悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

 

私たちは無意識に「線」を引いています

 

この「線」を越えれば幸せで、越えられていない今はそうではない、、のように

 

 

勝利できたら「幸せ」、そうでなければ「幸せ」じゃない

 

恋が実れば「幸せ」、そうでなければ「幸せ」じゃない

 

お金がたくさんあれば「幸せ」、そうでなければ「幸せ」じゃない

 

休みの日は「幸せ」、そうでなければ「幸せ」じゃない

 

安心できれば「幸せ」、そうでなければ「幸せ」じゃない

 

成功したら「幸せ」、そうでなければ「幸せ」じゃない

 

あの人に会わなかったら「幸せ」、そうでなければ「幸せ」じゃない

 

あの人に会えたら「幸せ」、そうでなければ「幸せ」じゃない

 

救いの手が差し伸べられたら「幸せ」、そうでなければ「幸せ」じゃない

 

受け入れられれば「幸せ」、そうでなければ「幸せ」じゃない

 

ほめてもらえば「幸せ」、そうでなければ「幸せ」じゃない

 

 

などなど、、

 

 

そう言えば、一昔前にこんな言葉が流行りました

 

 

 

 

「線」を引いたのは誰だろう

 

この線を越えられないと「幸せ」じゃないと決めたのは誰だろう

 

 

さあ、年の初めに気づきましょう

 

「幸せ」のラインを決めてさえいなければ私たちは一体どんな感じがするでしょう

 

「幸せ」を越えなければならない「線」でもって作り上げてしまったから、

 

そうじゃない今は、「幸せじゃない」と見えてきてしまうんだ

 

 

「幸せ」の線を引いたのが自分なら、その線を消せるのだってできるはず

 

「幸せ」の線を消すことができれば、「幸せじゃない今」も同時に消え去ってしまうだろう

 

 

 

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さて、先日紹介したシッタカブッタ、、見かけによらず深い内容でびっくりです、、笑

 

てか、いろいろシリーズがあるようですね、、新年にはまた手が伸びそうです豚

 

 

 

 

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※もはやメッセンジャーは気の向くままですが、

 

新年もどうぞよろしくお願いいたします!

 

 

誰かに何かを言われたって、それが正しいかは分からない

 

どんな出来事が起きようと、それが悪いことかは分からない

 

 

正面から吹く風も、向きを変えれば追い風にだってなるもの

 

あなたにはあなたの風が吹く

 

風はいつでも吹いている

 

あなたが風の源

 

 

 

 

 

というわけで、今日はこんな感じの挿入歌

 


 

 

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そう言えば、先日古本屋に寄って、いつもの漫画コーナー(笑)をうろうろしてましたら、

 

ふと、興味深い本にバッタリ!中を開けば懐かしの悟り本の香りが、、笑

 

 

もはや悟り本なんてもはや買うことはないだろうと思っていた私でしたが、

 

購入して中身をペラペラ!漫画なのでスイスイです!笑

 

 

ってまさかの、「禅の十牛図」をもじった、「十猪図」なるものも書かれてありレベルの高さに度肝を抜かれました、、笑

 

出版年を見ましたら、2003年、原作はそれよりだいぶ前の1993年とのことで、、

 

10年ほど前に賑わった悟りブームよりもだいぶ前に出版されて、

 

これまで見聞きすることもなかったことに驚くほどの秀逸な内容に要所要所で拍手をしたくなるほどの内容でした、、

 

 

 

ぜひ皆さんも年末年始のお休みのお供にどうぞ!

 

 

 

 

 

※今日も読んでくださりありがとうございます!クリスマスツリー

 

 

というわけで、昨日の流れでふと思い出したところで、、

 

以前、フェイスブックかどこかでシェアされたやつ、、拍手

 

 

 

 

地獄の門って、、笑

 

さすがはOSHOらしいですが、時にこれくらい言わないと観念にあまりにもしつこく根付いた習慣的な思考感覚を黙らせられませんよね、、笑

 

 

 

ということで、「未来」的思考が即ち、「地獄の門」を開けるというのであれば、、

 

「天国の門」を開けるカギは今ここへのダイレクトな帰依であるということに他なりません、、

 

