悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

 

 

というわけで、お盆休み終盤、、花火

 

って、私は一足先に明日からGO!ですが、、バイバイ

 

 

 

ここに来て、往々にして自我のエネルギーは、「休み」 の中に留まりたいと抵抗に出てくるものです、、

 

 

ずっとその状態に留まりたいとしたエネルギーから見えてくるのは、「安心」 という仮面を被った、「恐れ」 であって、、「恐れ」 が望む安心を真の安心とは言いません、、

 

 

「恐れ故に安心」 を求めたがるエネルギー、、真の安心は、「安心」 を求めたりはしません、、

 

「安心」 を求めた瞬間、、それは、単に、「恐れ」 による振動に過ぎないのです、、おばけくん

 

 

 

というわけで、「休み」 の中にずっと留まっていたいと抵抗する自我が起きること自体は防衛性故にごく自然な発露であるわけですが、、そのまま、その抵抗に無自覚のまま日々を歩んでいくと、

 

 

どうしても、体感は重々しく感じられ、抵抗故の苦しさが付きまとうことになります、、手

 

 

であるからして、大切なのは、、その瞬間に、抵抗している自我を見て、自我が起きていることをしかと見ぬきつつ、、それを手放し、流れの中に歩み出し、流れ (今) と共に歩んでいくことへと転換することであると言えるでしょう、、虹

 

 

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って、せっかくなので、この流れで悟り系らしくとある疑問にお答えします、、ひらめき電球

 

 

よく、自我はない、というメッセージに触れ、自我やエゴを語るメッセージを必要ないとしてしまう人たちがそれなりにいたりするものですが、、

 

 

この、自我はない、というメッセージが何を指し示しているかと言えば、自我という何らかの実体あるものを探したところでそれは見つけようがなく、そもそも自我と言われる何かしらの実体が存在することはないのです、、

 

 

ですから、そのメッセージ自体については正しいことを語っているわけですが、、

 

 

ここで見落としてはならないのは、実体なき自我が常に起きているということです、、OK

 

 

自我を探しても見つかることはありませんが、先にも述べた通り日々の活動の中で、私たちを守ろうとする防衛性たる自我は絶えず起きています、、

 

このことに無自覚で居てしまうと、自我がどのように私たちの日常を支配し、私たちを条件づけているかを見抜けないまま、結局のところ 「自我である」、「自我のままに生きる」 といった状態に眠ってしまったまま生きることになるのです、、

 

 

ですから、自我はないとするメッセージは前提を理解する上では大切ですが、求道においてより大切なのは、自我が起きていることをしっかりと見抜くということなのです、、富士山

 

 

 

 

 

ですから、禅がするような意識的な活動、自我の働きに気づきそれを手放す実践が何よりの、自我にとっての癒しにもなると言え、、

 

意識的に在りながら、「自我をいなす」 というそのこと自体が、自我が幻想であることを知らしめ 「恐れ」 のエネルギーを解放する上で大切なキーになるというわけです、、ドア

 

 

 

※というわけで、一足先に行ってきますZEN!!ロケット

 

今日も読んで下さり、ありがとうございます!お願い

 

 

 

 

禅の黎明期、ある一人の祖師がいよいよ自らの法嗣 (はっす・継承者) を選ぼうと思いを巡らせていた頃のこと、、

 

 

ちょうどその頃、自身の高弟で他700名に及ぶ僧のトップに立つ一人のベテラン僧がいた、、

 

修行ぶりは皆の模範となるほどで、周囲からも次の継承者になるであろうと当然目されており、、

 

真摯に禅の体系を学び後世に伝えようとする意志も彼には感じられていた、、

 

 

 

ある時、その高弟が僧たちと話している様子に通りかかったその祖師は何気なく聞き耳を立てた、、

 

・・・・・・|ー ̄)耳ジーーーーー

 

 

良いか、心とは、鏡のようなものだ、、埃や塵のつかぬよう立派に磨き、

 

いずれは仏の境地 (悟り) に近づくために日々邁進して行かねばならない、、

 

であるからして、我々は弱い自分であってはいけないのだ、

 

邪な心や恐れる心、、それらを超越してこそ仏の心を体得できる、、

 

そのために日々の修行を通して自分を常に律していかなければならないのだ、、

 

 

 

一方、時をほとんど同じくし、祖師は寺内の外れにある米つき場を通りかかりそこで熱心に仕事をする一人の若者に出くわした、、

 

