを持てなくなってました。

自分を控えて人を立てているつもりが、
結果的に自分だけの世界、自分だけを愛するしかない世界に来てしまった。
故に僕は誰も愛すことができない人間になってしまったのです。


きっと僕が死を感じた時に同時に襲われる孤独感は
ここから来ているものなのだろうと思いました。


「自分に同一視されたら嫌だろう」という考えは捨てようと思います。
「重ねちゃって済みません」も考えないようにします。

和には自ら近寄っていきます。
それは顔色を伺ってその場に座っていることを意味しません。
和の気持ちに自分を同調させるのです。
それは人の意見を鵜呑みにして烏合の衆の一部になることを意味しません。

感覚的にはわかる気がするのに、実践するのはとても難しいです。

きっと沢山失敗すると思います。沢山傷付くと思います。
バカにされるだろうし、バカにしてしまうと思います。
ここで愚痴を吐いたりすると思います。

それでも僕はまだ「死にたくない」です。


いつかその恐怖と孤独感が消えるまでの、
生という名の死への僕なりのデザインを、

人知れずやっていきたいです。


こんなことも気付くのが遅くて、嫌になっちゃうね。

俺が好きになりたいんだよ

前回の続きではないんですけど、

自己嫌悪克服の話でもう一つ気になった肉です。こんばんは。

 

「自分を好きな人のことを思い出そう」的なの偶に見ますよね。

自分を好きになってくれている人を思って自分を好きになろう的な。

 

これに関しては僕はマイノリティじゃない感覚を持ってるので、

自信を持って「それで好きになったら苦労しねぇよ?」と言います。

 

 

や、普通に考えて、自分が嫌いなものを好きな人って

センス悪いとまでは口に出して言わないけど、趣味合わねーって言うよね。

そして正直センス悪いって思うよ。

 

 

嫌いってそういうことを言ってるんじゃないの?

5、6回ぶち殺したいくらいの憎悪を「嫌悪」と呼ぶのでは?

違う?ごめんな、日本語が難しくて。

 

 

蜘蛛嫌いな人は蜘蛛好きな人を見て「蜘蛛好き♡」ってならないだろうし、

蛙とか蛇とか刃物とかグロとかその他諸々そうだと思うんですけど。

 

なんでどうしてどうやって他人が好きだからって理由で好きになれる?

 

 

や、努力しようかなって気持ちは湧くけど。

湧いてその程度じゃない?

 

好きな人もいるんだー…じゃあ努力すれば好きになれるかなー…

…くらいのさ。物理的にできることなんだくらいのさ。

そのくらいの閃き程度じゃない?

 

 

人が好きだと言ってて好きなるものって絶対どうでもよかったものでしょ。

嫌いではなかったでしょそれ。

 

 

こちとら「嫌い」だっつってんだよ。

知るかよテメーが好きとか。センス疑います。音楽性の違いで解散です。

 

ってなるのが普通の感覚だと思うんだけど。

 

 

 

真面目に好きになろうって努力してんだから茶化すのやめてほしいよね。

知るかよホント。テメーが好きでもしょうがないんだよ。

 

つーかそもそもそんなに好きって言ってくる人間いねーよ。

それが全てを物語ってるんだよ。数で負けてるんだよ。

特殊性癖にベストマッチしたいんじゃないの。

 

 

 

 

…もしかして自分を好きになるのが難しいのって、

特殊性癖になるのが怖いか或いは成れないからか…………????