藁をも掴む思い
更正を目指し抗うクズが掴めるのは最初から藁のみである。
「現代病」とか「現代っ子」とかで分類するのはあまりにも粗暴だから
僕は「クズ」という言葉で表現をしてしまっているけれど、
近年の若者によく見られる思考傾向の悪い部分。
これを良しとしてる奴は真性のクズだが、
大抵はそこに自己嫌悪を表したり克服を目指したりしているように見える。
問題の悪い思考傾向とは何を指すのか明確にしておくと、
・人前が苦手(対人恐怖)
・対人での主張が苦手(内弁慶の傾向はあり)
・割と働きたくない(単純作業が好きで人間関係を苦手とする傾向あり)
・失敗を恐れる
余談だが、よく「ゆとり」と称され「仕事中にスマホを弄る」とか
言われることがあるがそれは「さとり」なので要注意。
「ゆとり」は必要以上に仕事に厳しい感覚を持っているが故に働くのが
億劫になっている部類の人間なので決してそんな大それたことはできない。
極端に言えば、職場でくしゃみすらできない人間だと思ってよい。
(※一部のゆとり世代のデータなので世代傾向を確定するものではない)
さて、大雑把にではあるがその問題点を挙げると大抵それ以上の世代は
「自意識過剰」という診断をする。
確かにその通りである。
確かにその通りなのである。が。
何故かどうしても違和感を感じてしまう。
理詰めで考えれば考える程、確かに「自意識過剰」なのだ。
「誇大妄想」からくる「虚無感」「無力感」もバッチリだし、
「価値がなかったら生きる意味がない」という潜在的な発想も然りだ。
確かにそう。紛うこと無き「自意識過剰」であるのだが。
僕はどうしてもこの違和感が気持ち悪い。
気持ち悪いどころか何か大変な見落としをしている気がしてならない。
何故かそのままにしてはいけない気がしてどうしようもない。
これは自分がその世代であるから故の抵抗なのだろうか。
僕も粗方それを受け入れて克服に努めているつもりだ。
昔ほど強い恐怖はなくなったし人の目も気にならなくなってきた。
「リラックスする」という方法に行き着いてからは大変順調だ。
だがそこで先程の「自意識過剰」というキツい言葉が阻害してくる。
思っているほど厳しい意味はないのかもしれない。
あったとしても、不甲斐無い若者を奮起させたいだけだ。
それがわかっていれば耳は痛くとも落ち込むことはない。
筈だ。
しかし何故だろう、上世代の人間による激励が理屈でわかっていても
「リラックスを許さない監視の目」に変換されてしまうのだ。
「何をサボっているんだ」
「しっかりできているのか」
「ちゃんとできていなかったら…」
…どうなるというのだろう。
死ぬより酷いことがあるわけでもない。そもそも殺される訳がない。
罰は嫌だが、成功を目指せなくなる程に強ばるほどではない。筈だ。
僕自身、殴られ蹴られ叩かれ裸で外に投げられ公然で立たされ謝罪させられ叱られ怒鳴られ…あらゆる罰を受けてきた。
今更そんなものをどうして怖がる必要がある?
実際大したことはないんだ。殴られたって一瞬で終わるのだから。
何故。何。何が怖いのか。
多分一番有力なのが「嫌われる」ことだろう。
嫌悪はその職場での居心地の悪さに発展するものだからだ。
そして彼らは一度険悪になった空間を変える自信がない。
自信がなくったってやらねばならないのだが。
結論はわからない。
でもこの違和感は、きっと解決を望んでるからこそ出た気がする。
この気持ちを感覚として持ってない人間は
「奮起させる為に叱咤激励」を施す。
つまりは、「解決」させたいからレベルは下げてもキツい言葉を選ぶのだ。
しかし、それで一体どれほどの成果を得られたのだろう。
元々問題ない人間に施したってそれは成功ではない。
不登校の子どもさえ学校に行かせられないのであれば、
それは解決してはいないのだ。
そもそも、「価値がない人間は生きる意味が無い」という感覚は
一体どこから出てきたと考えているのだろうか。
子どもが母親の子宮で創造したとでもいうのだろうか。
言葉だけとって見ればこれは「詰め込み教育」の病だ。
過酷な受験戦争、就職戦争、勝ち組と負け組をきっちり分けられた時代。
そしてそれを払拭する為の「ゆとり教育」であった。
勝ち負けではない、生きる意味を考える教育。
そもそも生きることに意味なんてないのだから考えてもしょうがないが。
少なくとも心を磨り減らすことは少ない筈なのだ。
それが事実かどうかはともかく。
心のストレスとは一体どういう場合で発生するのか。
重圧が重ければ重いほどストレスも強くなるのだろうと思うのだが、
僕の仮説として「体感重圧量」というものを考えている。
単純な話だが常に10kgの重圧を掛けてた人間と
1kgの重圧しか掛けてない人間に同時に10kgの重圧を掛けたら
一体どうなるだろうか?