聞けば彼は読み書きもできず、経典にも触れたこともない、、未だ修行僧とは言えない見習いであった、、

 

熱心に仕事をする傍ら、祖師が通りかかったことに気づいた若者は顔を上げ元気良くあいさつをした、、

 

 

おはようございます、老師!良い一日を!爆  笑

 

 

すると祖師は不思議とその若者の様子に興味を惹かれ、何を思ったかひとつ質問を投げかけてみることにした、、

 

その方、仏性とはいかように考える?( ̄ー ̄)

 

 

 

仏性??ですが??これまであまり考えたことがありませんでした、、キョロキョロ

 

何だかそれが何か特別なもののように感じられますが、、

 

そもそも、「仏性」 などという何か特別で素晴らしいものがあるとする考えそのものがよく分かりません、、僧侶の皆さんが言っておられる、「悟り」 についてもそうです、、本当にそのような 「特別」 なものがあるか疑問でなりません、、

 

というのも、私はこれまでもずっとこのままでありましたし、これから先もこれに何かを足すことも、あるいは、何かを失うこともないのではないでしょうか、、

 

確かに、日々ここで仕事をしていると邪な考えや思いが沸くこともありますが、、そのことが沸き起こって来た時にそのことに気づいてさえいれば、それらは雲のように形を変えまた消え去っても行くだけだという発見もすることができました、、

 

ですから、常にあるのはこのクリアな、ここに在るだけということではないでしょうか、、おねがい

 

 

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というわけで、これは、五祖弘忍 (ぐにん) とその高弟神秀 (じんしゅう) そして、その後、最後の祖師とされる、六祖慧能 (えのう) をモチーフにしたハリーアレンジの物語でしたが、、ひらめき電球

 

 

五祖はこの後、米つき場の一人の若者を自らの後継者にすることに決めたそうです、、

 

実際、この、いわば英断によって、慧能から先、禅は大きくも豊かな系譜を描く発展を遂げることになるのです、、拍手

 

 

個人的に少々縁のある、臨在禅開祖、臨在禅師や、、あるいは、個人的に大好きな、喫茶去 (きっさこ) でお馴染みの趙州禅師などもその後の流れから誕生し、もちろん日本への禅の伝来もこの流れから生まれていたりもするものです、、お願い

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!完了

 

 

 

「手放す」 ということは、悟り系のメッセージではよく見かけられるものです、、目

 

思考を手放す、抵抗を手放す、執着を手放す、収縮を手放す、恐れを手放す、自我を手放す、エゴを手放す、、などなど、、

 

 

 

けれども、一方、なかなか手放せないということも同時によくあることでありながら、、実際、それについてのガイドメッセージは希少であると思いつつ、、

 

 

 

というわけで、「手放し」 とは、「気づき」 によって起こるものであり、

 

もっと言えば、「手放し」 と 「気づき」 は同義であると言ってしまっても差し支えはないでしょう、、完了

 

 

 

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その参考になる、ニサルガダッタ・マハラジの逸話より、、OK

 

 

ある弟子が、ニサルガダッタにこう尋ねたとき、、

 

先生でも、、エゴ的感覚が沸き起こることあるのでしょうか??

 

 

ニサルガダッタはこう答えたという、、

 

もちろんそれは起こるものだ、、しかし、私はすぐにそれが幻想だと見て、捨ててしまう、、

 

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この逸話が示していることは、エゴやら自我、あるいは、それに付随する抵抗や執着、あるいは思考感覚についても、それが 「起きること」 自体に何かしらの問題性があるということはなく、

 

それが例え起きたとしても、それを 「見る」 こと、即ち、「そのことが起きていることにしかと気づく」 ことによって、手放しが自動的に起きるとことがまさに肝であるというわけです、、ひらめき電球

 

 

 

ですから、瞑想的な実践や、禅的な取り組みによって見出されるのは、

 

実はこの、気づきの領域を知るということであって、このクリアな気づき (アウェアネス) に映し出される様々なエネルギー、先にも述べた思考だったり、抵抗だったり、執着だったり、自我、エゴといったものが沸き起こって来た際、自然とそのことに気づいていられる体感を養い始めます、、お願い

 

 

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実際のところ、そのことに気づいていない場合、手放しは起きることはありません、、手

 

というのも、「それらが起きている」 ことに無自覚で居るときというのは、往々にして、「それ自体」 として同化が起きており、即ち、そのことに眠ってしまっているために、

