これはステーションメモリー(駅メモ)という特別な世界線と現代が交わる非日常を旅する物語である。


●馬→駅→駅逓


「ドーレミファソラシドー♪」

 みそらの発生練習が始まった。また新しい曲のインスピレーションが湧いてきたのだろう。


「ドーレミファソラシドー♪」

 最初のドの音を伸ばす独特なその音色は、思えば幼少の頃から親しんだこの地に再び越してきた時に揺られた電車が奏でていた。京急の一部の電車特有のインバーター音であるそうな。

 みそらはその電車をモチーフとして生まれたヒューマノイドなのである。


「新しい曲のイメージができてきました。電車を見に行きましょう。」

「そうか。じゃあ、今日は汐入まで出かけてゆこうか。」

 モチーフとなった電車はもう走っていない。しかし、汐入みそらのベースとなった汐入駅は今もそこにある。そして汐入駅は街角ピアノの置かれるヴェルニー公園の最寄り駅だ。


▲汐入駅周辺図


●馬・不良馬場のロイヤルスキーとモンテプリンス(19914回中2日第5レース)



 土砂降りの中山で芝2,000mの未勝利戦は、津留千彰騎手鞍上のフジノゴーカイが逃げる田村正光騎手鞍上のゼウスモリーを交わし、更に外から田中勝春騎手を背にしたタヤスジャッジが2番手に並んだところでゴールを迎えた。このハナ差の写真判定はもしかしたら同着になるのでは、とも思われるほど長引いた大接戦だったがわずかにゼウスモリーが粘り切って2着を確保した。


 田村正光騎手は1969年にデビューし通算で780勝をマーク。JRA初の女性騎手で増沢由貴子騎手と共にデビューした田村真来騎手の父親としても話題となった。ウインングスマイルでスプリンターズステークスを制しているが以降はあまり騎乗機会に恵まれず1999年に惜しまれながら引退した。


 勝ち上がったフジノゴーカイはロイヤルスキーという馬の産駒であるが、この種牡馬は掛り癖の遺伝があることで知られていた。先に競馬を始めていた小生の弟によると重馬場は掛り癖のある馬に向いているのだそうな。負担が大きくスタミナが求められそうな気がするのでむしろ最後バテそうに思うのだが、実際には前につけてそのまま押し切る形になることが多いのだという。このレースもその形だった。


 2着のゼウスモリーはモンテプリンスの産駒である。モンテプリンスは小生がまだ中学生の頃に中央競馬を沸せていた非運の名馬であった。

 当時はまだG1というグレードの括りがない時代で、オープンレースのうちでクラシックレースと呼ばれる歴史の古い競走を制することが名誉とされていたのだが、そのうちで皐月賞、ダービー、菊花賞の4歳クラシックが三冠レースとしてとりわけ注目を集めていた。

 中山の葉牡丹賞を勝ち上がったモンテプリンスだったが、弥生賞、スプリングステークス、皐月賞はいずれも重馬場、不良馬場で4,3,4着と不調に終わる。その後トライアルのNHK杯を快勝し1番人気で臨んだダービーはオペックホースにわずかに頭差及ばず2着に敗れた。

 秋になって中山のセントライト記念を制して挑んだ三冠最後の菊花賞でも1番人気に推されたのだが、またも伏兵のノーガストに敗れて2着。

 年が明けた春の天皇賞でも2着と、あと一歩のところで栄光に手が届かなかった名馬はいつしか無冠のプリンスと呼ばれるようになった。しかしその翌年の春の天皇賞では、それまで苦杯を舐めさせられていたオペックホースやアンバーシャダイらを見事に退けて悲願のクラシック制覇を果たした。

 その子供であるゼウスモリーのこの日の惜敗は「ああ弥生賞、スプリングステークス、皐月賞のいずれかが良馬場で行われたならば違った世界があったのかもなぁ」と思い出されるそんな馬場コンディションでもあった。


 この次のレースで未勝利を脱出したゼウスモリーは、しかしながら500万クラスでは良いところがなくわずか8戦で引退した。


 この配当を横須賀汐入局へ預ける。


●雨中のサバイバル(19914回中2日第6レース)



 中山のこの時期は未勝利馬にとっては修羅場である。勝ち上がることができなければ主開催の競馬場ではもう走れるレースがなくなって秋から暮にかけての福島開催が残されるのみとなるからだ。

 先に挙げた未勝利戦に続いてこのレースもまた雨の不良馬場で行われた。

 ユーミレオナ、キタノフウカの5枠の牝馬2頭が果敢に逃げるも、3番手の好位置で回ったヴィクトリアモアが余裕で差し切って未勝利を脱出。13頭立ての厳しいサバイバルマッチを制した。一方で単勝1.8倍に推された岡部騎手鞍上のヤングジョージはまさかの3着に敗れた。


 ヴィクトリアモアはディカードレムの産駒なのだが、その母のダリアという馬が欧米の競馬を席巻した名牝で、ディカードレムとリヴリアの兄弟は日本でも多くの活躍馬を輩出した。

