個人が創造する望みなんて存在する筈がないのに
僕は馬鹿なので、その場の会話ですぐに丸め込まれてしまう。
ずるい人たちは「自由にやりなさい」と寛大なフリをする。
我々は自由にさせたよと。免罪符をちらつかせる。
「お前が選んだ道だ」と。
しかし、よくよく考えればそこには思考誘導があった。
いや、そんなもの、ない方がおかしいのだが。
仕事や生き方というものには色々ある。
縁の下で本当につまらない仕事をしていたって
それは恥でもなんでもない。必要なものだから。
しかし、親というものはどうしても望みがある。
そしてそんなつもりがなくても、その望みに敵わなければガッカリする。
多分悟られないようにしてくれてるとは思うのだが、
やっぱりわかってしまうのだ。
主役であってほしい。
(彼らの概念の)充実をしていてほしい。
自分の中から湧き出るものを出していてほしい。
そんなことをしなくても楽しく生きていけるのに。
できなかったらガッカリされる。
「親の顔色なんて見なくていい」なんていうけれど。
僕はそれで大丈夫なほど家族に安定を感じてはいないんだ。
見限られたら他人になってしまうのだろうと本気で感じる。
よく「仲が良い家族」と言われるけれど、それはいつも一緒にいるからだ。
逆に言えば、「いつも一緒」でないと不安なんだ。
一度たりとも安心したことがない。
一番長く一緒にいた父親は厳しいところよりも
冤罪をそのままにするところが不安を煽る。
僕は覚えてるだけでも3回以上は冤罪で酷い罰を受けたが、
それについて詳しい話を聞いてもらえたことはないし、
受け入れてもらったこともない。
それ自体は今となっては笑い話なのだ。それ自体はどうでもいい。
ただ、僕自身を守るものは一切ないという感覚だけは強かった。
何があっても、僕が僕であるだけで許してくれる存在などはない。
ダメだと思われたら、いとも簡単に捨てられる。
そんなことはないと思っていても、その不安はまったく拭えない。
いじめの話でよく「周りに言わなければ」という話が出る。
僕も直接暴力を振るわれたらしめたものだと思うし、そうすべきだと思う。
ただ一番しんどいのは「漠然とした不安」を外部から与えられた場合、
周りに助けを求めるのはとても大変なのだ。
「漠然とした不安を抱えた本人」が悪者になる可能性があるからだ。
そしてそれは悪いいじめの見本のように悪循環を生んでいく。
本人自身、自分が悪いと思ってしまうからだ。
実際、僕はその漠然とした不安を抱えた時に相談できる人などいなかった。
可能性なんて話じゃない、100%僕が悪くなるからだ。
友達と喧嘩した時に母親は友達を全面的に擁護した。
僕の言い分をせめて「気持ちは分かるけれど」と言う人などいなかった。
親戚の子どもたちとプールに行った時に、みんなが姿を消した。
それを探しに行った僕が勝手に消えたと悪人扱いされた。
同い年の又従兄弟と親戚のお姉さんの車で遊ばせてもらっていた時、
又従兄弟が車の一部を壊してしまった。祖母から僕が罰金を請求された。
僕を守るものなんて何一つなかった。
家庭があって、死なない程度のご飯があって、それだけで十分だろうけど。
それだけで十分だと思わないと生きられなかった。
圧倒的に力で不利なのに、どうして抵抗を求められているのだろう。
言うことを聞く以外に、諦める以外に、
どうして方法があったと言えるのだろう。
家庭に抵抗できない精神を育んでしまったことは僕の失態だと思う。
そこを「こいつはダメだった」と思われるのも仕方のないことかもしれない。
そんな空間に押しつぶされた僕が全面的に悪いのだけれど。
その空間で望まれてないもの、望まれているものを価値観として持ってしまっている。
望まれているものになれるなんて都合のいいことは起こらない。
ただ、邪魔な価値観だけがついてくる。
家庭で人を選ぶってそういうことなんだろうなと思う。
僕は僕が出来て、僕が楽しいと思うものは一切惨めなものとされている。
「好きにしろ」とはいうけど、支離滅裂なことも言われる。
隠しながら表現するのは難しいが、
最前線のAという仕事があった時に、
それのハイエナ的な仕事のBがあるとする。