 

どうあっても、「手放す」 ということは起きようがないというわけです、、秘密

 

 

けれども、「それらが起きている」 ことに目覚めて居る時、「そのことに気づいている」 ときというのは、自然と手放しへと流れが始まります、、ドア

 

 

というのも、「気づいている」 とき、「それ自体である」 という眠りの様相が解放されているからであって、、「手放し」 とは、「気づき」 の効果という見方もできる一方で、「気づき」 そのものが、「手放し」 であると言うこともできるものだからです、、富士山

 


 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!合格

 

 

 

 

ジョーン・トリフソンさんの本の冒頭、

 

かつて、鈴木俊隆禅師の流れを組む禅の指導者であったらしい、

 

ト二・パッカーという人の言葉が載っています、、ひらめき電球

 

※実際ジョーンさんも、この方を師事した時代もあったようです、、

 

 

今この瞬間にどんな状態が起こりつつあるとしても、ただそのままにしておけるでしょうか?

 

そこから離れずに。そして、その状態が自分に与えてくれないもの、与えてくれそうにないもの、例えば活力、興奮、感動、喜び、幸福といったものですが、そういうものを与えてくれる何かへと逃げ込んだりしないで。

 

 

今ここにあるものに徹底的にどんな条件もなしにただ耳を傾けるんです。できるでしょうか?

 

 

 

禅の指導者というのは、物事が 「どう」 改善されるかといったアプローチで指し示すことはありません、、今この瞬間しかない以上、そこからどこかに離れた形で、より良い 「未来」 や、問題が解決されているであろう 「ここにはない状態」 を差し出して、「自我」 をくすぐるということもないのです、、

 

 

例えば、勢力が衰えるどころか絶賛、暑さ全開のこうした様相を観る中で、、目

 

 

この 「暑さ」 から離れた形で、より快適だったり、自分にとって都合の良い状態を思い描いた瞬間に、「暑さ」 それ自体が、単に 「暑い」 という状態に 「苦しい暑さ」、「つらい暑さ」、「克服しなければならない暑さ」、「どこかへ行ってほしい暑さ」 といった具合に、「外敵」 へと固定化されてしまうのです、、

 

 

実際、これが 「苦しみ」 の構造であると言えるでしょう、、即ち、「苦しみ」 とは、「苦しみ」 の出口を探そうとすること、、ランニング

 

 

 

そうではなく、ただ 「暑い」 ということが起きているとき、それを 「ただ暑い」 ものとしてそこから苦しみを作り出す代わりに、「そのとおりに経験」 しているとき、「ただの暑さ」 をそのままにしておくとき、、

 

 

そこにあるのは、「ただその瞬間のあるがままさ」 だけなのです、、富士山

 

 

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当然、自我の防衛性に伴って、不快さや、そこから逃れたいとする反応は(程度の差こそあれ) 常時振動するものですが、「どこに行かず暑さとともに在る」 という受容性が意識の中で目覚めると、カギ

 

 

そうした自我の反応は自然と見抜かれ、見抜かれると共に規律を持ち、時には消散したかのようなクリアさも感じられます、、ドア

 

※けれどももちろん、大切なのは、自我を超越することではなく、、自我を見抜くことです、、自我を滅し、より高い状態の意識に近づかなければならないなどとした誤解にハマらないように気を付けてください、、自我は必要に応じて振動し、それはそれで恩寵であり、何の問題もないことなのです、、OK

 

 

 

というわけで、当然ながらこれは、「暑い」 状態の時に、体を冷やすための策を何も講じずただそのままでいなければならないといった類のことではなく、注意

 

そうした様々な行為はもちろん起こるけれども、それらは、「苦しみから抜け出すため」 に発動するといった 「恐れ」 を基盤にはしておらず、ごくごく自然な流れとして、全体的な調和の中で起きるといったところへ移行するということも付け加えておきたいと思います、、秘密

 

 

 

 

というわけで、「苦しみ」 とは、「苦しみから逃げる」 ことによって生まれるものだと言うことを代々見抜いていた禅の指導者たちは、

 

「苦しみ」 から逃げないこと、「苦しみ」 に出会うこと、「出会い」 によって 「苦しみ」 を友とし、受容する可能性があるということ、そしてそれこそが、「真実を生きる」 態度であるということを後世の私たちに今ここで語りかけているのです、、お願い

 

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!完了

 

暑さお気を付け下さい!