 前者でいえばダートで高齢まで好走を続けたミスタートウジンや北九州短距離ステークス覇者で阪急杯2着のナリタフジヒメが有名だろう。


 ヴィクトリアモアは未勝利を勝ち上がったものの500万では目立った成績を残せず14戦で引退。キタノフウカは未勝利を勝てないまま格上の500万クラスに挑み続けたが通用せず18戦で引退している。

 悲愴感が一層増す気がする雨中の未勝利戦だった。


 この配当を横須賀不入斗郵便局へ預ける。

 

●駅・汐入


▲かつての汐入駅硬券入場券


 1930(昭和5)に湘南電気鉄道の駅として開業した当初は横須賀軍港という名称だった。戦後、横須賀汐留駅と改称された後に、横須賀市の町域改変に伴って駅のある汐入に再び改称されのが1961(昭和36)のことである。汐留と汐入では逆の意味のような気がするが、誰も異議は唱えなかったようである。

 非常に険しい山がちの地形の連続する間に駅はあり、軍港としては格好の要所も交通においては難所であるのが伺える。

 狭い平地から山を詰めるように市街地が発展した歴史が垣間見えるように、海沿いに古くからの商店街や飲食街が軒を列ね、高い場所は住宅がひしめいている。




▲ドブ板通り


 駅を出て東側へ進むと海沿いを走る国道から一本入った通りに、スカジャンと呼ばれる厚手のジャンパーや昔から米兵の出入りしてきた洋風の飲食店の連なる通りがある。

 これがドブ板通りで、その名の通りドブに渡した鉄板が由来でこれは米軍の資材提供に感謝を示した命名であるらしい。現在は暗渠になっているのだろうか、歩いてみてもその面影はない。


 どの店も面白そうで誘惑を覚えるが、ひとしきり通りを歩いて終わりに近い場所にあるどぶ板食堂Perryさんでクォーターサイズの横須賀バーガーの乗った海軍カレープレートを注文してみる。

 クォーターって確か1/4って意味ですよね?と尋ねたくなるくらいハーフサイズにしても大きなハンバーガーとよく煮込まれた牛肉の味わい豊かな海軍式カレーが運ばれてきたのでカールスバーグの生ビールと共に貪り食う。美味しさとってもアメリカンである。


▲海軍カレーとみそら(ヒューマノイド)


●駅逓・横須賀汐入郵便局


 どぶ板通りとは反対方向の横須賀駅寄りに郵便局がある。パッと見、レンタカーの営業所のようなコンパクトな局舎である。駅の西側をアンダーパスする県道から少し細い道を入った場所にあり、この道を登ってゆくと不入斗へ至る。

 以前はその途中にもうひとつ汐入南郵便局が存在したが、20119月に汐入局に統合された。距離が近すぎたのだろう。

 

 繁華街の一角にあるものの局の裏手は既に山が迫っており、京急本線のトンネルが口を開けている。立地する地勢は険しい。


 この局の歴史は古く、1913(大正2)に横須賀軍港南門局として営業を開始。汐入(横須賀軍港)駅よりも17年も先輩なのである。鉄道開通前から久しく街を見守り続けてきた同局が現在の名称になったのが1940(昭和15)であった。


▲横須賀汐入局とみそら(ヒューマノイド)


●駅逓・横須賀不入斗郵便局


 不入斗は各地に見られる地名でそれぞれ読み方がことなるが、ここの場合はいりやまずと読む。

 意味としては、かつて寺社領で租税を免ぜられた「斗」を入れずからきている説が有力とされている。


 汐入の駅から続く坂をひとしきり登り詰めたあたりに開けた住宅地なのだが、元々不入斗村として古くから人が住んでいたらしい。

 郵便局は県道から左に折れて横須賀中央の駅方向へ500m程進んだところにあった。


▲横須賀不入斗局


 横須賀市不入斗というと、1975(昭和50)に当時の中核派が引き起こした緑荘誤爆事件がまず思い起こされる。アパートの1階で爆発がおこり同室の男女3人と階上に住んでいた母娘の5人が死亡という大惨事はまさにこのあたりで発生した。何の関係もない一般人を巻き添えにした事件は左派活動家のエゴイズムが引き起こしたもので、今思えば昭和の闇を象徴する出来事だった。


▲局印


●港・ヴェルニー公園


 汐入の駅へ戻ってから横須賀の本港を一望するヴェルニー公園まで足を伸ばした。

 数々の戦艦がこの地で創られ太平洋戦争へと旅立っていった。そしてそのほとんどが海へその身を横たえ二度と祖国へ帰ることはなかった。


▲ヴェルニー公園の眺望


 公園の敷地にはそんな英霊達を弔う記念碑が建立されており、訪れる人があとを断たない。

 小生もここを訪れて頭を垂れる。


▲戦艦山城、戦艦長門の記念碑


「ドーレミファソラシドー。」

 気付けば、公園の一角からみそらの澄んだ音色が聴こえてきた。その傍には白い一台のピアノが置かれている。

 ピアノには鍵が掛けられ、無闇に触られないようになっている。

 しかし、みそらの声に呼応するように高いピアノの音が聴こえてくる。それは夢なのかはたまた幻なのか。悲しいようなせつないような、しかしそれでいて美しくまっすぐな強さを帯びている。


▲みそらと街角ピアノ


 昭和から平成、そして令和へ。

 失われたものは多くあるが、我々の営みは未来へと続いてゆく。

 みそらはいつまでも歌い続けた。

※このブログはソーシャルゲーム・ステーションメモリーを絡めて展開します。不明な表現については無視してください。

monologue


蓮台寺ナギサ



 伊豆半島のいちばん南、石廊崎まで旅してキンメダイをいただいてきたんですよ!

