木古内を出た頃はまだ外の景色が望める時刻だった。




 左手には津軽海峡の海原が見えかくれしている。列車は海岸線よりも幾分内陸の低い位置を走っているようで、間には防波堤や国道が介在するのでいつも海が現れているわけではない。



 最初の駅森越まで、木古内からは5.2kmとやや距離があって海沿いの区間ながら7分程かけて到達する。

 森越は昭和46年まで駅員が配置されていたが以後無人駅となって、訪れたこの年1983年(昭和58年)の冬の時点では簡易委託駅として駅で切符を発売していた。


 木古内から断続的に小さな集落が車窓に現れては消えていったが、森越の駅前にも海岸線に沿って帯状に家並みが立ち並んでいる。



 その最初の無人駅から次の駅、渡島知内まではおよそ3kmで穏やかな海を遠目に見ながらディーゼルカーは徐行をはじめた。





 知内町の代表駅なのだが、実際には2駅先の湯ノ里の方が知内温泉などの観光施設もあり利用客は多そうに思う。ここには委託の駅員が勤務していてこの時間でも出札改札を行っている姿があった。ただ、この2年後に渡島知内は無人駅になっている。



 松前線は、渡島知内から津軽海峡を離れて内陸部へ進んでゆく。内陸とはいってもしばらくは平坦基調の耕作地が展開して沿線には民家も多い。渡島知内を出てから5分程で隣の重内に到着する。



 重内はホームと簡素な駅舎とも待合所ともつかぬ建物があるだけの無人駅だった。



 ここから列車は湯ノ里、千軒、渡島福島と山がちの勾配がきつい区間に入ってゆくのだが、この間に日はつるべ落としに暮れていって以後の車窓の記憶はほとんどない。



 もう一度乗り直したかったが、その思いは叶わず1988年(昭和63年)2月1日に全線が廃止されてしまった。




 あれから40年、小生は知内温泉を訪ねる機会があって、そこからクロスバイクでかつての松前線を辿るように木古内を目指す。


 紅葉の進む松前街道をかつて重内の駅があったあたりまで走ってきた。

 駅跡の近くには重内神社があるので、まずそちらに参詣する。

 ここは急な石段で有名な神社で、北海道開拓の礎ともなった歴史ある社でもある。


↑重内神社


 重内神社から道道698号線はほぼ一直線に津軽海峡へ向かってゆくが、この道の右手にかつての松前線が通っていたようである。今はその痕跡を見ることはできない。


 海岸に出る手前で国道228号線に合流。そこから少し進んだあたりに、今も知内駅前郵便局が存在する。

 かつて渡島知内駅の駅前だったことを示す局名だが、廃止された駅に対して郵便局はリニューアルされて地域を代表するスポットであることを誇示しているようにも思える。


↑知内駅前郵便局


 そのまま国道を快走する。かつての松前線よりも海寄りを通っているので以前見たよりも津軽海峡は近いが、護岸や防風林などが時折視界を遮る。


 やがて森越の駅跡の辺りに到着。ここにも簡易郵便局があって森越の名前を引き継いでいる。駅は国道から細い道を内陸の方向に入った場所にあったようだ。


↑森越簡易郵便局


 やがて森越の駅跡の辺りに到着。ここにも簡易郵便局があって森越の名前を引き継いでいる。駅は国道から細い道を内陸の方向に入った場所にあったようだ。



 さすがに40年も経過してしまうと遺構はほとんど見ることはできなかった。もう少しじっくりと訪ねればよかったのかもしれない。


↑みそぎ浜


 木古内からは現存する道南いさりび鉄道に平行して函館を目指す。昨日とはうって変わって快晴に恵まれた渡島の海岸線は秋の彩りに包まれていた。


 これはステーションメモリー(駅メモ)という特別な世界線と現代が交わる非日常を旅する物語である。



●馬→駅→駅逓


▲松江忌部郵便局周辺図


「玉造温泉は次の駅なの」

「間違えて降りたでしゅか?」


 アンドロイドのなよりやにころが最近老化著しいマスターを心配してくれるのだが、これは間違いではない。チェックインまで時間があるのでこの駅で降りるのである。



 乃木駅は松江と玉造温泉の間にあって特急が通過するような地味な存在だが小さい駅という訳ではない。松江の郊外化で年々利用客は増えており、とりわけ近くに大学や高校が集中しているので通学客が多いようである。



 ここから歩いて松江忌部局に寄ってから玉造温泉に赴く予定になっているのだ。


「忌わしい、の漢字が地名に採用されているなんてふきちゅでしゅ」

 不吉のはずの忌という字は、元々が善くないことを「忌む」ことで吉兆を呼ぶので特別な行為自体を指し「忌」そのものは不吉ではないのだが、まぁ地名に含まれているのは珍しいよね。



