ハエの視点
わかるようでわからない。言葉の壁に苛まれている肉です、こんばんは。
情報として知ってたけどいまいち消化できてなかった事柄を
わかりやすく説明してくれてるブログがあったので紹介させて頂きます。
ささいなことにも傷つく「拒絶感受性(RS)」の強い人たち―傷つきやすさを魅力に変えるには?
まず僕はRSが初耳だったんですけどね。面白。
境界性パーソナリティだと思ってた。それもあるだろうけど。
感受性を殺すのは嫌だったけどそれしか方法がわからんから
殺してきてしまった僕がいるけど、自制ねぇ。そうねぇ。わかるけど。
って読んでたわけですが。
「壁に止まったハエの視点」って言われてなんかすっと入ってきた。
あー、客観視ってそうすればいいのか!的な。うっさいバカちゃうわ。
僕は人間で考えちゃうとどうしてもフィルターがかかっちゃうので、
第三者視点では上手くいかなかったんですよ。
しかし虫、虫ね。なるほど虫。
そんな手があったかーーーー。
このブログ書いてるだけ多少は自制心のことを気にしてる肉は褒めて良いよ。
ただ、先のブログに出て来るリサ?みたいなのは中々できんね。僕は。
言葉がまとめられん。
でもとりあえず解決できないまでも、冷静になる方法は掴めた気がする。
虫。ハエ。それ。天才。
少なくとも憤った自分をどっかに飛ばすんじゃなくて、
その気持ちを持ってるのは僕自身なんだから、
視点をどっかに飛ばすのが正解だったわけだ。
憤った僕は観察対象でいいのだ。
そうだよーーーー目から鱗。
感動したので今日は気持ち良く寝ようと思います。
さよなら。さよなら。さよなら。
リッチ・ブラックな世界
つらいとか悲しいとか強くなりたいとか完全に建前で、
結局は心を覗いたり弄くり回したりするのが楽しいんだよなー。
それでつらいことがあってもやっちゃうんだよなー。
それが好きってことだってみんな言ってるじゃないか。
つーわけで僕は心を弄くり回すのが好きなんだ。
「そんなこと考えなくて良い」って言われるとイライラするのは
そういうことだったんだね。
うるせー。だったらテメーは絵ー描くな卓球すんな映画観るなー。
イドの中って渾沌としていてそれを想像するだけで楽しいんですよ。
イドを描いた作品って沢山あると思うんだけど
一番有名どころでいえば『不思議の国のアリス』だよね。
厳密には夢の話だけど無意識の中のものが意識の方に出て来るから
意識で垣間みることができるし運がよければ覚えてられるんだよね。
あの渾沌さがもっとすごくなったのがイドなんだと思う。
上と下、右と左が同じで境目がないんだよ。
光と闇も同じ。
プラスとマイナスがあるからゼロになるんだ。
でも無だけど無じゃない。
反陽子みたいなものだろうか。そんなイメージ。
そこは多分、意識体が覗くもんじゃないんだと思う。
蟲師で出てきた、光脈を見ちゃいけないっていうのは
これと同じような気がする。
でもアビスみたいに、気をつけて上がればもしかしたら帰ってこれるかも。
僕はあれもイドの話で考えることができると思うんだよね。
そこの根源に見たいものがあるかもしれないけど。
見れたとしても戻った時に覚えてられない。
あ〜〜〜なんかいい方法はないものか。
でもこの渾沌とした世界は好きだ。
みんな仲良しでみんな関係ない。誰もいないしみんな居る。
黒じゃなくてリッチ・ブラックなんだよ。
意味がないとかどうでもいいとか知らない知らない。
僕はこの世界が好き。
この世界のことを考えている時は辛いし辛くない。
とっても楽しいんだ。
生きててよかった〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
君の幸せを願ってる
「子どもが生まれたら絶対可愛いと思うから」
「気持ちが変わるから」
そうだね。そう思うよ。同意。
愛情の形が一つであればそれは幸運な話だよね。
僕の理由すら忘れられたただの怨念は
宿り木を腐らせたら次の木を探すんだろう。
幸せなことはただ一つ。
その時あなたはそれを見ることはないことだけ。
怨念の集団を作るのもいいかもしれない。
子どもは弱いから人権なんてないんだから。
怨念の塊になっても文句一つ言えないんだから。
ダメで弱くて残念なんだから。