 

今ここ以外を切り離し、ただその瞬間に為すべきことにこの身をささげる、、カギ

 

レッツ、没入!いざ、NOW!!!物申す

 

 

 

というわけで、もはや物置に閉まったままのOSHO本でも、秋の夜長に久々に取り出してみようかどうしようか、、バイバイ

 

 

 

 
 
 

 

 

 

 

 

 

※今日も読んでくださりありがとうございます!流れ星

 

 

ゴールにたどり着いたときどんな気分でしょうか、、

 

ずっと目標にしていたゴールを達成し、自分の思い描いたような成果を成し遂げることができたときどんな気持ちになるでしょうか、、

 

 

 

 

 

さて、私たちは実際には、「ゴールに辿り着かずとも」絶えず、本来的に、ずっとその在り様であるというのが、この世界の秘密の一つです、、

 

 

私たちは、ゴールにたどり着くために悪戦苦闘し、目標達成のためにとあまたの鍛錬、自己実現のために必要な様々な計画を一つ一つクリアしようと躍起になります、、もちろん、そうした「頑張り」自体を全く否定する必要はなく、そうしたこともまたこの壮大な宇宙のダンスであって、途切れのない美しい「あるがまま」であるわけなのですが、、

 

 

時に私たちは、「ゴールを成し遂げなければ」自分はまだ不十分であって、決して満足はできないし、ひとかどの人物にもなれなければ、「幸せ」になど到底なれるはずがないなどと、何としても自分にはその「ゴール」が必要であるとした誤った認識に陥ってしまうが故、思い悩み、どこまで続くとも見通せないトンネルを前に途方に暮れてしまう結果を招いてしまいがちです、、

 

 

けれども、実際は、そうしたことがすべて幻想にすぎず、そもそも「ゴール」というものがどこかにあることはなく、逆説的なことに、「ゴール」はすでに成し遂げられているというのがリアリティなのです、、

 

 

こうした話をすると、首をかしげる感覚が至極当たり前ではあるのですが、例えば、何かを成し遂げたとして、わずかその数日後にはまた新しい目標を設定し、次なる「ゴール」へと走り出す様を見れば、いかに頭の中で思い描いた「ゴール」が滑稽なものなのか、一時的で確固たる形などあるわけではないということがわかるはずです、、

 

 

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というわけで、そうした幻想に気づき、リアリティを見出すことができたのであれば、私たちにできる生き方の提案としては、、これまでの「ゴールを目指して生きる」在り様ではなく、「ゴールに居ながらに生きる」在り様への転換です、、お祝い

 

 

「ゴール」を目指し、奔走し、消耗していた在り様から目覚め、今ここの「ゴール」、絶対的でこれ以外存在しない目の前の現実を生きることです、、実際のところ、この体感へのシフトこそ、些細なように見えてそうではない、宇宙と手を携え、「真実」そのものとして生きる姿なのです、、秘密

 

 

 

というわけで昨日、まさかの40歳に辿り着いてしまいましたが(笑)、、これまで一度も今ここでなかったことはなかったなと、、改めて不生不滅に還ったっ今日この頃です、、お願い

 

 

 

 

記事にご興味持たれた方は禅の本を読んでみてください、、というわけで、おすすめ↓バイバイ

 

 

 
 
 

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

※今日も読んでくださり、ありがとうございます!流れ星

 

 

 

 

休日に夜な夜な、またもやスラムダンクの読み返しに至り、

 

すばらしいシーンをご紹介!バスケバスケバスケ

 

 

海南戦、キャプテンの赤城がケガで離脱、、その後桜木が交代でコートへ、、

 

赤城の教えや思いを胸に、王者海南に堂々と立ち向かう一幕、、

 

 

桜木はこう言います、、流れ星

 

 

 

 

それまでライバルの流川よりも活躍することや、

 

相手チーム県内ナンバーワンプレイヤー牧への対抗心など様々な煩悩が飛び交う中、、

 

 

ここぞというときに桜木の集中力が発揮されます、、

 

赤城のケガというチームの一大事に、「今できることをやる」と腹をくくったことで

 