 そしてバスと電車に揺られて、今日のお泊まりは蓮台寺の金谷旅館さんです!

 あれ、蓮台寺って私達の生まれた街じゃないですか?

 それではこれって先祖帰りってことですか?

(里帰りや!魚の進化から離れなさい



蓮台寺ミオ



 伊豆の海と山、その自然の中でナギサも私も創造され生まれたらしい


 マスターと共に船に乗りその伊豆の海を旅して、今生誕の地に辿り着いた


 湯のさと、蓮台寺一体ここには何があるのだろうか?そして私はなにをすればいい?


 マスター命令を


(今日はリラックスしてゆっくり休めばいいのだ)



furrow.5 金谷旅館の泉質と成分


▲河内温泉の周辺図


 金谷旅館には千人風呂と男女各露天、および一銭湯と呼ばれる貸切浴場と様々な浴場があるのだが、これらに注がれる源泉は二種類ある。

 二種類は単一の源泉がそのまま注がれているのではなくて、三本の源泉を独自にブレンドした二種類の源泉ということになっている。

 それはおそらく金谷旅館さんの秘伝の配合なのだろう。スパイスの妙といった類いのこだわりかもしれないし、単純に台所いや風呂場事情かもしれない。

 酔客はそんなこと深く考えずに与えられるままに味わえばよいのである。


 それぞれの源泉は概ね同じような数値であるから入り心地はそれほど違わないのだろうが、温度が36.0度、48.3度と違っている。加水されていないので一方が温めでもう片方が熱めということになるのだろう。


 陰イオン(アニオン)の項目では塩化物よりも硫化物、炭酸水素の項目の方が上回っていて、海に近い温泉としてこれは意外に感じた。




▲金谷旅館の成分表


 泉質こそ単純泉だが、多様な浴槽に豊富な湯量が次々に掛け流されるので見た目にも豪勢であるい効能も高いだろう。

 一般に勘違いされやすいのは単純泉は成分が薄いから効能も薄いだろう、と思われている点である。

 成分が濃厚でなくとも掛け流しであれば新しい湯が次々に供給されるので、身体が受ける成分の総量は入浴時間に比例して増してゆく。なので、溜置きや循環のものに比べて効能は期待できる道理になる。これは殊更に主張しておきたい。


furrow.6 金谷旅館の風呂を巡る夜


 まずは千人風呂を訪れる。男湯の内風呂がこれになるのだが、女性専用の内風呂からも通用口があって、それは男湯の更衣室との扉とは反対側の木戸である。

 15mもの湯舟を隔てているので対岸は湯煙のたなびく彼方にあって見えない。

 が、今宵この時にあっては広大なこの浴そうに佇むのは小生ひとりのようである。

 この内湯自体の面積もそうなのだが、天井も高く相当な規模であるのを感じさせる。湯は無色透明で無臭に近いものの熱めの湯から蒸発する気化成分も独り占めしていることを考えると一段と贅沢な心持ちになってくる。

 そしてこの建物自体が昭和初期からの総檜づくりであるので、今まさに歴史に浸りレトロな空気を満喫しているのである。


 続いて一銭湯へ赴く。これは内側から鍵をかけることで貸切にできる湯小屋で、一つの棟に2箇所の浴室が並んでいる。こちらも檜づくりで年季の入った引き戸を開けると、竹樋の湯口にシンプルな仕切のある浴そうがなんともいえぬ風情を漂わせている。

 浸かると、湯口から遠い浴槽はやや温めである。確かめてみると三つに仕切られたうちで湯口に近いほど熱くなっているようである。


 千人風呂も勿論評判通りの素晴らしさだったが、一銭湯は気兼ねなく湯船を独占して長く楽しめるというのが至って贅沢でよい。湯小屋はこぢんまりとしているが、その中にドドドと掛け流される湯の音が響くのがとてもよい。

 貸切札を掲げて中で酒を楽しむ向きもあるのだろう、などと考えてみるとビールしか用意してなかったことが悔やまれる。

 掛け流しと呑み流しのコンチェルトはさぞかし壮観なことであろう。


▲金谷旅館一銭湯の浴棟


▲竹樋の通じる湯口


 ひとしきり各浴場を巡った後にこちらも部屋へ戻って買い置きしておいたビールとつまみで夜更かしを楽しむ。

 干物は無論キンメダイで、昼間に遊覧船に飛び込んできた鯔を見たのでカラスミも買ってしまった。これで日本酒を用意してないというのがいささかの手落ちであるが、ビール相手でもなかなかうまい。