僕はそのBをやっていて、それが楽しいと思っている。
しかし母親は「Bばかりやっていて全然Aをやらないから
この仕事が向いていないのだろう」と言う。
意味が分からなかった。
何故Bをやり続けることは叶わないのだろうか。
父親も「Bの経験はいいけどそれだけじゃなく〜」といった話し方をする。
何故、最上級にならないといけないのだろう。
実際Bをやること自体には大分寛大にしてくれているとは思う。
でも仕事としては微塵も認めてはくれない。
「なんでもいい」とはなんなのか。
まぁ、僕の失態はすべてそう。
「あなたがしっかりしていてくれないと」という祖母の呪縛に囚われていた。
周りも口々に言った。長子の僕の責任。
そんなのが一番どうでもよかったのだ。
家のことなんて考えずに。
彼らの望みなんて叶えずに。
どうでもいいどうでもいいどうでもいいと。
僕の今までを消し去りたい。
僕を形成したすべてを消し去りたい。
どうでもいいんだ。どうでもいい。
「自由にやってきたつもり」の人生なんて
「自由にやってきたと思われている」人生なんて
消えてなくなれ。
邪な思惑の責任なんて、もうどうでもいいんだ。
いなくなれ。
藁をも掴む思い
更正を目指し抗うクズが掴めるのは最初から藁のみである。
「現代病」とか「現代っ子」とかで分類するのはあまりにも粗暴だから
僕は「クズ」という言葉で表現をしてしまっているけれど、
近年の若者によく見られる思考傾向の悪い部分。
これを良しとしてる奴は真性のクズだが、
大抵はそこに自己嫌悪を表したり克服を目指したりしているように見える。
問題の悪い思考傾向とは何を指すのか明確にしておくと、
・人前が苦手(対人恐怖)
・対人での主張が苦手(内弁慶の傾向はあり)
・割と働きたくない(単純作業が好きで人間関係を苦手とする傾向あり)
・失敗を恐れる
余談だが、よく「ゆとり」と称され「仕事中にスマホを弄る」とか
言われることがあるがそれは「さとり」なので要注意。
「ゆとり」は必要以上に仕事に厳しい感覚を持っているが故に働くのが
億劫になっている部類の人間なので決してそんな大それたことはできない。
極端に言えば、職場でくしゃみすらできない人間だと思ってよい。
(※一部のゆとり世代のデータなので世代傾向を確定するものではない)
さて、大雑把にではあるがその問題点を挙げると大抵それ以上の世代は
「自意識過剰」という診断をする。
確かにその通りである。
確かにその通りなのである。が。
何故かどうしても違和感を感じてしまう。
理詰めで考えれば考える程、確かに「自意識過剰」なのだ。
「誇大妄想」からくる「虚無感」「無力感」もバッチリだし、
「価値がなかったら生きる意味がない」という潜在的な発想も然りだ。
確かにそう。紛うこと無き「自意識過剰」であるのだが。
僕はどうしてもこの違和感が気持ち悪い。
気持ち悪いどころか何か大変な見落としをしている気がしてならない。
何故かそのままにしてはいけない気がしてどうしようもない。
これは自分がその世代であるから故の抵抗なのだろうか。
僕も粗方それを受け入れて克服に努めているつもりだ。
昔ほど強い恐怖はなくなったし人の目も気にならなくなってきた。
「リラックスする」という方法に行き着いてからは大変順調だ。
だがそこで先程の「自意識過剰」というキツい言葉が阻害してくる。
思っているほど厳しい意味はないのかもしれない。
あったとしても、不甲斐無い若者を奮起させたいだけだ。
それがわかっていれば耳は痛くとも落ち込むことはない。
筈だ。
しかし何故だろう、上世代の人間による激励が理屈でわかっていても
「リラックスを許さない監視の目」に変換されてしまうのだ。
「何をサボっているんだ」
「しっかりできているのか」
「ちゃんとできていなかったら…」
…どうなるというのだろう。
死ぬより酷いことがあるわけでもない。そもそも殺される訳がない。
罰は嫌だが、成功を目指せなくなる程に強ばるほどではない。筈だ。
僕自身、殴られ蹴られ叩かれ裸で外に投げられ公然で立たされ謝罪させられ叱られ怒鳴られ…あらゆる罰を受けてきた。
今更そんなものをどうして怖がる必要がある?