無様 無様 無様
僕が救われる方法はまったくないんだ
子どもを怨念に育てれば悪人呼ばわり
子どもを守って籠に閉じ込めればダメ人間呼ばわり
僕は生まれた瞬間に失敗人間
僕を癒すものは子どもの死
僕の為に死んでくれと言える強さがほしかった。
きっと愛おしいと思うだろうよ。
五寸釘で打ちたくなるほどに。
狂おしいほどだと思うよ。
屋上から落としたくなるほどに。
どうでもいい人の為にそこまでできないよ。
そう。
まだ見ない君にそこまで頑張れない。
だから。
もう放っといてくれ。
僕のことなんか。
自分さえも救えない人間
全世界が善人にならないと自分を律することができない母親持ちの肉です。
こんばんみー。
そんなこたぁないと思うけど人にそれが伝えられないんだよな。
自意識過剰で防御反応が激しいアルカリ金属だから。
例えば僕が何かをしようとした時、
母親がいいと思えるものでないと100%否定してくるんですけど。
それを指摘すると「パパも否定するよね」って言ってくるんだよね。
……だから?
って感じなんですけどね。
わかりますよ。
「彼奴もやってるのに私だけ責められるのはおかしい!!」
「私だけを責めないで!」「つーか何も責めるな!!」
みたいな感情が無意識の根底にあることくらい。
別に責めてねぇけどな。
責められてるのどっちかっていうとこっちだしね。
しょっぱなから否定されてっからね。
ダメだよねぇ。ニートに新しい言い訳を教えちゃ。
誰かが改善しないと誰のことも指摘できないなら、
ニートなんて永遠に責めることはできなくなりますよ。
この世に悪人が居たら他の悪人は責められないし、
罰することもできなくなりますよ。その理論だとね。
「彼奴もやってる!!」
なんて切符切られてる若造じゃないんだから。
なんか前もこのネタ言ったな。
問題点を指摘してもらえるっていうのは僕にとっては有り難いことですけど、
それを責められていると感じるのであればそれは投影に他ならない。
つまり、母親は自分が指摘している時は責める気持ちがあるということ。
要は自分が悪いと思い込んでるものは責められるべきと思っている。
僕がインド文化に触れようと素手でカレー食ったら責められるわけです。
僕に心がないと思われているのも彼女の感覚に拍車をかけるんだよな。
僕だって否定されたら悲しいから何故そんなことを言うのか聞くよな。
そしてそれが母親個人の凝り固まった常識から発せられる偏見であれば
僕はそれに対して「それは違うよ」と言うしかないんだよ。
でもこっちが傷付いてないと思い込めば
「突然自分のことを責める嫌な奴」だと思えるよねぇ。
どんだけ僕は無機質な人間だと思われてるんだろうな。
母親はアスペの気があるからわざわざ言葉でも「傷付いた」と言ってるのに。
それでも理解しないのは僕が傷付くなんてことを信じられないということ。
僕が人間であることを否定していることに繋がるよね。
まぁ、それは嫌味が過ぎたけど。
要は自分と子どもが一体化してるボーダーみたいな感覚があるってことかな。
「私はそれで傷付かないんだけど」みたいな。
知るかよって話ですよね。
そりゃ、包丁で刺してきた奴は傷付かねぇだろうよ。
今、刺された、僕が、傷付いた。
たったそれだけのことが理解できない可哀想な人みたいなんですよ。
私はこんなことでは傷付かない(絶対嘘だろって思うけど)
あの人はこんなことでは傷付かない
あの有名人はこんなことでは傷付かない
僕個人の心はどうでもいいんですって。
僕は母親やあの人や有名人と同じ感覚を持ってないといけないんですって。
じゃあ僕と同じことで傷付いた人がいたら間違ってるってことですよね。
否定されてショックを受けたら、ダメな人ってことですよね。
酷いこというよね。
僕は強くありたいと思うよ。
人にも強くあってほしいと思うよ。
でもまずは「ショックだったんだね」って言ってやるよ。
僕の家族は泣いてる人間を責め続ける奴らばかりだけど、
だったらそれが正しいかといえばそうは思わないから。
「痛かったね」って言って泣き止めるならそれが最優先事項だから。
なんで、たったそれだけのことができないんだろうね。
可哀想だね。
でも、できない人は他にもいるだろうから直さなくていいんじゃない?