 夜は瞬く間に彷彿と昇華してゆく。千人風呂の湯煙のように無限でないのは残念であった。


▲客間にて夜の宴


furrow.7 百名瀑、浄蓮の滝へ


▲南伊豆レリーフ図


▲浄蓮の滝周辺図


 翌日は日本百名瀑のひとつに数えられている浄蓮の滝へ脚を伸ばした。

 浄蓮の滝は中伊豆の奥へ分け入った場所にあって、下田から修善寺行きのバスに1時間ほど揺られて最寄りの停留所に辿り着く。

 そこから目指す滝まではやや険しい山道を15分ほど歩くことになるのだが、この道中にわさびに埋め尽くされた沢や茶屋、売店、踊子の像などの観光スポットがあるのでなにやら緩い雰囲気である。


▲わさびの沢


 浄蓮の滝は、それは美しい佇まいで神秘と呼ぶにふさわしい魅力があった。

 落差ころ25m程度の規模なのだが、流れ落ちる滝幅とのバランス、岩盤の柱状摂理の模様が独特で絵になっている。

 加えて滝壷から広がる瑠璃色のグラデーションはまるでおとぎの世界の景色でなんとも艶やかなのである。

 これは百名瀑に選ばれるだけのことはある。


 この絶景こそが伊豆の火山活動とその溶岩流が造り上げた、自然の躍動の結晶である。

 伊豆は海ばかりでなくこんな山の中にも多くの見所があるのを知らしめる。


▲浄蓮の滝


 帰りに、先達て見ることのできなかった伊豆七滝の大滝へ足を運んでいわゆるリベンジを果たした。


▲伊豆大滝


 そしてわさびとろろそばをいただいて帰路についた。


▲わさびとろろそば


Epilogue

 河内温泉と浄蓮の滝を旅してうちのヒューマノイド達の感想




※このブログはソーシャルゲーム・ステーションメモリーを絡めて展開します。不明な表現については無視してください。


Prologue



▲南伊豆のレリーフ地図


 「南伊豆のいちばんはしっこですよ!」

 「

 

 最近やってきた蓮台寺ナギサはミオの妹のヒューマノードである。

 いやヒューマノイドに血縁というものはないから、ミオとナギサはとある姉妹をモチーフにしたヒューマノイドなのである。


 「お魚が沖で跳ねています。あれは鯔といって

 おいおい、あまり船から離れると危ないよ

 海洋学に詳しく、魚をみると興味津々のナギサが海に飛び込みそうな勢いで遊覧船から離れてゆくので気が気ではない。しかし、ヒューマノイドは普通の人には見えないので声を出して止めることはできない。


 「ナギサ戻って。マスターが危ないといっている。」

 「はぁい。」

 姉であるミオの呼び掛けに応えてナギサが戻ってきた。

 

 今日は石廊崎に赴き、岬の先の外洋を巡る遊覧船に乗って景観を楽しんでいる。相模灘と駿河灘のぶつかりあう湾外のうねりはなかなかに激しい。


 至る所に岩礁があり、火山地形が至る所で複雑怪奇な景勝地を造り上げている伊豆半島が連続する先の海底でも入り組んだ様相を感じさせる。


 静かにして活発な伊豆の表情、それはなんだかミオとナギサの蓮台寺姉妹にそっくりのような気がする

▲沖から石廊崎を望む景色とナギサ


▲遊覧船を直撃する波飛沫とミオ


furrow.2 火山地形と伊豆半島.1


 伊豆は至る所に活火山や噴火口があって、今尚地底ではマグマが渦巻いて時折地震を発生させている。同時に地表ではその恩恵として無数の温泉がこんこんと沸き出す。石廊崎もまたそんな険しい伊豆の地形を象徴する景観に満ちていて、散策は船に乗っても歩いても楽しい。


▲石廊崎の火山地形とミオ


 なので今度は陸へ戻って、散策路を岬まで足を伸ばす。オーシャンパークを囲うようにして細いが手入れされた山道が岬へ伸びている。仲秋を告げるすすきの穂が行く手へ垂れ下がってさらに道を狭めているように思うが、さほど労力を必要とせず灯台へ辿り着く。


▲石廊崎灯台


 遊歩道は灯台の横をさらに伸びて、進むとそそり立つ岩肌を一周する形で突端へ至る。この岩肌の頂点に縄が架けられていて聖域であるのを意識する。ここが石廊崎熊野神社だろう。


 岬の突端から水平線が緩やかに弧を描く沖を望む。眼下へ目を移すと、紺碧の海から激しい潮流が突き出した崖へぶつかってコバルトの渦を描いている。なんとも壮絶で美しい眺めである。




▲石廊崎突端の景観


 伊豆急下田へ戻り、駅前の徳造丸さんでキンメ定食を頂く。


▲キンメ定食とナギサ


furrow.3 伊豆急行の駅メモコラボ記念切符


 伊豆急行はかつて全駅に駅員が配置されていて、昭和50年代までは硬券の発売もされていた。当然、出札口にはダッチングマシーンと呼ばれる日付を刻印する器具が備えられていて「カシャン」という音が響いたことだろう。