 これに詳しくは後述するので、なよりもにころも黙ってついてきなさい。



●馬・マヤノジュピターとアイゼンルドウ



 今回、松江忌部郵便局に預けるのは1991年のエリザベス女王杯の後座に行われた古馬900万クラスのダート1,800m戦の配当額である。



 ローズステークスの着順そのままに1着リンデンリリー、2着ヤマノカサブランカ、3着スカーレットブーケで確定したエリザベス女王杯が熱狂と歓喜に包まれる傍で抽籤馬の星イソノルーブルを追いかけてここから勝負していた小生は静かに外れ馬券をクズ箱に放り投げていた。

 4コーナーでは勝ち筋がすべて消え失せた紛れもない惨敗であったが、それは言い換えれば切り替えやすいということでもあった。



 最終レースで本命にしたのは、長期休養明けを叩いて前進必至と思われたこのクラスでは実績上位のイッキアンヘル。しかし、横山典弘がテン乗りのアイゼンルドウも着順は振るわないが時計的には馬券圏内がありうる成績、ラストフールも時計かかれば確実に好勝負に持ち込める力があって人気薄に面白い馬が多く1点多く買って5点で勝負した。


 結果は縦目でしぶとく的中した目おオッズが万馬券まで上がっていて、ノーホーラだったこの日の負けを帳消しにできた。



 勝利したマヤノジュピターは9戦目のこのレースが昇級緒戦で4番人気とそれほど有力と目されていなかったが、中団から早めに動いてゴール前で先に抜け出していたラストフール、ファイブタフマンとの接戦を制して勝ち切った。

 この後準オープンの芝レース、ゴールデンホイップトロフィーを使うが大敗を喫して放牧。そこでどこかを怪我したのか復帰に約1年を要して再び現級のダート戦に挑むが8着に敗れこれが最後の競走となった。

 11戦3勝の短い現役生活を終えると乗馬の余生を送った。



 一方で内々を回って勝負処で前が開いたところを鋭く伸びたアイゼンルドウは横山典弘のインでの立ち回りの巧さが際立っての2着入線と大健闘だった。

 マヤノジュピターと同じ4歳馬だが、こちらはこれが32戦目とハードに使われた。

 ただし現級を勝ち上がることはできず36戦して3勝2着6回の成績を残して引退した。



 この配当は100.8倍であるから1008円を預ける。



●駅・乃木



 1937年(昭和12年)に沿線の人口増加によって新設された駅なのだが、山陰線のなかでは新参であっても戦前の開設は十分な歴史があるといって差し支えないであろう。

 付近の字名に上乃木、浜乃木があるように地名由来の駅名ではあるものの、著名な陸軍大将乃木希典は長州の出身でその姓のルーツはこのあたりとの説が有力で、駅名との関わりは深いと思われる。


 その由緒ある乃木駅だが、訪れた2年前の2022年春に無人化されていた。


▲乃木駅入場券


●駅逓・松江忌部局


▲松江忌部局


 乃木の駅から忌部川沿いの県道を40分ほど歩くとだいぶ景色が山がちになり、雪もところどころに残る坂道を曲折しながら松江忌部局に辿り着いた。



 忌部というのは奈良の橿原市忌部町の「天太玉命神社」が元々のルーツで、古来の朝廷祭事を執り行うための「職業集団」を指すそうである。

 出雲の忌部は玉を献納する櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)を祖神としていて、まさに玉造温泉の地名の由来とするものであり、これから訪れる玉作湯神社こそ櫛明玉命を祀る大本山である。


▲玉作湯神社


 つまり玉作湯神社に先がけてこの忌部に赴くのは必然とはいわないまでも自然であり、この道行きは順路である。


▲松江忌部局印


「なんとなくわかるなの。穢れがあってはならない職業だから穢れを忌み嫌う、ということで敢えて「忌」の字を使っているなの」


 それで間違いはないと思う。



「元々は避けられるほどの漢字ではなかったでしゅね。にころも当てはまる漢字を募集するでしゅ。」


 にを変換したら「贋(にせ)」という漢字が出たぞ。


「それは縁起が悪いでしゅ(汗)」


 冬の青函連絡船は津軽海峡冬景色の歌の通りであった。強い風は氷点下の威力なので、鴎さえも凍える勢いでよくそのままフリーズドライされないものだと感心しているうちに、船はたちまち波の荒い外海へ抜け出していてこちらの心配をしなくてはならないくらいだ。



 その25便十和田丸に揺られて2度目の渡道を果たした。桟橋から走って5分接続に成功して桔梗駅に赴き入場券を集めた後に五稜郭まで折り返して江差線に揺られて木古内までやってきた。