見事なまでにプレイが洗練されてくるのです、、拍手

 

 

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実際のところのこの桜木の有様は、日常を生きる私たちにとってとても大切な教訓を教えてくれるものです、、

 

 

今を生きる私たちにとって、唯一私たちができること、それは、「今できることをする」ことだけです、、

 

けれども私たちは往々にして、目の前にはない、あんなことやこんなこと、

 

過去や未来、空想やら妄想やらで右往左往してしまう混乱状態にいとも簡単に意識を奪われてしまいがちです、、

 

 

これを仏教では無明、求道においては迷妄や無意識状態などとも言われたりしますが、、

 

意識がふわふわと安定しなかったり、目の前のことをないがしろにして、

 

 

今に居ながらに「今に居ない」在り様が優勢になっているときにはぜひともこの桜木の言葉を思い出してみて下さい、、

 

 

私たちには、「今できること」しかできない、、

 

ならば、全力で「今できることをする」「今できることから逃げない」

 

 

この腹のくくり、いわば、集中力が意識の迷妄や無意識状態に一撃を与え、

 

私たちに本来的な「目覚めて生きる」在り様をもたらしてくれることでしょう、、物申す物申す物申す

 

 

 

というわけで、連休明けは、今できることをやるのみです!!レッツ!桜木宣言!!

 

 

※今日も読んでくださりありがとうございます!

 

 

 

胸熱のバスケワールドカップに影響を受けつつ、、お祝い

 

青春ど真ん中のスラムダンクを久々に読み返してみました、、バスケバスケバスケ

 

 

したらば、目に止まったのがこちらのシーン、、拍手

 

 

 

 

 

そうなのです、、「常識」で物を考えていたチームメイトに、素人桜木が言い放ったこの言葉!!

 

 

「常識は通用しない!!!」

 

 

そうなのです、、この言葉をトリガーとして湘北は常識的には絶対不可能と思われる点差を見事に跳ね返し、大逆転劇を演じたのです、、カギ

 

 

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というわけで、私たちは無意識に「常識」というフィルターをかけ世の中や日頃の状況を見てしまいがちです、、

 

「常識的」には正しいと「思われる」側面は確かにあるにせよ、、

 

それが、「絶対的な正しさ」であることはあり得ません、、というのも、それが「フィルター」ごしである以上結局のところ偽物以外の何物でもないという証明です、、

 

 

「フィルター」にまやかされて、「常識的な見方」の中で縮こまり動けなくなってしまっているときには、、

 

素人桜木の言葉を思い出してみてください、、流れ星

 

 

「常識を超えて」

 

ただ、「今をダイレクトに生きる」に徹する、、これが時に「常識を超えた」奇跡を起こす原動力になるのです、、

 

 

なぜならそのとき、「絶対性(今)」があなたの友としてあるのですから、、秘密

 

 

 

 

 

※今日も読んでくださりありがとうございます!バスケ

 

 

実は、何気に最近は、格闘系の動画を結構見てますが、、秘密

 

なんかいいなー美しいなーーと思いつつ日々楽しんでるわけですが、、拍手

 

 

 

試合前はバチバチに睨み合い、罵り合い、罵倒し合ってた者同士が、

 

いざ試合にて力の限りを出し切って、お互いがお互いを認め合い、最後には称え合い、お願い

 

 

「ひとつ」を分かち合っているシーンを見る度に、じーんとしてしまいます、、

 

 

もちろん、世の中においては争いは好まれませんし、平和が望まれるのはもちろんのことですが、、

 

 

自我が生きているこの世界においては、実際のところ大なり小なりの争いは避けては通れません、、

 

自我は「都合」を生きるエネルギーですから、自分の都合に反する出来事や局面においては当然反発し抵抗(争い)を始めます、、

 

 

誤解を恐れずに言えば、、そうした争いから逃れて平和的な立ち回りをすることを優先するよりも、

 

実は、争いから逃れることなく真正面から「争う」ことによっての方がそれまでの鬱積した不純なエネルギーの機能不全が消散し、昇華されるということは実際にはシンプルな力学であると言えるでしょう、、

 

 


 

 