 入場券は赤線入りの昭和初期を思わせる仕様で、乗車券は伊豆急のマークの地紋が入っていた。


 ソーシャルゲームのステーションメモリーが蓮台寺ナギサ誕生を記念して開催した今回のイベントでは、そんな懐かしい時代を彷佛させる硬券の記念乗車券が発売され、ミオとナギサのキャラクター紹介を兼ねた台紙が添えられている。

 伊豆急の地紋は過去にどこかで見た記憶があるのだが、それが鉄道の駅だったのか金券屋などでのものなのか判然としない。


▲駅メモコラボ乗車券


furrow.4 蓮台寺駅と河内温泉


▲河内温泉の周辺図


 蓮台寺は高架駅で、地下道を経た階下に改札口がある。駅を出てホームを見上げると今乗ってきた特急踊り子号が発車してゆくところであった。


▲蓮台寺駅高架ホーム


 駅を出て稲生沢川を渡ると程なく国道414号線に行き当たる。その角を左に曲がるとすぐに本日お世話になる金谷旅館さんが見えてくる。


▲金谷旅館外観


 蓮台寺の駅を最寄りとする温泉はここ河内温泉と蓮台寺温泉のふたつがある。蓮台寺温泉はいくつかの源泉が点在する比較的新しく掘削されたものであるのに対し、河内温泉は古い歴史を持つ一軒宿である。


 美しい海の景観を楽しみながら入れる下田のリゾートホテルなども、近年までは市街地に源泉がなくほとんどが河内温泉や相玉温泉から引湯していた。

 それくらい湯量が豊富なのでダイナミックな千人風呂が可能なのだろう。規模だけでなく源泉掛け流しで24時間入浴可能というから贅沢至極である。


 また、金谷旅館自体が1863(慶応3)開湯以来150年以上の歴史を持ち、昭和4年から営業を続ける木造の本館と温泉棟を有している。


▲木造建築の佇まい


 千人風呂で有名な金谷旅館だが、貸切の湯小屋もシンプルな造りの檜風呂で長年供用されていて味がある。

 開放感と独占欲の双方を満たす贅沢な時間。金谷旅館の魅力もまた無限に沸いて果てしない。


続く

 これはステーションメモリー(駅メモ)という特別な世界線と現代が交わる非日常を旅する物語である。


●馬→駅→駅逓


「ぼうくうごう?

「きくらげよぉ。」

「ほこね、それは読める


 新百合ヶ丘駅と箱根ロマンスカーをモチーフに誕生したヒューマノイドの姉妹。ほこねとうららはいつも一緒に行動する。いや、妹うららの行くところ常に世話焼きの姉がくっついて回るのである。


 今日は姉妹ゆかりの新百合ヶ丘郵便局へ貯金するついでに、局で委託販売している「防空壕きくらげ」を買ったのだが、防空壕というものに知識のない姉があたふたしながら妹にちぐはぐな説明をしている。

 そこで助け舟を出したつもりなのだが


「防空壕は、戦争の時に敵の攻撃から逃れるための人工のほらあなだよ。」

「戦争?怖い

「うららちゃんが怖がってるじゃないの!」


▲新百合ヶ丘駅周辺図


●馬・1991年クイーンステークス


 1980年代後半からから90年代前半にかけては、オグリキャップ、イナリワンら地方から中央に進出して一気にスターホースにのし上がる馬が目立った時期であった。

 牝馬もまた例外ではなくライデンリーダーやロジータ、オグリキャップの妹のオグリホワイトやオグリローマンなどが活躍して中央競馬を震撼させたものである。

 このレースでもダイカツジョンヌとアポロピンクの2頭が地方から参戦していて、共にどっしりとした馬体と堂々たる落ち着いた歩様でなかなかに人気を集めていた。

 ただし1番人気は、良血で話題となり前走900万条件で勝利を収めて上り調子のメジロティファニーである。

 この頃は関西馬が圧倒的優位の力関係で、関東の競馬場に遠征した馬達がどんどん勝ち上がってゆく程特異な構図が出来上がっていたので、関東の競馬ファンは忸怩たる思いがあったようである。


 ここにはそんな桜花賞で大波乱をもたらしたヤマノカサブランカが殴り込みをかけてきたが、休養明け緒戦でいまひとつ状態がよくない。

 なので、ここぞとばかりメジロティファニーに勝ってもらって溜飲を下げようとの思惑があるのかもしれない。みるとヤマノカサブランカは4番人気である。

 私も今回はデキひといきだろうと思っていたしトライアル戦なので激しく消耗するようなレースにはなるまい、と考えたので、先行馬の揃った2枠を中心に決め手の鋭いキリスパート、イナズマクロスらへ流した。


 レースは、後方から内埒のわずかな隙を突き一瞬の切れ味を発揮して先頭に躍り出たイナズマクロスが快勝。横山典弘は今でこそ単騎先行、追い込みでポツンなどと呼ばれているが、この頃は内埒すり抜け芸人だったのである。2着に先行したマーキーソロンが粘り込み、キリスパートが3着に追い込んだ。