実際大したことはないんだ。殴られたって一瞬で終わるのだから。
何故。何。何が怖いのか。
多分一番有力なのが「嫌われる」ことだろう。
嫌悪はその職場での居心地の悪さに発展するものだからだ。
そして彼らは一度険悪になった空間を変える自信がない。
自信がなくったってやらねばならないのだが。
結論はわからない。
でもこの違和感は、きっと解決を望んでるからこそ出た気がする。
この気持ちを感覚として持ってない人間は
「奮起させる為に叱咤激励」を施す。
つまりは、「解決」させたいからレベルは下げてもキツい言葉を選ぶのだ。
しかし、それで一体どれほどの成果を得られたのだろう。
元々問題ない人間に施したってそれは成功ではない。
不登校の子どもさえ学校に行かせられないのであれば、
それは解決してはいないのだ。
そもそも、「価値がない人間は生きる意味が無い」という感覚は
一体どこから出てきたと考えているのだろうか。
子どもが母親の子宮で創造したとでもいうのだろうか。
言葉だけとって見ればこれは「詰め込み教育」の病だ。
過酷な受験戦争、就職戦争、勝ち組と負け組をきっちり分けられた時代。
そしてそれを払拭する為の「ゆとり教育」であった。
勝ち負けではない、生きる意味を考える教育。
そもそも生きることに意味なんてないのだから考えてもしょうがないが。
少なくとも心を磨り減らすことは少ない筈なのだ。
それが事実かどうかはともかく。
心のストレスとは一体どういう場合で発生するのか。
重圧が重ければ重いほどストレスも強くなるのだろうと思うのだが、
僕の仮説として「体感重圧量」というものを考えている。
単純な話だが常に10kgの重圧を掛けてた人間と
1kgの重圧しか掛けてない人間に同時に10kgの重圧を掛けたら
一体どうなるだろうか?
急に10倍の重圧を掛けられた人間は驚くだろう。
それは10kgの重圧を掛けられてた人間が100kgの重圧を掛けられたことと等しくなる。
しかし、まあ、数字を客観的に見れば「甘えるな」の一言である。
10倍という数字が与える衝撃は完璧に無視されるものなのだ。
だって、10kgで絶え続けられる人間を見てしまっているから。
つまり、いわゆる「ゆとり」がストレスに弱いイメージがあるのは
そこからきているのではないかという仮説が僕の中である。
もしかしたらもう定説なのかもしれないけれど。
しかし定説では「子どもの頃甘やかしてだらだら過ごさせたから
過酷な競争社会で生きていけない」みたいな感覚を受けてしまう。
それは自意識過剰ですかね?
ちょっと馬鹿にしたり妬んだり甘えてんなって思ってません?
そういうジェネレーションギャップなんてどの世代でもあるものだから
それが人間関係の主な歪みとは流石に言えないのでここでまた悩むのですが。
大分話が逸れてしまったかも。
そもそも問題の思考傾向を持つ者たちはそこまで人を悪く見ていない。
すべて自分が悪かったんじゃないのかと身を改める癖がある。
善くも悪くも「イイコ」なのだ。
まあそれを教育した者たちが笑うのは些か非人道的だと思うが。
纏足にして歩けないと笑うのは如何なものか。
しかし仕方が無い。纏足だろうが歩かねば笑われるのだ。
教育ミスだったかどうかは知らないが、誰も責任は取ってくれないのだ。
そう思うと今日の教育というもののなんとどうでもいいことよ。
後から変えてしまわれるのだったら何の為にしていたのか。
げふんげふん。すいません。現代教育嫌いが無差別殺傷まくりです。
特に何を指してるとかそういうのはなく個人の勝手な怨恨なのでスルーで。
どうでもいい考察はどうでもいい主張よりも大分話のベクトルが自由です。
悪しからず。
どの世代にだって摩擦はある。
時代によって価値観は変わり、他の世代には理解されない。
その孤独と独特な一体感は悪いものじゃない。
他の世代は理解できない中でも自分が最善だと思う方法で
若者を励まそう、働かせようと手を尽くすだろう。
その行為自体は大変ありがたいものだ。
彼らの心がわかるだけで大分嬉しいのだ。頼もしいのだ。
応えたいと心から思う。
だから。
的確な解決法を模索しなければならない。
根性論も結局は「心」に訴えかける曖昧なものだ。
どうせ「心」に訴えかけるならあらゆる方法がある筈だ。
「優しく導く」なんて方法も最近は珍しくないが、
実はこれもあまり功を奏してはいない。
だからこそ「根性論勢」がまだまだ元気なのだ。
どちらも極端なのか…それともそもそもそのレベルの話ではないのか?