ノーサイドとはよく言ったもので、、サイド(あちら側)とサイド(こちら側)、分離と分離のエネルギッシュな衝突によって、半ば強制的にエネルギーが同調し見事なまでの調和が見出されたりもするものです、、

 

 

争いから逃げず、あるいは、争いを怖がらず、打算的にならず、そうした場面に出くわしたならば、最も平和を愛する皆さんであれば、ぜひとも真正面から争いへと歩みを進め、真剣に本気で争いと出会ってみてください、、この世の妙味としてしばしばその後に素晴らしい景色が現れることもあるかもしれません、、

 

 

 

※というわけで、お久々様でございました、、バイバイ

 

先月コロナに初感染しましたが無事コロナとの争いも終わり猛烈な夏を過ごしております、、かに座かに座かに座

 

ってもうしばらく、この夏との争いは続きそうですが、、大好きな大好きな秋ももうすぐそこまで、、グラサンハートグラサンハートグラサンハート

 

 

 

 

 

今日も読んでくださりありがとうございます!

 

 

心が苦しくなるのは、どこかに行こうとするから、、

 

 

あるいは、どこかへ行かなければならないと強迫的に駆られそのことに気づいていないから、、(無意識=迷妄=無明)

 

 

 

一般的な世界では、私たちは執拗に何か優れた自分になること、より確固とした安心や安全を築くためにと、

 

ひたすらにどこかを目指すよう駆り立てられます、、

 

 

別にこれは自我の自然な防衛性の発露であるわけですから、それはそれで悪いというわけではないのですが、

 

あまりにその傾向にハマってしまうと、無自覚のままに奔走と消耗のレールに乗っかったまま知らず知らずのうちに苦しんでいることにすら気づかない精神的なストレスや疲労を常態的に身にまとうことになってしまいます、、

 

 

 

こうしたときには、真実に立ち戻ることをお勧めします、、

 

即ち、本来、「どこか」などという場所はどこにも存在せず、

 

私たちは実際のところ「どこか」を目指したとてどこにも辿り着くことなどできないのだということです、、

 

 

こうしたことを目にすると、このことに反発したい自我が様々な反応に出ることでしょう、、

 

じゃー何もしなくて良いって言うわけ!?一生懸命目標に向かって努力していることは間違いだって言うの!?といった具合です、、

 

 

 

もちろん先のメッセージは、「何もしないでいるべきだ」などと言っているわけではなく、、

 

真実は、「どこか」など存在しないというズバリそのことだけを伝えています、、

 

 

前回の記事でも書いたように、私たちの世界では、無常が理であって絶えず物事は変化していきます、、これもまた真実です、、

 

そうした世界にあって、私たちの肉体や周囲の状況も目まぐるしく変化し、「何もしないでいる」などということは不可能です、、

 

 

 

こうしている間も、喉が渇き、お腹が空いてくることもあるでしょう、、

 

あるいは、電話がかかってくることもあれば、荷物が届くこともあります、、

 

トイレに行きたくもなるでしょうし、仕事にも行かなければなりません、、

 

 

そうであっても尚、「どこか」などは存在しませんし、「どこか」に辿り着くことも、「何か」になることもできないのです、、

 

 

 

そのことをしかと見て、「どこか」や「何か」へと幻想に駆られてエネルギーを無自覚に垂れ流す様相(有漏路・うろじ)を手放す術は、、

 

「どこか」を目指して事をなすといった「目的地志向」の観念的な習慣を切り捨て、「どこにも行かない今ここ」であらゆる出来事に向き合い、変化を毎瞬毎瞬生きていくということです、、

 

 

即ち、私たちが生きる場所は、「その場」だけになります、、

 

 

したがって、もう「どこか」へ行く必要はなくなるわけですから、

 

それまでの不健全なエネルギーの漏れはなくなり、エネルギーはプールされ活力や生命力が体感的に沸き起こってくることに徐々に気づくはずです、、(無漏路・むろじ)

 

 

 

 

実際のところ、禅が教えようとしているのはこのことであると言っていいでしょう、、

 

無常の世に流され変化に踊らされる在り様から、

 