 この配当を新百合ヶ丘局へ預ける。


●馬・1991年函館日刊スポーツ杯



 1991年のオークスは購入価格わずか500万円の抽籤馬イソノルーブルが制した年である。この年の抽籤馬は大当たりで、ミナミノアカリがアルゼンチン共和国杯を勝ったほか、世代こそひとつ異なるがユーセイフェアリーが牝馬重賞戦線で大活躍をみせた。

 他にもポールシッター、ジャストフォーユウ、リネンキャッスルといった各馬が良血達に混じって一般レースを勝ち上がるなど全体的にコンスタントに勝ち鞍をあげている。

 このレースに出走しているススメシンエイもまた前走500万クラスで11番人気と軽視されつつも鮮やかに勝ち抜けて駒を進めてきた抽籤馬である。

 鞍上は3歳牝馬ステークスまでイソノルーブルの手綱をとっていた五十嵐忠雄で、下級条件中心に乗せられているイメージが強かったが私は結構上手な騎乗をすると思っていたので好きな騎手であった。思えば抽籤馬にも良く乗っていた。


 だが、ここはさすがに4歳時にオープンクラスで差のない競馬をしていたイタリアンカラーが一枚も二枚も上だろうと思われたので馬券はこの馬とススメシンエイの1点勝負にした。

 ススメシンエイはここでも人気なく、29倍の8番人気である。


 レースは逃げたトーアエンペラーに4コーナーでススメシンエイがならびかけるその更に外を、イタリアンカラーが道中好位の後ろで矯めていた豪脚をうならせて抜け出す。そのまま後続に5馬身の差をつける圧勝だった。直線半ばでトーアエンペラーを競り落としたススメシンエイがそのまま流れ込んで2着を確保。

 イタリアンカラーが1.5倍と圧倒的1番人気だったので連勝式は13.8倍とあまりつけなかったが、まずまず会心の予想だったと思う。このレースも典ちゃんのワンマンショー。


 この配当を麻生郵便局へ預ける。

 

●駅・新百合ヶ丘


 名前の通り百合ヶ丘の西隣にできた新しい駅である。

 小田急小田原線自体の開通は1927(昭和2)。新百合ヶ丘の開業は1974(昭和49)になるので、路線ができてからおよそ半世紀後にできた新駅ということになる。ちなみに本家百合ヶ丘駅の開業は1960(昭和35)であった。

 同時にこの新百合ヶ丘駅開業と同時に、当駅から小田急多摩センターへ伸びる小田急多摩線も同時開通していて、新駅はいきなり交通の要衝となった。この当時は急行と準急が停車していたが、元来が麻生川の刻んだ谷にわずかな平地があるだけの未開発地だったので、乗り換えの便宜上という意味合いが強かったと思われる。

 ところが、1977(昭和52)に川崎市が主導となり計画都市のプロジェクトが着工されるや、駅周辺は瞬く間に開発が進み、ショッピングモールを中心とした大規模な生活空間が形成された。

 当然利用客も急速に増加していき、1975(昭和50)の1日平均の利用者数が14,000人あまりだったのに対し、1985(昭和60)では38,000人、1995(平成7)では84,000人程度と予想を上回る伸びをみせた。

 当初は小田急独自の手で宅地開発を行う予定だったものが、乱開発を怖れた行政が割って入り調和のとれた街づくりを目指した結果、現在では住みやすい街ランキングでトップ10に入るなど有数のモデルタウンに成長したのである。

 駅のほうも2000年に一部特急が停車するようになり、現在では多摩線に乗り入れるロマンスカーのほかすべての等級の電車がこの駅に停車する。歴史ある沿線の諸先輩方を差し置いて、新参者が成り上がってしまったような衝撃である。


●駅逓・新百合ヶ丘郵便局


 駅の南側のショッピングモールビブレの1階にあって、駅からペデストリアンデッキを進むとわかりずらい。

 開業当初は新百合ヶ丘ビブレ内郵便局を名乗っていたが2011年に現在の名称に改められた。

 開局の詳細な年は不明だが元々近くに麻生郵便局があったので、住民の増加が著しくなった昭和末期あたりに解説されたのではないかと推察する。


 みた感じかなり利用客が多く、ATMの台数も3台設置されていた。

 

 駅の中で防空壕きくらげの委託販売がされていたので購入して帰る。

 この防空壕は当駅の2つ先の栗平駅の付近にあって、実際に軍の施設として終戦後永らく存在していたものを買い上げて作地利用しているらしい。


▲新百合ヶ丘郵便局とうらら(ヒューマノイド)


▲防空壕きくらげとほこね(ヒューマノイド)


 新百合ヶ丘は家族層に人気のある街なのでお洒落な洋食屋さんが沢山ある。

 その中でインド料理のBibiさんを訪ねて本格的なカレーをいただく。

 辛さ増しで注文したのだが、激辛というほどでないのはファミリー向けということもあるのだろう。ゆったりとした空間でいただくのでレストランの雰囲気の中でゆっくりと堪能できる。