まだそこにすら到達してないとか?
「走り出す方向が決まっていないので走り方を教えられても…」
そいういうことなのか?まさか労働ライフをデザインしようと…?
あ、ゆとりっぽーーーーーーーーい!!
どうせ走るならいいコースが望ましいものね。
何度も何度も走るなんて嫌だよな。
失敗を恐れる心がどこまで広いことか。
まあ握力調整ができないでお椀落とした赤子が殴られるんだから
そりゃーー失敗したくねーだろうよ。
痛いの嫌だって思って欲しいから失敗したら殴るんでしょ?
失敗したら痛いんでしょ?嫌でしょ?失敗したくないじゃん。
失敗恐れて何がおかしいんだよ。失敗は!痛い!以上!
閑話休題。また個人的怨恨が…俺のブラック・ダイアリーが…!沈まれ…!
いいね。調子を取り戻してきましたよ。
軽く親をdisっていくスタイルがゆとりです。内弁慶全開です。
身内はみんなクソだ!!!!!
これでもちゃんと感謝してるし尊敬してるんですよ。盲目じゃないだけだよ。
disは平気なのが取り柄のバブル世代でしょ。
ゆとり笑ったんだからその鋼の心で受け止めてくれないとおかしいや。
はい。さて。
色んなご家庭があるというのになんでそんなに失敗を恐れるんですかね。
少なくとも弁護士も付けずに殴る蹴るの私刑を喰らわせる家庭って
そー多くはないと思いたいんですけど。
何故世代レベルで失敗を恐れまくるのか。
やっぱり「自意識過剰」だから?
それとも「能力が低い」から?
それに対する努力ができない「面倒臭がり」だから?
何故「自意識過剰」なの?
何故「面倒臭がり」なの?
ゆとり教育が間違っていた?環境が豊かだったから?
もっともらしいけど他の豊かな時代や国は同じことになっているのかな。
なんだか整理されてきた気がしますよ。僕の心が。
多分、これが僕の答えの一つなんだと思います。
この記事を書くということが。
僕の意見を聞いてそれを受け入れてくれとは微塵も思ってないです。
聞かなくていいです。受け入れなくていいです。
後、主張はころころ変わります。すべて思考なので。
もしかしたら不幸な人間が目にしてしまうかもしれない環境下で、
ある程度それを意識した言葉を並べていく。
しかし独り言のようにリラックスして。
その中で自分の意見を洗練していく。
何を疑問に思っているのか。どう考えているのか。何がしたいのか。
それすらもあやふやで、それを許せない堅物なのです。
クズは許されない。失敗は許されない。
そんな恐怖を人は「他人のことは気にするな」と優しく言ってくれます。
その優しさを無下にしてしまう自分をまた苛むのです。
僕が気にしているのは他人の言葉じゃない。僕自身の言葉だからです。
僕自身がそれらをまったく許せないのです。
潔癖なのは僕自身なのです。
潔癖過ぎて自分の存在すら消したがる。潔癖の鏡です。
でもその思考を僕は正しいとは思いません。
至らないところが多かろうが誠意を持って育ててくれた両親と
僕の存在を形成しているすべてに対して、
「生きる」という問題へ僕なりの答えを出す義務があります。
僕自身のこの不可解な感情をまったく無視することはできない。
そんなことをして人の真似をしても僕にとっては何も意味が無い。
僕はゆとりの中でもそれこそ「負の遺産」の方になるんでしょう。
悪いところばかりが顕著に出てきてしまっている。
そんな奴だって生きることを模索している。
決して、諦めているわけじゃない。そこは、僕の言いたいところです。
強く言えなくたって、問いつめられただけで折れてしまったって、
割と人生の半分以上は死にたがってたって。
それはなんというか、「生理現象」なんですよ。僕的には。
そこに意味はなくて、理屈もなくて、そういう化学反応が起こってるんです。
でもそんなの、誰が納得するんだよ。自分だってできねーよ。
上手く説明もできねーから「自意識過剰」の称号まで頂いたよ。
そうだね、マイナスストロークのナルシストだね。
仕方が無い。仕方が無いんだ。
こういうのを孤独っていうし、どうしようもないっていうんだ。
誰に責任があるとかそういう話じゃないんだ。してもしょうがない。
もはや、真面目に聞けるのは自分だけ。
なんとなく共感できる気がするのも自分だけ。
だから自分の中で整理を付けて、なるべく外との摩擦を減らすしかない。