頑張らなくていいんじゃない?人を傷付け続ければいいんじゃない?
それはきっと君の望みを捨てることになる行為だけど。
今辛いのが回避できればいいならそれでいいよねぇ。
時間と他人が自分のやったことを清算してくれるなんて、
都合のいい考えだよ。
親の仕事がまったく影響ないのであれば、何故教育なんてするんです?
正だろうが負だろうが、エネルギーは変わらない。
都合のいいものばかりが残るなんておめでたいと思わないのだろうか?
思わないんだろうなぁ…一生。
一人称問題
ネサフの主目的は同志探しな肉です、こんばんは。
声を掛けるわけではないけど、いたなと思って安心するんだよね。
そんなことをしてると、探すのが上手い方ではないとはいえ、
同志がなかなか見つからないことがままある。
(まったくいないなんてことは思わないが)
その一つである「一人称」の話。
このブログ内では当たり前のように起こっていることだが、
僕は一人称を統一することに注意を注いでいません。
それどころか「気分が合わない」という理由で変えたりします。
「文章では一人称は統一すべし」と教えられてきましたし、
目上の方とは「私」で統一して話していますが、
友人などにはもう気分でしっちゃかめっちゃかに変えて生きております。
口語で一人称が変わることってそこまで珍しいことではないですし
(関係性やその場の雰囲気なんかで変わるだろうから)、
そんなに同志が見つからないとは思ってなかったんですが、
以外と検索に引っ掛からなかった一人称非統一型。
統一してない奴がそれについて言及してないだけかな。
悩んでる人は多かったけど。
一番すごいなと思ったのは口語でも一人称使ってなかったXジェンダーの人。
不便だったろうに。でも気持ちはわかる気がする。
僕が一人称を統一しないのも多分性別的なことが主だと思う。
どうしても日本の一人称というのは性別が出るものだから。
特に僕は同じ一人称でも場合によっては自分が気持ち悪いと思ってしまう。
「今は『僕』じゃないな」とか思っちゃうんだな。
そこに執着はないからあっさり「俺」とか「私」とかに変えちゃうけど。
よく使うのは「僕」「俺」「私」「自分」。
時々顔を出すのが「うち」「わし」。
ふざけて言うのは除外したけど「ミー」とかは鉄板だよね。
でも今のような非統一型になる前は統一しようという気持ちがあった。
物心ついた時から小学生の間は「僕」で統一していた。
高学年あたりから「俺」をベースにしてた時期もあった。
小学校の作文では全員「わたし」に統一させられるのが少し嫌だったなぁ。
中学に上がり受験を意識し出した自分は内申点を上げようと
公的な自分を演出する為に先生相手には「私」を使っていた。
友人と話している時に「俺」を使うと先生に驚かれたこともあった。
中学を出るまではそんな感じでベースは「俺」、
公的な場では「私」という極一般的な一人称統一型だった。
しかし、高校から僕の一人称は乱れの一途を辿っていったのでした。
これが何故かはわからないんだけどね。
ただ、この時期は鬱(?)発症時期で一度何かが崩壊した時期。
我慢することをやめたのかルールを認識できなくなったのか、
もはやこれがいいことか悪いことかもわからないけれど。
この時期は上述の一人称を今以上に乱立して使っていたのだ。
演劇部に入ってた所為かあまり抵抗がなかったのもあるけど。
その前に受験を経たお陰でベースが「私」になっていたのを明記しておく。
この頃は自分が「僕」や「俺」を使っていたことすら忘れてた節があった。