Bibiのカレーランチ


●駅逓・麻生郵便局


 麻生郵便局は1969(昭和44)に開局した集配を行う郵便局で、開業当初は百合ヶ丘郵便局を名乗っていて、今よりも東の百合ヶ丘駅寄りの万福寺にあった。

 当時はまだ新百合ヶ丘駅はできておらず、急速に発展する百合ヶ丘の概区の中心がそちらの方にあったからではないか、と推察される。

 1982(昭和57)にそれまでの川崎市多摩区が柿生村、岡上村と生田村の一部を併合して麻生区が誕生すると新百合ヶ丘に区役所が設置された。これに伴って翌年百合ヶ丘郵便局は麻生郵便局を名乗った。

 その後、現在の場所へ移転したのは2004(平成16)のことになる。


 地名では古沢と呼ばれるこのあたりは、商業施設などが軒を列ねる一方でその向こうには山がちの景色が窺えて、元々起伏に富んだ麻生川の谷あいの地形だった名残りを感じさせる。


 新百合ヶ丘の街から程近い上に幹線道路沿いに位置してマイカーでも訪れやすい立地になっている。



▲局印


 防空壕きくらげを湯がいて刺身でいただいた。


「やさしい味がする

 くまのぬいぐるみを抱いたうららが呟く。このタイソンという名前の家族を絶対に手放さないので、うららの口には姉のほこねが箸を運ぶのである。

 遠い昔にきっとたくさんの命を守ったであろうその場所で育ったのだ。きっと多くの思いを受け継いでいるに違いない。


 そういえば以前、ぬいぐるみを頼りに戦争をひとりで生き抜いた少女の話を聞いたことがある。家族を亡くした少女が逞しく成長できたのはぬいぐるみを守ろうと必死になったからである、との説が提唱されたが、きっとそれだけではない複雑な感情がたくさんあったのではないかと思う。


「タイソンは強いとても頼もしい

 うららはいつもそう教えてくれるのである。

 でんこというヒューマノイド、その存在もまたひとくちに説明できない存在だ。だが、私にとってかけがえのない超生命体であることはたしかである。

※このブログはソーシャルゲーム・ステーションメモリーを絡めて展開します。不明な表現については無視してください。


Prologue



▲南伊豆のレリーフ地図


 「マスター。命令を

 ミオはいつも明確な指示を求めてくる。ヒューマノイドは配属された人と共に旅をして想い出をデータとして未来へ伝達する他、身近な駅に留まってそこを訪れる他のヒューマノイドと情報を交換する役割もある。

 なのでほかのヒューマノイドと交流する頻度が多いほど沢山の仕事をこなすことができる。

 

 駅ごとに沢山の仕事をこなしたヒューマノイドマスターが貼り出されるので、小生もそれなりにこの地道な活動を続けている。

 この仕事は要は他のマスターとの競い合いになるのでヒューマノイド達とチームを組んで戦略を考える必要がある。ミオは駅に留まってから、他のチームにそれを奪われないためのスキルに秀でているのでディフェンスの要なのである。


 「今日は伊豆へ行こう」

 「伊豆へ。それが命令?」


 高台を走る特急踊り子号の車窓に広がる波を湛えた紺碧の海の向うに伊豆大島の島影を望む。

 ミオは相変わらず無表情で言葉を発しないが、その瞳が水平線と空の溶け込むはるか彼方を懐かしそうに見つめているように思えた。

 蓮台寺ミオ、彼女は伊豆急行の車輌と蓮台寺駅をモチーフに創られたのだという。


▲蓮台寺駅とミオ


furrow.2 伊豆急行


 伊豆急行はそのほぼ全線が海を望む高台を走り、四季ごとに美しい自然景観を車窓に繰り広げるという列車に乗っているだけでも楽しく魅力的な路線である。

 沿線には、活発な火山活動が形づくった様々な自然景観や特殊な地形、数々の温泉という天恵に溢れ、これらが険しくも美しい海の景観と渾然一体になって織り成す旅はここならではの衝撃を与える。

 東京から近く手軽に訪れることができるため、多くの観光客がこの地にやってくるのもうなずけよう。


 しかし、変化に富んだ火山地帯の地形に路線を引くということはそれなりの苦労があったに違いない。またそれを維持しつづけるというのも大変な努力が求められることだろう。


 伊豆急行が開通したのは1961年と比較的新しい。火成岩の不安定な地層や温泉の噴き出すトラブル、落盤事故など、想像を絶する難工事だったらしい。

 同時に、ルートを確保するための用地が限られたスペースしかないため、沿線住民との折り合いや同時期に着工した国道との工事区間の重複など政治的な難題も多かったようである。


 全線の38%がトンネルでその数は29にも及ぶ。今や多くの住民や観光客にとってなくてはならない存在だが保線にも常に多くの資材が必要だろう。


▲伊豆急下田駅


furrow.3 伊豆急と東海バス


 伊豆急行は伊豆急下田が終点であるから、その先の南伊豆や西伊豆のエリアは公共交通機関としてはバスを利用することになる。

 そのネットワークは伊豆急グループの東海バスにより運行されているのだが、電車との接続も概ね良くて主だった観光地はほぼ網羅されている。


 また鉄道とバス共通の南伊豆フリー乗車券のような企画切符も季節に応じて発売されているので、結構便利に旅ができる。


 今回はその南伊豆フリー乗車券を利用して下田近辺の観光を楽しんだ後に、同じくフリーエリアにある西伊豆の雲見温泉を目指した。


▲弓ヶ浜海岸


 雲見温泉に直通するバスはないので、まずは伊豆急下田から蓮台寺を経由して西伊豆の山道を走り松崎町の中心にある終点の松崎バスターミナルで降りる。

 西伊豆ではここが東海バスの中心地となっていて、ここから各方面へのバスが発着している。

 乗り換えの合間に近くの海岸へ足を伸ばしてみた。交通の要衝ではあるが、穏やかな浜辺に人影はまばらで釣り人や犬を連れた姿は地元民と思われ静かで落ちついた景色に癒された。