ああもう、それすら正しいのか上手くいくのかわからない。
てんでダメで行き倒れてたらきっとまたガミガミ怒られるんだ。
それが嫌だから失敗したくないんだっていうのに。
でももう仕方が無い。腹を決めるんだ。ガミガミは治まらない。
お前は大丈夫と言いながら秒で社会不適合者扱いも仕方が無い。
もう混乱したまま歩くしかない。右が左で左が上なのだ。
「自意識過剰」だと言われたって、「ナルシスト」だと言われたって、
直せないならただの罵詈雑言の一緒なのだ。ナニは萎れたままだ。
だから僕が掛ける声を探すんだ。
今のところ「しね」しか言ってこないけどもう少し考えてくれ。
それが僕の藁。
考えない葦であったり。
仕方が無い。何が原因だろうが関係ない。
僕が既にクズである以上、生きる方法はクズとしてどう生きるかなのだ。
なるべく、最善を、努めて。
昔から子どもが溺れても周りはなかなか気付かないものだ。
それは古今東西そうだ。
確実に掴めるのは藁だけ。
死ぬほど頼りないけど。それしかない。
なんとかそうして、岸か岩場にでも辿り着けたら、
初めて人に助けを求められるのだろう。
まだその段階なのだ。
能動的に行くべきでない場所もある
「弱い人間はさらに弱い人間を食い物にする」なんて
どっかの記事で書いた気がします。
心理的カースト最下位の肉です、今日もおいしく食べられています。
ここでいう心理的カーストの上下を決めるものは「闘争心」です。
他者を攻撃する欲求だったり、自分を持ち上げたい防御反応だったり。
闘争心って言葉も違うかな、とにかくあまり健全じゃない攻撃欲求です。
そういったものが強い人が上にきます。
これ全部僕の持論なんで僕の区分という意味しかないんですが、
この心理的カーストに入ってしまっている人間は
全員、心理的に弱さを持っていると思っています。
強い人はそもそもこのカーストに入れないんですよ。
強く満たされていて余裕があるので人を喰らう必要がないんです。
弱い人間を喰らっていないと安定を保てない人間だけが
このカーストにぶっこまれるんです。
このカーストに入っている人間はみんな心に余裕がありません。
頂点でもドベでも。油断できない世界だからでしょうか。
カーストの上の人間から虐げられ、
下の人間に追い抜かされないように、或いは純粋なストレス発散の為に、
自分がやられたことと同じことをする。
そしてその連鎖を体感しているものだから報復を恐れマウントを取る。
その立場が常に脅かされるという状態だからこそ、
頂点に立ったとしても心が休まることがないんです。
仕事とかだったらまだやりがいを感じる場面もあるでしょうが、
これをボランティアでやってる人たちは偉いなと思います。
僕も同じ穴の狢なのですが。
僕が昔から求めてる「強さ」というものは
(これは最近わかったことですが)「安定」であるので、
できればこのカーストから脱出したいと思っています。
いじめを受けたとか、虐待を受けたとか、
確かに不幸な話はあると思うんですが、
どっかで負の連鎖を断ち切らないとただただ自分が辛い。
これは余談なのですが、いじめに関わる人間の心理を
的確に表現してるなと思った作品が『聲の形』です。
いじめっ子だった主人公がいじめられっ子になる。
元々いじめっ子だった彼がいじめられても罪悪感を感じる人は少ない。
だからこのいじめに関しては深刻化するのも必然だと感心しました。
じゃあこのいじめっ子が因果応報を受けて私刑的制裁をされるのが
見ていて気持ち良いかといえば全然そんなことはありません。
一発先生に殴られるとかならまだしも、延々と罰を受けるのは度を越してます。
しかしこの漫画のヒロインでもある最初のいじめられっ子は
全面的に主人公を許しているどころか恋にまで落ちます。
流石に恋にまで発展するのは彼女が特殊と思ってしまいますが、
彼女は心理的カーストから逸脱した存在だと思えます。
いじめっ子からは離れ、自分の人生を謳歌する。
憎しみに囚われずにいたからこそ彼女は明るく育ったのでしょう。
そして改心したいじめっ子を受け入れる程にまで心に余裕を持った。
そこまでの人間はヒーローのような存在ですが、
指標としては無理のない感じがします。
閑話休題。
「もう二度と俺を虐めるな」という意味で報復をするということもあります。