 

 

 

とある教師のもとにある一人の生徒が訪れた日のこと、、

 

 

コンコン!グーグー

 

 

はい、どうぞ!やぁ、今日はどうしたのかな?( ̄ー ̄)

 

 

こんにちは、先生!今日は他でもないんですが、ワクワクする方法を教えてください!プンプン

 

 

ワクワク??( ̄ー ̄)

 

 

はい、なんでも、私の友人の言うところでは、宇宙のはるか遠くに居るらしいナントカさんがワクワクすることが大事で、ワクワクする方に進むことが人生をうまくいかせる秘訣だとかなんとか最近聞いたもので、、えー

 

 

ほう、そうですか、ワクワクさんがそう言っておられると?

 

それで君は、なんでそんなに悩ましい表情をしているんだい?( ̄ー ̄)

 

 

はい、それがですね、、ワクワクすることがなかなか沸いてこないんです、、日々、ワクワクしよう!ワクワクしたい!と精一杯頑張ってるつもりなんですが、、、友人が言うように僕もワクワクに従って人生を豊かに歩んでいきたいと思っているんですけど、、ショボーン

 

 

なるほど、では、私からのアドバイスですが、、ズバリ、、ひらめき電球

 

ワクワクにならなきゃとか、ワクワクで居なければとか、ワクワクを目指そうとか、、そうしたすべて、ワクワクのすべてを求めたりしないで居てごらん!( ̄O ̄)ノオホン!

 

 

えええーー!!ワクワクしなくてもいいんですか!?!?びっくり

 

 

はい、ワクワクしなくて大丈夫です、、グッ( ̄ー ̄)

 

 

えええーーー!!そそそんなはっきりと明言しちゃうんですね!!!びっくり

 

 

 

はい、、というのも、いいですか、、君の言うその 「教え」 について気を付けなければならい点を言うとだね、、

 

「ワクワク」 と 「非ワクワク」 という形で私たちの中で起こる本来途切れのないエネルギーを二元的に分断しているのが分かるかな?

 

二元的な分断に根差した教えというのは、それがどんなに信頼性のあるものであっても、「真実」 であるということはないんだ、、ワクワクだけに、「枠」 「枠」 !なんてね!OK( ̄ー ̄)

 

 

「枠」 キターーーーー!!笑い泣き拍手

 

 

 

「真実」 は、そうした 「枠」 のない、非分断性、、途切れのなさ、、非二元性であることに他ならないのだから、、( ̄ー ̄)

 

 

それに、ワクワクする出来事ばかりを躍起に追い求めようとすることにも真実の道においては注意が必要だよ、、というのも、「ワクワク」 することばかりを追いかけるあまり、「今ここ」 で確かに起きているリアリティであるところの出来事が仮に 「非ワクワク」 だとして、、

 

そうした 「非ワクワク」 は 「自分にとって」 取るに足らないものであるという無意識的な条件付け (洗脳・偏見・まやかし) にハマってしまうと、、

 

 

宇宙的な真実として今この瞬間に現れている、それ以外あり得ない 「今ここ」 のリアリティを見ず、この瞬間にはない 「ワクワク」 に向かって奔走するエネルギーに伴って、ますます二元性 (迷妄) の様相が色濃くなるばかりになるとも言えるものだからさ、、( ̄ー ̄)ノ秘密

 

 

 

・・・・・びっくり

 

 

 

大切なのは、内側にしろ、外側にしろ、、例え目の前に 「ワクワク」 が起きていないときであっても、真実に出会う!真実を生きる!ということだよ、、( ̄ー ̄)b

 

 

真実を生きるというのは、それが 「ワクワク」 か 「非ワクワク」 かと (二元的に) 判断せずに、どんな在り様であってもすべての 「今ここ」 に毎瞬毎瞬出会い、出来事と一つになること、行為の中に溶け去ること、その瞬間の 「今ここに気づいている」 ということを実践することです、、( ̄ー ̄)ノカギ

 

 

実際、一所懸命、一期一会というような、「今ここ」 への帰依で以て生きるということが意識の中で目覚めると、徐々に体感は (今ここに在ることの副産物と言うべき) 活力に満ち始めるだろうし、そこにおいてはもはや、「ワクワク」 などという偽の確信にすがる必要もなくなるものさ、、

 

 