 松崎にも温泉があって、伊東園グループの高層ホテルが近くに聳え立っていた。


 余談になるが、かつて伊豆箱根鉄道駿豆線の終点修善寺から西伊豆に鉄道を敷設する計画があったそうだが、それが実現していたらこの辺りの景色は相当変わっていただろう。


 松崎から雲見入谷ゆきのバスに乗ると、西伊豆の奇岩を車窓に眺めながら25分ほどで温泉へ到着する。


furrow.4 雲見温泉の泉質


 雲見温泉では富久三苑さんにご厄介になった。到着時刻が18時近かったのですぐに夕食をいただく。

 ここは料理が評判なので少し奮発したのだが、海の幸が沢山食卓に並んでびっくりするほど豪華であった。


▲富久三苑夕食


 東伊豆ではキンメ鯛が有名だが、西伊豆ではやや趣が変わって鮑の踊り焼きやイサキの刺身、カンパチの照焼きなどで種類も豊富である。温泉を堪能する前なのだが我慢できずにビールも頼んでしまった。


 雲見温泉の各旅館に供給される温泉はほぼすべて松崎三浦(さんぽ)地区に湧く複数の源泉と赤井浜に自噴するものの混合泉で富久三苑さんにも供給されている。


 ちなみに赤井浜には露天風呂があったので翌日訪れてみようと思っていたのだが、雨に見舞われたために断念せざるをぬこととなり、この露天風呂は残念なことに翌年閉鎖されてしまった。


 海辺の温泉なのだが、ナトリウムよりもカルシウムの方が上回るカルシウム、ナトリウム-塩化物泉で成分総量が12,000mg/ℓを超えて実に濃厚な湯である。



▲雲見温泉富久三苑の成分表


furrow.5 雲見温泉富久三苑の浴感


 濃厚な源泉が加水、循環なしで惜し気もなく掛け流される浴場は2箇所あり、共に札をつけて内側からロックすることで貸し切りにできる。

 源泉温度が50度と比較的高く、加水されていないためやや熱めの入り心地であった。それでもここのところ高温のあつ湯に続けて入る機会が多かったせいか、表示されている温度の割には長く入ることができたように思う。


▲雲見温泉富久三苑の内風呂


 成分が濃厚なのだが含食塩重曹泉なので重い感じではなく入りやすいこともあるかもしれない。


 こちらには露天風呂はないのだが、これだけ良好な湯が掛け流されているのであるからそれだけで贅沢である。しかも24時間入れるので翌朝まで繰り返し堪能させていただいた。


▲夜の宴


 堪能すると言えば海辺の温泉の夜はこれに限る。

 外は雨が降り始めていたが、湯と酒は我が懐にある。ほかには何もいらない贅沢な夜がふけてゆく。


furrow.6 伊豆七滝を歩く


 南伊豆フリー乗車券は2日間有効なので、翌日は蓮台寺でバスを降りてから河津へとひと駅移動して伊豆七滝を巡る遊歩道を歩いてみた。


 遊歩道は整備されているので、高低差はあるが歩くのは運動靴あれば至極楽であった。

 河津川に支流が合流して流れ落ちる出合滝を皮切りに6つの滝が遊歩道に次々あらわれる。


▲出合滝


 上流へ行くに従って火山性の地形が顕著になってゆく感じで、滝壷近辺や流れる岩盤に特徴的な柱状節理が見られる初景滝や蛇滝はそのあたりも見所になっている。


▲初景滝


 そして曲がりくねった流形が海老の尾を連想させる海老滝と続く


 最後にあらわれるのが釜滝。大滝に次ぐ落差22mの滝の岩盤に見事な柱状節理を備えていて荘厳のひとこと。


▲釜滝

 そしてだるだるだんだん橋を渡って猿田淵に至る。


 いやいや七滝やろ、もうひとつは


 残念ながらもっとも規模の大きな大滝は、管理している天城荘さんが臨時休業でしたので入って見ることができませんでした。



Epilogue

 下部温泉を旅してうちのヒューマノイド達の感想


ミオ



 柱状節理興味深い人もでんこも一緒、自然の創ったものはひとつひとつ違う

(そう、その個性が既に存在価値なんだろうね)



にころ



 西伊豆は景色がいいのに静でしゅねー

(そこが魅力なんだろうけどもっと賑わって欲しい気もするよね)



なより



 雨が降って残念だったなの。もう少し雲見の町を見たかったなの

(郵便局もあるしなかなかの温泉街だったのにねぇ)