 当時は併結してきた列車がここ木古内で、江差へ向かう江差線と松前を目指す松前線に分割され2手に別れて出発する光景がみられた。






 もう暗がりが幕を下ろす気配を見せる中、きっと40年前に小生を乗せた気動車は赤いテールランプをの軌跡を残してこの駅をあとにしたのであろう。



 今、瀟洒なデザインに身を包んだいさりび鉄道があの時のホームに佇んでいる。





 しかしもう木古内から先の区間は江差線も松前線も廃止されている。この列車は函館へ向かう通勤通学客や少数の鉄道ファンを待っているのである。



 実をいうと木古内には初めて下車した。

 松前線に完乗した翌年も江差線に乗りに来ているが先を急ぐために改札を出る余裕がなかったし、青函トンネルが開通してからは北斗星やトワイライトエクスプレスで札幌から一気に通り過ぎることが続いていた。


 そしてこれらの夜行列車が廃止されてから北海道新幹線の駅となった木古内も2度足早に通り過ぎてしまっていた。



 今回、ステーションメモリーというソーシャルゲームで「木古内さいかと巡る!道南いさりび鉄道沿線の旅」というデジタルスタンプラリーの企画があってこれに参加することで遅ればせながら交通の要衝であるこの町を巡ってみようと、クロスバイクを輪行で携えてきた。



 北海道新幹線の車輌をベースにして産まれたヒューマノイドの木古内さいかがチェックポイントを案内してくれるので、それぞれチェックインをしてポイントをためるとレアな景品がもらえるものである。


 駅の向いにある「道の駅みそぎの郷きこない」もそのひとつで、ここで塩わかめラーメンをいただきながら、生憎の雨が弱まるのを待つ。


↑塩わかめラーメン


 少し雨が弱まったタイミングで、かつての江差線渡島鶴岡駅のあったあたりに「木古内町郷土資料館いかりん館」「道南トロッコ鉄道」と2つのチェックポイントがあるのでクロスバイクで訪問した。

 いかりん館には民営化後のJR北海道時代の江差線途中駅の駅名標や切符などが陳列されていて、懐かしい昭和のムードに満ちていた。


↑いかりん館


 小生も江差線の入場券は半分以上は集めたが、簡易委託乗車券は始めるのが遅かったので手元にはない。















 知内温泉に宿泊後、翌日みそぎ浜を訪れた。木古内はさびれた漁師町をイメージしていたが、面白いスポットが色々あって紅葉も綺麗だった。


 函館本線上砂川支線に初乗車したその日に歌志内線にもやはり初乗車した記録がある。


 この2線は近いところを走っているので、やろうと思えば一方の路線のどこかの駅から他方の路線のそこから近い駅へ乗り継げそうな気がする。



 前者はペンケウタシナイ川に沿って敷設された路線で、後者はそれより北を流れるパンケウタシナイ川に沿って同様に延伸しているのだが、砂川に近い西側の区間はほぼ平行している。
 しかしこの時は雪に覆われた真冬であったので実行するにはかなりの辛い経験が伴っただろう。

 なので歌志内線は夕刻のかなり日が落ちた時刻に尋ねることになって、景色についてはあまりよく目に焼きつけられなかった。


 砂川駅の歌志内線ホームは上砂川支線のような専用のものはなく、3番線に間借りする形で乗り入れていたと記憶している。駅舎から遠く、かつ上砂川支線からの乗り換えも時間を要した。
 そのくらい砂川駅の構内は広く駅の規模は大きかった。


 砂川を出て最初の駅焼山までは比較的距離があって4km程離れている。もうこのあたり人家も疎らになっていて駅舎も仮設のようなものがホームにくっついているだけの無人駅だが日中の時間帯は乗車券類が発売されているらしい。方式としては国鉄職員が出向して発売しているのか民間に委託しているのか不明だが、当時はこのような無人駅でも切符が売られていた。今では想像もできない世界である。


 焼山の次の文珠までは沿線では最も長い駅間で4.4kmあった。ここは昭和22年の開設と焼山よりも長い歴史があり駅舎も小さいながらそれらしいものが備わっていた。ここも無人駅だが切符の販売が行われていたらしい。
 残念ながら訪れたのが遅い時間なのでその模様は確認できない。


 駅の南2kmに東鶉駅があるのだが、もうこのあたりだいぶ山がちの景色なのでその方面には黒い影が聳えているだけでなにも見えない。

 歌志内線は、北海道の炭礦由来の路線の中ではかなり山に分け入ってゆく部類で線形も函館本線上砂川支線のそれとは異なって主に曲線を描いてゆく。

 その狭隘なパンケウタシナイ川に沿うように炭礦で働く人々の居住区が造られていて、車窓にその灯りが見えかくれする。往時はもっと明るく活気に満ちた景色だったのだろうと想像してしまう。