真実はいつもいつも 「今ここ」、、これより他に、生きるべき場所も、真実の生き方も、真実そのものもありはしません、、大切なのは、、、もう分かるね?( ̄ー ̄)ノドア

 

 

 

ワクワクよりも、イマココです!!笑い泣き完了

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!お願い

 

お陰様で繁忙期終了です、、良いお盆をお過ごしください!バイバイ

 

 

 

 

どうしたら 「苦しみ」 がなくなるか、、

 

 

この問いについて、とある教師はこう答えました、、→ パー( ̄ー ̄)

 

 

 

どうしたら、「苦しみ」 がなくなるか、、だって??そうだね、、ではまず、

 

どうしたら 「苦しみ」 がなくなるか、、などと思わないでみると良い、、( ̄ー ̄)ノ完了

 

 

・・・・・ガーン

 

 

ま、というのも、これが、「苦しみ」 だと思うエネルギーが強まれば強まるほど、、

 

「苦しみ」 と 「自分自身」、つまり、「苦しみを抱える自分」 といったところの、二元感覚がより強固に固定化されてしまうからというわけなんだ、、

 

 

すると当然、「苦しみ」 から 「逃れたい自分」、「苦しみ」 を 「克服したい自分」 の感覚の高まりに伴って、「苦しみ」 への 「抵抗」 が増すことになるといったエネルギー的な構造が浮かび上がるのだよ、、( ̄ー ̄)手

 

 

 

・・・・・口笛

 

 

 

となるとだ、、そもそも、「苦しい」 と思える出来事が起きたとき、当然ながら反射的な自我はそこから脱しようと目にもとまらぬ速さで反応し出すけれども、そうした時、もう一つの気づきの目線に在るということを大切にしてみると良い、、

 

即ち、、「自我が起きている」 ことに気づく、ということさ、、「自我が起きる」 こと自体はむしろ自然であるから、それが起きないようにしようなどと躍起になる必要はないのだよ、、(逆に、躍起になってしまうとまたそこに新たな 「抵抗」 が生まれることになるからね)

 

 

けれども、「自我が起きている」 ことに無自覚で居るのと、そのことに目覚めて居るのとではまさに、天国と地獄ほどに違いがあると言っても良い、、

 

 

であるから、「自我が起きている」 とき、そのことをただ見守るということが徐々に意識の体感として定着してくるようになると、「苦しい」 経験においても、それを何が何でも 「苦しみ」 として固定化して、それに 「抵抗」 をすると言った意味での、「苦しみ」 との闘いや、「苦しみ」 からの逃避といった感覚が起きるのを自然な気づきとして見抜けるようになるんだ、、( ̄ー ̄)ノ秘密

 

 

・・・・・びっくり

 

 

見抜いたのであれば、「苦しみを抱える自分」、「苦しみを消し去りたい自分」 といったところのストーリーをこしらえようとする思考感覚も徐々に脱落し始めるさ、、

 

 

そうなって来たときそこに残るのは、「あるがまま」 の出来事だけ、体感的には確かに苦しくて、不快な感覚が絶えず振動するかもしれないけれど、それを、「滅すべき悪」 などとは思わなくなったことは私たちの人生において大きな変化のきっかけにもなると私は思うんだ、、グッ( ̄ー ̄)

 

 

・・・・・おねがい

 

 

即ち、、「苦しみ」 に対する 「抵抗」 の様相が見抜かれたからこそ、真に、その経験、あるいは、出来事とのダイレクトな 「出会い」 が実現し得るというわけさ、、

 

 

そうしたニュートラルな 「出会い」 によってこそ、それまで起きていた軋轢や不調和といった二元的な摩擦は解消され、非二元的なレベルで、エネルギーが調和し出すといった転換が起きるフィールドが整うんだ、、OK( ̄ー ̄)

 

 

 

・・・・・笑い泣き

 

 

 

というわけで、実際、ここでの 「禅」 の役割は非常に大きい、、むしろ、「禅」 が代々伝えてきた 「今ここを生きる」、「今ここに出会う」、「今ここに三昧する」 といったアプローチが、期せずしてその調和、非二元的な受容性を開くカギになると言うわけなんだよ、、( ̄ー ̄)ノカギ

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!お願い

 

 

 

暑さの中で瞑想中の折、、ふと、、

 

 

東京で新卒時代を過ごしていた頃、、秘密

 

スーツにネクタイを締めて真夏の炎天下の中、外回りをしていた頃のことをここぞとばかりに、思い出されたものです、、滝汗

 