それが効果的なこともしばしばあるので一概に否定はできないでいます。
でもまぁ全く関係のない人間を捕まえて鬱憤を晴らすのは場違いです。
それは余裕無しカーストへいらっしゃいようこそです。
特に発言のキツい人間や誰かを扱き下ろしている人間には
何を言っても罪悪感もなければ時に英雄扱いされることもあると思いますが、
自身の為を思うなら関わらないのが吉です。
人の心は胸糞悪い人間を扱き下ろすことを考えたり、
自分を虐めてくるような程度の低い人間に報復することを考えるような
つまらないことに使う必要は無い筈です。
その度に自分のSAN値を削ってそれが快感なのだと自分を偽る。
その人生は本当につらいですよ。
心に余裕がないと個人が持つNGワードでぷっつんすることがあります。
相手がどういう意味で言ったかなどはどうでもよく、
ただただ憤った心を落ち着けたいが為に怒りをぶつけるんです。
議論の末の結論が欲しいのではなく、議論自体がしたい。
そういう人間は理屈が通ってないのですぐに分かります。
僕の愚弟も厨房の頃は話と関係のない部分の誹謗中傷や
壊れたレコード作戦をよく多用していました。
そうなればもうその会話でこちらが折れようが妥協しようが関係ありません。
「結論」などどうでもいいのです。
ただ暴れ出した心をコントロールできずにいるだけなので。
その時の人間の心の中はロデオ状態。理性は牛に引きずり回されています。
人はみな心の闘牛士だと思う。闘心士ってなるんですかね?
心が暴れるのはしょうがない。むしろ暴れなければ心配だ。
でも暴れたままにしてしまっては自分が怪我をするし人も傷付ける。
いつか逃げ切れない人間に賠償を求められるかもしれない。
何よりカーストの中で延々にもがき続けることになる。
傍観されるいじめの世界で生き続けたいなら上を目指せばいい。
ただ、まったく別の理で動いている世界が存在することは知っていてほしい。
願えばそこへ行くこともできる。
すぐには出れない。つらいと思う。
してやった、こましてやった、言ってやった、支配してやった。
そんな時に得られる快感って麻薬のようなものだから。
な〜かなか出られないんだよなぁ〜〜。
無害であれと育てられ、有害さを求められる。
ガキの頃は無害であることを求められる。
口答えすれば怒られるし、悪さをすれば殴られる。
だけど大人になったら途端に有害であることを求められる。
世の中おかしいと暴れたくなるが、
こればかりは察しの悪かった僕が悪い。
要は、僕は試験に落ちたんだ。
ずっと試されてたんだ。生きるに値するか。
大人はガキを叱る時、いうことを聞いてほしくなんかはないんだ。
勿論、聞いてくれりゃ楽だから聞いてほしいと思ってるだろうが、
結局最終的に求められる解は「阻害にめげず突き通す人間」だ。
言うことを聞くいわゆる「イイコ」は
親孝行者だから最初こそ褒められるが、
目的も無く続けてると途端にお荷物になる。
最強の人間はガキの頃にイイコで大人になったらガツガツ生きられる奴だ。
無知な赤ん坊は守らなければ教えなければとか言ってるババア。
ガキに教えてやれ。
大人が聞けということは「保守的な助言」だ。
親が本人が社会が守られる為の助言だ。
それは必要なく破るのはバカだが、厳守したら「成功」は失う。
成功どころか食っていくことさえできなくなるかもしれない。
自分の信念の元に、有害であること。
それが成功の鍵だ。
信念なき反抗も攻撃も実を結ぶことは無い。
高き丘に駆け上がった時に、掲げる旗はなければならない。
後から来た人間に倒されない、屈強な旗がなければならない。
できれば自分の死後も誰かが守ってくれるような魅力があると尚いい。
その旗を持ち、丘まで駆け上がることに攻撃的であれ。
「登るな」と言われても歩みを止めるな。
「やめろ」と言われても突き進め。
僕は追試を受けることにするよ。
たまーに見る
偶に自分の子どもが使う言葉にキレてる親見ると思うんだけどさ、
その言葉って大抵自分が使ったことある言葉って気付いてんのかな?
それとも気付いてて自分より目下のものが使うのが腹立たしいのかな?
育てた子どもの言葉遣いが気になったら、
先ず自分の言葉遣いを見直した方がいいと思うよ。
誰が悪いとかいう話じゃなくて、多分お互いのストレスが減るから。