急に10倍の重圧を掛けられた人間は驚くだろう。
それは10kgの重圧を掛けられてた人間が100kgの重圧を掛けられたことと等しくなる。
しかし、まあ、数字を客観的に見れば「甘えるな」の一言である。
10倍という数字が与える衝撃は完璧に無視されるものなのだ。
だって、10kgで絶え続けられる人間を見てしまっているから。
つまり、いわゆる「ゆとり」がストレスに弱いイメージがあるのは
そこからきているのではないかという仮説が僕の中である。
もしかしたらもう定説なのかもしれないけれど。
しかし定説では「子どもの頃甘やかしてだらだら過ごさせたから
過酷な競争社会で生きていけない」みたいな感覚を受けてしまう。
それは自意識過剰ですかね?
ちょっと馬鹿にしたり妬んだり甘えてんなって思ってません?
そういうジェネレーションギャップなんてどの世代でもあるものだから
それが人間関係の主な歪みとは流石に言えないのでここでまた悩むのですが。
大分話が逸れてしまったかも。
そもそも問題の思考傾向を持つ者たちはそこまで人を悪く見ていない。
すべて自分が悪かったんじゃないのかと身を改める癖がある。
善くも悪くも「イイコ」なのだ。
まあそれを教育した者たちが笑うのは些か非人道的だと思うが。
纏足にして歩けないと笑うのは如何なものか。
しかし仕方が無い。纏足だろうが歩かねば笑われるのだ。
教育ミスだったかどうかは知らないが、誰も責任は取ってくれないのだ。
そう思うと今日の教育というもののなんとどうでもいいことよ。
後から変えてしまわれるのだったら何の為にしていたのか。
げふんげふん。すいません。現代教育嫌いが無差別殺傷まくりです。
特に何を指してるとかそういうのはなく個人の勝手な怨恨なのでスルーで。
どうでもいい考察はどうでもいい主張よりも大分話のベクトルが自由です。
悪しからず。
どの世代にだって摩擦はある。
時代によって価値観は変わり、他の世代には理解されない。
その孤独と独特な一体感は悪いものじゃない。
他の世代は理解できない中でも自分が最善だと思う方法で
若者を励まそう、働かせようと手を尽くすだろう。
その行為自体は大変ありがたいものだ。
彼らの心がわかるだけで大分嬉しいのだ。頼もしいのだ。
応えたいと心から思う。
だから。
的確な解決法を模索しなければならない。
根性論も結局は「心」に訴えかける曖昧なものだ。
どうせ「心」に訴えかけるならあらゆる方法がある筈だ。
「優しく導く」なんて方法も最近は珍しくないが、
実はこれもあまり功を奏してはいない。
だからこそ「根性論勢」がまだまだ元気なのだ。
どちらも極端なのか…それともそもそもそのレベルの話ではないのか?
まだそこにすら到達してないとか?
「走り出す方向が決まっていないので走り方を教えられても…」
そいういうことなのか?まさか労働ライフをデザインしようと…?
あ、ゆとりっぽーーーーーーーーい!!
どうせ走るならいいコースが望ましいものね。
何度も何度も走るなんて嫌だよな。
失敗を恐れる心がどこまで広いことか。
まあ握力調整ができないでお椀落とした赤子が殴られるんだから
そりゃーー失敗したくねーだろうよ。
痛いの嫌だって思って欲しいから失敗したら殴るんでしょ?
失敗したら痛いんでしょ?嫌でしょ?失敗したくないじゃん。
失敗恐れて何がおかしいんだよ。失敗は!痛い!以上!
閑話休題。また個人的怨恨が…俺のブラック・ダイアリーが…!沈まれ…!
いいね。調子を取り戻してきましたよ。
軽く親をdisっていくスタイルがゆとりです。内弁慶全開です。
身内はみんなクソだ!!!!!