 

 

そんな日々の中、一日の終わりには、気分を晴らすようなロック調の音楽をワイワイ再生させながら帰路に着いていたものでした、、

 

概ね、そうした歌の特徴は、「今ここにはない輝かしい未来やどこか」 がきっとこの先訪れるはずだから、前向きに生きて行こう!的な励まし文句が多くあったように思います、、目

 

 

20代の当時は、当然ながら求道の道には入ってすらおらず、「つらくて苦しい今」 にほんの少しの安らぎを与えてくれるそうしたメッセージに魅了され、あるいは、大声でカラオケなどに興じながら、笑

 

 

「今ではないどこか」 にひたすらに意識を向けていたように思います、、ランニング

 

 

 

さて、今となっては、、笑

 

そうした前向きに、「未来」 や 「どこか」 を思い描かせ、「今ここでは決してないゴール」 に辿り着かせようとするメッセージは、どんなものであれ、「間違い」 であるということをはっきりと分かっているので、、

 

 

例え今、同じ歌などと聞いたとしても、リズムにルンルン乗ることはあっても、騙されることはないだろうと勝手に思っています、、笑

 

 

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というわけで、「今ここ」 しかないリアリティにおいて、「今ここ」 ではない 「どこか」 にこそゴールがあるはずで、「今はまだ自分は辿り着いてはいない」 し、「あなたはいつかそうしたゴールにきっと辿り着ける」 からとしたメッセージなどの類は、、

 

 

世の中的な価値観からすれば、聞こえ方は良いかもしれませんが、、全くの間違いであり、「自我」 にエサをやるだけの誤った励ましであると言えるでしょう、、注意

 

 

大切なのは、「真実は何か」 ということです、、カギ

 

 

「真実」 とは、目前のリアリティであり、ここしかない明白さにおいて、ある意味で 「正しい」 指針というのは、、全くもってシンプルで、、即今目前、今ここにダイレクトに生きる、今ここのみに三昧するということに尽きます、、富士山

 

 

 

というわけで、久々に鈴木俊隆禅師による、、お願い

 

どこかになど何もない、むしろ、どこかなどどこにもない、、

 

自らを救うのは、どこかにある 「頭の中の」 悟り (のイメージ) ではなく、今この瞬間にありありと在るあなた自身なのだということを修行者たちに諭したいくつかの逸話をシェア!ひらめき電球

 

 

修行者曰く、、老師は、禅はあらゆるところにあるとおっしゃいますが、

 

では、なぜ私たちは禅センターに来なくてはならないのですか?

 

 

禅師曰く、、禅は、いたるところにある、、しかし、あなたにとっては禅は今ここなのだ!

 

 

 

また、弟子たちの坐禅中に禅師曰く、、

 

 

動くな!何回も、何回も、ただ死になさい!

 

期待するな!あなたを救うものは、今、何ひとつないのです。

 

ここが、あなたたちの最後の瞬間なのです。今は、悟りでさえ、あなたたちを救いはしない。

 

この瞬間以外には、ないからです。

 

未来を持たず、自分自身に忠実でありなさい。そして動いてはいけない!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!完了

 

クールダウン、もう時期かと思われますね!お願い

 

 

 

 

繁忙期にもかかわらず、空気を読めないとある教師は不意に現れました、、笑い泣き

 

 

 

 

やぁ、暑い中がんばっているようだね、、パー( ̄ー ̄)

 

 

えーそりゃあなんてったって、繁忙期ですから、、ニヤリ

 

 

 

オホン!「繁忙期」 ね、、そんなものはありはしないのだよ、、

 

常に、「今ここ」 があるだけなのだよ、、( ̄ー ̄)ノ完了

 

 

そ、そりゃそうですが、先生!一言よろしいですか、、相対世界なめんな!!ムキーブー

 

 

 

いやはや、それは失礼、、( ̄ー ̄)ノ

 

 

って、先生!もう、いい加減寝たいんですけど、、

 

今日は一体全体どうしたって言うんですか??えー

 

 

 

そうね、、なにやら、ここでこれを語るようにとの 「あるがまま」 だったものでね、、( ̄ー ̄)

 

 

 

へー、、、その、先生の言うこれとは何なんですか?キョロキョロ

 

 

 