あらゆる変化と出会い(変化を受け入れ)変化そのものと同化しどこにも行かず真実を生きる在り様へ、、

 

 

レッツ、NOW & ZEN!!物申す

 

 

 

※今日も読んでくださりありがとうございます!チューリップ

 

 

市内の桜も散り、見ごろは隣町へと移っていきました、、

 

桜の散り際においては、わびしさや趣深さ、様々な味わいを感じられるものですが、、

 

 

けれども、真実もまた同時に見ていかなければなりません、、

 

 

花は咲き散る、やがて、新緑や実りをもたらし、それらもまた無常のままにいずれは枯れ落ち、絶え間なく循環する、、

 

 

生命というのは、とどまることはありません、、これがいわゆる無常の姿であり、真実です、、

 

自我は何かにすがり、どこかにとどまることによって安心や安住を求めようとしますが、

 

 

まさに、それこそがトラップで、安心や安住を求めようとする心そのものが、

 

恐れや不安を生み出している根本原因であるということをしかと見るべきなのです、、

 

 

 

では、真の安心や安住、、いわゆる大安心を見出すにはどうすればよいか、、

 

逆説的なことに、それはまさに、安心や安住を求めようとはしないことによって見い出されます、、

 

 

 

安心や安住を求めず、決してそれらにすがろうとはしない意識の中に、

 

絶えず変わり続ける今ここを受け入れ、ダイレクトに目の前を生きようとする意識こそ、大安心そのものなのです、、

 

 

 

 

時に私は、この意識の在り様を、禅意識とも呼んだりしています、、物申す

 

 

 

※花粉症も時期落ち着きそうです、今年も畑の季節がやってきます、、チューリップ

 

 

 

 

 

 

個人的なことですが、秋口から春先にかけ、、

 

私は温かいお茶を毎食頂いています、、お茶

 

 

単純にお茶好きなわけですが、、にっこり

 

お茶というのは実に興味深いもので、それまで何を食べていようとなかろうと、、

 

ひとたびお茶を一口飲み干せば、たちまち味覚がゼロに戻るから不思議です、、昇天

 

 

その様子を注意深く観察してみると、味覚がゼロになることに合わせて、

 

私たちの体感、意識も同様にゼロに目覚めます、、凝視

 

 

即ち、その瞬間、また新しい「今ここへの出会い」を自然と生きられるとも言えるでしょう、、

 

それまで脂っぽいものを食べていたとしても、お茶を一口頂けば、また新しい食べ物と「ゼロから出会える」妙味、、

 

 

毎瞬毎瞬が「出会い」の連続であり、「目覚め」の連続であるのです、、

 

 

 

このことにまさに、意識的であるようにと絶妙な仕掛けを編み出したのが、

 

これまでも幾度となく取り上げてきた、私の好きな禅の逸話に出てくる趙州(じょうしゅう)禅師です、、お茶

 

 

 

 

禅師は、初めて来た来客や修行僧、何度目かの来客や修行僧に対しても、、

 

 

過去のなにがしかを洗い流し、あるいは、意気揚々と修行へ臨もうという新参者に対しては、

 

悟りを求めるあまり、期待でいっぱいの前のめりの様相をいなし、落ち着かせるための工夫というべき、ある種の仕掛けはまさに見事の一言に尽きるものです、、

 

 

過去にしがみつき、あるいは、先へ急いでいるときなど、、あるいは、そのことすらにも無自覚に陥ってしまっているときには、、

 

「お茶を飲む」というシンプルにして、確かな目覚めのキーを頼りにしてみるのも良いかもしれません、、カギ

 

 

迷妄に振り回されているときというのは、往々にしてそのことにすらも気づいていない場合がほとんどで、迷妄が常態性を強めてしまっている様相においては、意識がまるで迷妄に魅了されているときとも言える状態ですから、なかなかその状況から抜け出すことはなかなか容易なことではありません、、

 

 

けれども、そうした場合においてさえも、「お茶を飲む」というキーが一つあるかないかで事態を、あるいは意識を転換させることが十分に可能であるということをぜひ念頭に置いて欲しいと思います、、秘密

 

 

 

 

 

 

今日も読んでくださり、ありがとうございます!お茶