そこからなんだか歪みが生じたように爆発した感じだった。
僕のイメージの中で、まあ公的なものとして使ってた所為かもだが、
「私」というのは堅く、馴染みにくい、壁を隔てている印象がある。
勿論、信頼感や誠実感なんかもあるから本当にビジネスイメージが強い。
広島出身の人で偶に言う「女々しい」というイメージはまったくない。
というように、特別性別的なものを感じてるわけではなかったし、
一般的に中性で公的なイメージがあると自分でも思ってたのだが…。
何故か体に合わなかった。
実は今も公的な場では使うが馴染めないでいる。
(だからといって公的な場で他の一人称を使いたいという欲求もないが…)
余談だが頭に血が昇ると「俺」がベースに切り替わる。
優しく接しようと思うと自然と「私」が出て来る。
一生懸命説明をしたりしてると「自分」が出て来るし、
それぞれの一人称は場所を選んでいるように見える。
多分、自分なりのイメージとその一人称の居場所があるんだろう。
今更だが僕は解離もしてなければ多重人格でもない。
むしろどんな感覚なのか体感してみたいとさえ思うほど自分だけだ。
脳内会議とかはするけどね。親や知人がひょっこり出てきたりとかね。
あくまで「あの人だったらどう言うか」が瞬時に出てきただけだろう。
まあ文章で統一するのに苦労してる人がいるところを見ると
多分その人たちは普段統一してない人なんだろう…と勝手に思っておく。
ブログなんぞを真面目に書こうと思ってて偉いなぁ。
かくいう僕もやはり教育の賜物で文章ではこれでも統一されてる方である。
口語ではもう一日に3種類以上は使ってる。
でもまあ、悩んでる人見ると「統一する必要なくない?」って
言ってやりたくなっちゃうけどな。統一したいなら仕方が無いが。
言いたい一人称をその場の気分で言えばいいじゃんって思う。
逆に一人称で自分の気持ちを動かせる時あるしね。
「私」っていうとなんか背筋伸びるし。
「僕」は(僕の感覚だけど)オフって感じでリラックスできる。
「俺」って使うとやる気が出るというか、燃える感じがあるし。
「自分」は相手を敬う気持ちが生まれる。
実は一番使いたくてうずうずしてるのは「わし」なんだけどね。
これは単純に憧れてるだけだから自然に出て来ることは少ない。
時々自然に出せるとちょっと嬉しいレア一人称。
方言の人以外は使うとちょっと偉そうな感じが出ちゃう気がする一人称でもあるよね。
やっぱり威圧的な王様とか強い仙人とか偉い博士とかが使ってるイメージが強いから。
身の丈に合ってないから気恥ずかしいのかもしらん…。頑張ろ…。
まあなんだ、気負わず使ったらいいと思うよ僕は。
そこまでボキャブラリーないだろうしね。一人称なんて。
「拙僧」とか「小生」なんて入れてもたかが知れてるでしょ。
大体お決まりのパターンができるって。
最後の最後で余談なんだけど、僕は一人称より二人称が一番困る。
特に年上の友人。
さん付けじゃ流石によそよそしいけれど、呼び捨てはなんか居心地が悪い。
ごにょって「〜氏」と古代のオタクのような呼び方になってしまう。
こんなことだったら初期から「〜っさん」みたいなあだ名を考えておけばよかった…。
別の話で同級の友人が「絶対に名前は呼ばん」と言って
全員の二人称を「君」で統一してる。
これもこれでどういう心理か気にはなってる。平等性か…?
同じようにタイミングを逸しただけかな…。急に名前は違和感あるもんな…。
下手にニュアンスが分かる分、母国語が一番難しいのかもしれませんね。