うむ、、君の体感の中に、ほんの少しでも、「逃れたい」、「億劫だ」、「面倒だ」 なんだのかんだのとした感覚が沸き起こって来たとしたら、、その瞬間、そうした感覚を盲目的に信じてしまわずに、その感覚が、いわゆる 「自我である」 という気づきに目覚めて居るようにしなさい、、OK( ̄ー ̄)

 

 

その感覚が沸き起こること自体は問題でもなんでもなんでもないが、、

 

 

実際のところ、その感覚が、「あるがまま」 に起こる目の前の出来事と、今まさにそれを経験しようとしている君を二元的に分離させ、仮に、「向き合わない」 ということを通してますます、「あるがまま」 と 「君」 との間の距離を生み出しては、

 

 

「逃れたい自分」、「億劫な自分」、「面倒な自分」 というストーリーというべき実体を疑いようのない形で浮かび上がらせる力があるから注意が (意識的で在る) 必要があるとも言えるのだよ、、

 

 

 

つまりが、、「自我である」 ことに気づくだけで良いというわけなんですね、先生、、口笛

 

 

その通り、「自我である」 という気づきの領域、即ちが、「目覚め」 であるからして、

 

そのニュートラルな在り様から、そうした自我的反応が優勢に働く場合でも、それを手放し、いなす可能性が自然と生まれてくるわけなのだよ、、グッ( ̄ー ̄)

 

 

 

ほ、ほーそういうものなんですね、、わっかりましたー!というわけで、おやす、、照れ

 

 

 

さらに言えば、、そこで、「禅」 を知っている場合は、手放しの経路も 「即座」 ということが言えるわけなんだよ、、( ̄ー ̄)

 

 

あー、、先生、「禅」 好きですもんねー、、わっかりましたー!今後、「逃れたい」、「億劫だ」、「面倒だ」 という感覚が沸き起こって来た時は、自我が二元的なトラップを仕掛けようとしている信号だと見て、

 

自我的様相を手放し、「あるがまま」 と 「出会う」 ことによって、「あるがまま」 自体として統合的に生きることを誓います、、というわけで、おやすみな、、

 

 

 

うむ、、それがなにより、、「今ここに出会い」 続けることが、本来それしかない、「今ここ」 というリアリティを 「あるがまま」 に生き流れる、舟のような役割を果たすとも言えるのだよ、、( ̄ー ̄)ノ

 

 

 

分かりました先生、、もう記事を書くのから、「逃れたい」 とか、「億劫だ」 とか、「面倒だ」 とか思わないようにしますので、、今日はこの辺で、寝させてくださいーーえーん

 

 

 

ま、良しとしよう、、また、「あるがまま」 の今ここで逢うとしよう、、

 

ではでは、おやすみ、おやすみ、パー( ̄ー ̄)

 

 

 

って、お前はすんなり、おやすみ言うんかい!!笑い泣き

 

「あるがまま」 マジ許さん!ムキーブー

 

 

 

 

 

とある探求の、繁忙期より、、お願い

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!

 

 

 

 

というわけで、禅の修行、あるいは、禅的取り組みを通して、、

 

何事にも常に、「出会う」 ということを徹底するそのシンプルなアプローチの中で、

 

 

次第次第に、意識が、「今ここに出会う」 という感覚に目覚めるとも言えるでしょう、、富士山

 

 

日常、自分にとって不都合な出来事が起きた場合でも、「今ここに出会う」

 

自分にとって好ましい出来事に対しても、「今ここに出会う」

 

 

 

前者、できれば逃れたいと思うような出来事にも、「出会う」 という体感で向き合うことができるとき、

 

前回も書いたように、エネルギー的には、「抵抗」 から 「受容」 へと転換が起きると言えるでしょう、、

 

 

受容とは即ち、、エネルギー的な、「隔たり」 のない様相であるからして、

 

いわゆる、悟り系で言うところの、「分離から統合」 へとシフトのようなものが起こるとも言えるのです、、OK

 

 

 

 

さて、一方、、後者、、自分にとって、好ましく望ましい、ずっとその状況に留まっていたいと自我が執着するような出来事であっても、他の出来事と差別や区別をすることなく、

 

「出会う」 というニュートラルなエネルギーで向き合うことができるとき、、

 

 

自我的な執着をいなし、好ましさや望ましさ、いわゆる、「天国だけ」、「良い気分だけ」 に留まりたいなどとした様相を解放することができるのです、、

 

 