これでもちゃんと感謝してるし尊敬してるんですよ。盲目じゃないだけだよ。
disは平気なのが取り柄のバブル世代でしょ。
ゆとり笑ったんだからその鋼の心で受け止めてくれないとおかしいや。
はい。さて。
色んなご家庭があるというのになんでそんなに失敗を恐れるんですかね。
少なくとも弁護士も付けずに殴る蹴るの私刑を喰らわせる家庭って
そー多くはないと思いたいんですけど。
何故世代レベルで失敗を恐れまくるのか。
やっぱり「自意識過剰」だから?
それとも「能力が低い」から?
それに対する努力ができない「面倒臭がり」だから?
何故「自意識過剰」なの?
何故「面倒臭がり」なの?
ゆとり教育が間違っていた?環境が豊かだったから?
もっともらしいけど他の豊かな時代や国は同じことになっているのかな。
なんだか整理されてきた気がしますよ。僕の心が。
多分、これが僕の答えの一つなんだと思います。
この記事を書くということが。
僕の意見を聞いてそれを受け入れてくれとは微塵も思ってないです。
聞かなくていいです。受け入れなくていいです。
後、主張はころころ変わります。すべて思考なので。
もしかしたら不幸な人間が目にしてしまうかもしれない環境下で、
ある程度それを意識した言葉を並べていく。
しかし独り言のようにリラックスして。
その中で自分の意見を洗練していく。
何を疑問に思っているのか。どう考えているのか。何がしたいのか。
それすらもあやふやで、それを許せない堅物なのです。
クズは許されない。失敗は許されない。
そんな恐怖を人は「他人のことは気にするな」と優しく言ってくれます。
その優しさを無下にしてしまう自分をまた苛むのです。
僕が気にしているのは他人の言葉じゃない。僕自身の言葉だからです。
僕自身がそれらをまったく許せないのです。
潔癖なのは僕自身なのです。
潔癖過ぎて自分の存在すら消したがる。潔癖の鏡です。
でもその思考を僕は正しいとは思いません。
至らないところが多かろうが誠意を持って育ててくれた両親と
僕の存在を形成しているすべてに対して、
「生きる」という問題へ僕なりの答えを出す義務があります。
僕自身のこの不可解な感情をまったく無視することはできない。
そんなことをして人の真似をしても僕にとっては何も意味が無い。
僕はゆとりの中でもそれこそ「負の遺産」の方になるんでしょう。
悪いところばかりが顕著に出てきてしまっている。
そんな奴だって生きることを模索している。
決して、諦めているわけじゃない。そこは、僕の言いたいところです。
強く言えなくたって、問いつめられただけで折れてしまったって、
割と人生の半分以上は死にたがってたって。
それはなんというか、「生理現象」なんですよ。僕的には。
そこに意味はなくて、理屈もなくて、そういう化学反応が起こってるんです。
でもそんなの、誰が納得するんだよ。自分だってできねーよ。
上手く説明もできねーから「自意識過剰」の称号まで頂いたよ。
そうだね、マイナスストロークのナルシストだね。
仕方が無い。仕方が無いんだ。
こういうのを孤独っていうし、どうしようもないっていうんだ。
誰に責任があるとかそういう話じゃないんだ。してもしょうがない。
もはや、真面目に聞けるのは自分だけ。
なんとなく共感できる気がするのも自分だけ。
だから自分の中で整理を付けて、なるべく外との摩擦を減らすしかない。
ああもう、それすら正しいのか上手くいくのかわからない。
てんでダメで行き倒れてたらきっとまたガミガミ怒られるんだ。
それが嫌だから失敗したくないんだっていうのに。
でももう仕方が無い。腹を決めるんだ。ガミガミは治まらない。
お前は大丈夫と言いながら秒で社会不適合者扱いも仕方が無い。
もう混乱したまま歩くしかない。右が左で左が上なのだ。
「自意識過剰」だと言われたって、「ナルシスト」だと言われたって、
直せないならただの罵詈雑言の一緒なのだ。ナニは萎れたままだ。
だから僕が掛ける声を探すんだ。
今のところ「しね」しか言ってこないけどもう少し考えてくれ。
それが僕の藁。
考えない葦であったり。
仕方が無い。何が原因だろうが関係ない。
僕が既にクズである以上、生きる方法はクズとしてどう生きるかなのだ。
なるべく、最善を、努めて。
昔から子どもが溺れても周りはなかなか気付かないものだ。
それは古今東西そうだ。
確実に掴めるのは藁だけ。
死ぬほど頼りないけど。それしかない。
なんとかそうして、岸か岩場にでも辿り着けたら、
初めて人に助けを求められるのだろう。
まだその段階なのだ。