 この時間は寂寥感に襲われる。冬の景色がまたこれに拍車をかけるのである。一人旅の心細さも相まって物憂げな思い出になる。

 そんな一角に西歌の駅舎があるのだが、これが武骨というか旅客駅というよりも貨物や運転要員の方の詰め所に特化した感じの外観である。
 ただ、それでも昭和54年まで国鉄職員が常駐して切符を売っていて訪問当時も簡易委託駅だった。


↑西歌駅入場券

 西歌から終点の歌志内までは、険しい山々が遠くに控える手前に炭礦従事者の生活する住居が続いていて短い距離の間に神威、歌神、歌志内としっかりした駅舎のある駅が続く。



↑神威駅入場券

 終点の歌志内はひときわ整理した区画に郵便局や商店などが揃っていて、真冬のこの時刻でも厚着の人がちらほらみえる。ただ車通りはほとんどなくて駅も都市の代表駅とは思えないくらい閑散としていた。



↑歌志内駅入場券

 わずか6分でこの駅をあとにして砂川へ折り返す。
 以来、40年間訪れることはなく過ごしているが、歌志内線は廃止後サイクリングロードに転身したそうであるから近いうちにクロスバイクで走る機会を設けたい。

 東鶉駅を出たキハ22の単機のディーゼルカーは最後の1.5kmをうなりを上げて雪だまりを進んでゆく。


 鶉のあたりまではだだっぴろい開けた雪原だけが視界に入っていたが、いつの間にかその雪の層は畝をつくり次第にそれが高く聳えるようになっていた。

 線形のほうも最後のひと区間は小刻みにカーブを描いて山に分け入るような兆しが見て取れる。




 やがて車窓に古い木造の家屋の立ち並ぶ景色が現れはじめると、数回ポイントを渡りながら徐行して吸い寄せられるように広い構内の側線へ辿り着く。年季の入ったホームと青い屋根の木造駅舎が乗客を迎えてくれた。


 南方向へさらに線路が延びていて、広い貨物ヤードには貨車が蠢いている。当時まだ現役だった上砂川炭礦はもう目と鼻の先でこの貨物ヤードはいままさに脈打っているのだ。




 折り返し時間は5分。

 一本遅らせて次の列車を待つと2時間の探索時間ができる。この年代、稼働中の炭礦にまみえる機会は稀少になっていた。しかし、この日はこの後砂川に戻って歌志内線にも乗る予定である。



 悩んだ末、結局町を歩くことも炭礦へ近寄ることも諦めてそのまま折り返すことにした。

 あの時、与えられた5分で違う結論に辿り着いていたならばもっと色々な思い出を紡ぐことができたのかもしれない。



 その次の年に小生は再びこの駅を訪れている。

 しかしこの時の上砂川駅は、倉本聡さん原作の連続ドラマ「昨日悲別で…」のロケ地ということでかなりの数の観光客で賑わっており前年の落ち着いた佇まいとはまったく違う雰囲気だった。



 1984年(昭和59年)春に始まったこのドラマは天宮良、石田えり主演で布施博、布川敏和、五月みどり、大滝秀治など豪華俳優が出演しての話題作で小生も欠かさず見ていた。

 プロのダンサーを目指す主人公と女優を夢見るその幼馴染みが寂れ行く炭礦を飛び出して都会で苦闘する様子を軸として展開するが、故郷で生活する将来を選んだかつての友人や家族、親類らそして悲別の憂うべき未来が抱える悩みとも向き合うことで、雪国のリアルな現状と魅力を浮き彫りにしていた。



 先日再放送で久々に視聴したが、重く暗いトーンの中に都会とのギャップに驚き悩む主人公や駅長が時折コミカルに描かれているのが余計に哀愁を誘う。

 今とは少し違う、当時の東京が理不尽に持っていた力というか有無をいわさず従属を強いる不遜さのようなものがアイロニックに描かれているのが改めて感じられた。



 2回目に訪れた時はこのドラマが放映されていた時期だったので、上砂川の駅名標の裏は「悲別」の駅名であったり、駅舎内にドラマのスタンプやパンフレットが置かれていたりした。

 上砂川の隣は「そらちがわ」駅であったか…

 この時もまた5分で折り返して町は探索していない。



 そして三たび訪れたのは、既に上砂川炭礦の吐息が途絶えた平成になってからであった。

 上砂川駅は駅員が大幅に減っており、不要となったスペースを活用して石炭記念館ができていた。



「悲別は、なにもない町だ」

 大滝秀治さんのセリフが、かつては広大な貨物ヤードだったがらんとした雪原に響くような錯覚がした。