一見、「天国」 や 「良い気分」 の状態は、私たちにとって理想とする状態のように見えますが、これに執着するようになってしまうと、、絶えず、背後では自我 (恐れ) が振動する不健全な在り様を常態とすることにもなるため、手放しはやはり必要です、、秘密

 

 

これが、私が折に触れ好んで引用する、ジョーン・トリフソンさんのこの言葉が指し示しているところです、、ひらめき電球

 

地獄を避け、天国だけを経験していたいという願望こそが実は地獄の一側面です

 

 

実際、「天国」 や 「良い気分」 への執着が起きているときというのは、それを所有し維持したい自我の感覚、それを所有し維持しようとする個人の感覚が優勢であるため、ここでもエネルギーは 「分断」 されると言えます、、目

 

 

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いずれにしても、この、「今ここに出会う」 という、ある意味で、「一期一会」 のような言葉が伝えているその真髄こそが、抵抗や執着を手放し、今ここに開かれた真実のエネルギー的様相 (非二元性) を実現する上で、合格

 

 

相対世界において、絶対性へと私たち正確に導く、禅が脈々と伝えてきた智恵であると言えるでしょう、、ダルマ

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!お願い

 

 

 

今ここに在ること、今ここに出会うこと、それを徹底的に体系化したものを 「禅」 と言います、、ダルマ

 

 

 

本来的に私たちは、「今ここに在る」 以外で在ることは不可能であるのですが、、

 

様々な外界の影響、、ここ数日来で言えば、、猛烈な暑さ、、滝汗

 

 

そうした、個人の 「都合」 に反する形で起こる、相対的な様々な出来事や状況に対して、「抵抗」 するというエネルギーによって、「今ここに在る」 にもかかわらず、「今とは違った何か」 や 「どこか」 を思い描きつつ、、UFO

 

 

程度の差こそあれ、そうしたものへの執着の度合いによって、「今ここを外す」 在り様が、見かけの上で常態となってしまうために、ランニング

 

 

「真実」 に在りながらに、「真実に目を背けている」 様相、、グラサン

 

「真実」 から離れることなどできようがないにもかからわず、「真実ではないどこかへ向かう」 様相が起きると言ったパラドックスが起きることになるわけです、、手

 

 

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ですから、禅の真髄は、、「今ここを外さない」 ということ、、カギ

 

 

「今ここ」 に在り続け、見かけの上でどんな出来事や状況が相手であろうとも、「今ここ」 に出会い続けるということに尽きるわけです、、虹

 

 

実際この、シンプル過ぎるほどの相対的な実践や取り組みによって起こるのは、、

 

 

エネルギー的には、「抵抗」 から、「受容」 への転換であり、、

 

あるいはまた、これまで、「抵抗する対象」 と 「抵抗している私」 の間で起きていた、二元的な隔たりを溶解しつつ、、いわゆる、「分離」 から 「統合」 への非二元的な転換を実現し得るというわけです、、お願い

 

 

 

というわけで、禅というものが、相対的なレベルから、絶対性へのカギになるということを実際に見るとき、、禅の祖師方の聡明な仕掛けにはあっぱれと言う他ありません、、ドア

 

 

大切なのは、、相対性を外すことなく、絶対の門をくぐるという絶妙さにあると個人的には感じるところです、、秘密

 

 

 

 

 

禅では、呼吸、姿勢、トイレの清掃の仕方、禅堂への出入りの作法、ごはん茶碗の持ち方に多大な注意が払われます。

 

悟りを求めて張り切っている新参者の目には、そうした平凡な物事の細部にそこまでこだわる態度は、

 

完全に本質から外れていて、ばかばかしいほど表面的でつまらないことのように映ります。

 

 

けれども、それは実際には、修行する人たちにこの瞬間を指し示しながら、

 

抽象概念やイデオロギーに夢中になって現実について考えてしまう癖を崩していくためのひとつの方法です。

 

そうすることで、悟りはここになければどこにもないということ-------

 

悟りは理論上のものでも哲学的なものでも形而上学的なものでも神秘的なものでもないこと-----、

 

まったく単純であること、まさにここ、この呼吸の中、このコーヒー中、この便器の中にあるということを伝えているのです。

 

ですから、どこか別の場所を探すようなことをして見落とさないようにしてください。

 

(ジョーン・トリフソン)

 

 

 

 

 

 

※というわけで、暑さの中に三昧致します!合格

 

今日も読んで下さり、ありがとうございます!