悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

 

 

少し前のスピリチュアルであれば、

 

「不快」 だったり、「良い気分ではない状態」 についてはとにかく忌み嫌われ、

 

それらを打ち消してくれそうな出来事や状況へと努めて奔走したり、

 

 

「良い気分」 に常にフォーカスすることを奨励するような教えが叫ばれるといったこともそれなりに見かけられたものですが、、

 

 

結局のところこうした探求が生み出すのは、、さらなる 「不快さ」 であって、

 

躍起になって 「快」 や 「良い気分」 を求めることは即ち、、

 

力の限りを尽くして、「あるがままの状況や状態」 を否定し続けるということに他ならず、「非受容」 的であること (抵抗) を維持しようという 「機能不全」 の様相を呈するだけであったりもするものです、、注意

 

 

例えるに、、嵐吹き荒れる最中に、安穏とした晴れの日を必死になって願い続け作り出そうとしている際の様相を見ればエネルギーの無用な消耗の在り様は明らかです、、台風

 

 

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ですから実際のところ、私たちにとっての正しい (スピリチュアルの) 探求というのは、、カギ

 

 

「不快さ」 から逃れ、それを何とかして打ち消そうとすることではなく、、

 

「不快さ」 を反射的に嫌い、それを克服しなければならないと抵抗の限りを尽くす機能 ( 「自我」 (自己防衛性) をしかと自らの内で見抜きつつ、、

 

 

そうした自我の習慣的なパターンである、「今ここ外し」 の感覚を意識的に手放しながら、

 

「不快さ」 と共に在ること、それを変えようとするのではなく、その瞬間の地中深くに気づきを根付かせることによって、自我が静まり、「受容」 というフィールドの中で溶解する様を実際に見ることであると言って良いでしょう、、合格

 

 

 

 

 

<ここ・今> は常に至福に満ちているわけではありません。まったく至福どころではないということもあり得ます。

 

それでも、逆説的ですが、すべてを今この瞬間にあるとおりにし、そこから離れずにいることで、至福 (もしくは喜び、平安、愛、自由) が本当はどこに存在しているのか、何がそれを見えなくしているのかに気づき始めます。

 

唯一の至福はこの瞬間の中心、まさにここにあるということが分かり始めます。それから、苦しみとは、逃げること、あるいは至福をどこか別の場所 ----- 「外側」 のどこかで-----未来のいつかに探し求めることだということも。 (ジョーン・トリフソン)

 

 

修行というのは、気分を良くしたり幸福感を味わったりすることではありません。

 

何かを変えることでも、どこかへ向かうことでもありません。そうした考えそのものが基本的に誤っています。

 

ただ、そういう欲求を観察していると、次第に分かってきます。向上したい、どこかに辿り着きたいという私たちの激しい欲求は、それ自体が幻想であり、苦しみの源だということを理解し始めるのです。

 

(シャーロット・ジョーコ―・ベック)

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!お願い

 

 

 

 

さて、悟り系のメッセージでは、耳にたこができるほどに、、笑

 

今ここ、今ここ、今ここ、、と繰り返されます、、目

 

 

あまりに良く耳にするものだからと、私たちの中には、あまりその言葉の 「方角」 を改めて見ようとしないということももしかしたら在るのかもしれません、、

 

 

というわけで、基本に立ち返って、、今日は今ここを感じてみましょう、、カエル

 

 

 

さて、今の今、たった今、あなたはどこに居ますか、、「今ここに居ます」

 

 

では、これからその場を立って、、例えば、階段へと向かい、階段を下りてみます、、あし

 

足の裏に気づきながら、すこしあなたの 「存在」、「在る」 という感覚を感じてみて下さい、、

 

 

階段を下りているときでも、私たちは、、「今ここに居ます」

 

 

そして、階段を下り、トイレへ向かい、トイレに到着、、なんということでしょう、、笑

 

 

わざわざ、二階から降りてようやくトイレに辿り着いたと思ったら、、

 

あなたが発見できるのは、、「今ここに居ます」 ということだけです、、

 

 

これは日常のあらゆる場面で共通に起こるこの世界の真実です、、

 

家から車に乗って出かける道すがら、、私たちは一歩たりとも動いてなどいません、、

 

 

なぜなら、車の中でも、「今ここに居ます」 だからです、、

 

その後、職場に着いても、あるいは、近所のスーパー、、

 

さらには、飛行機を乗り継いではるか遠くの目的地に着いたときでも、、

 

 

私たちが、「今ここに居ます」 以外であることなど一瞬たりともありはしないのです、、

 

 

 

あなたは、「今ここ居ます」、、私も同様に、「今ここに居ます」 

 

私たちは誰一人の例外もなく、、皆が皆、、「今ここに居ます」 なのです、、

 

 

 

これが実際のところ私たちの 「存在」 の秘密、、私たちは、「今ここに居る」 意識でありながら、、

 

もっと注意深くその在り様に寄り添う中で見えてくるのは、、私たちとは、、「今ここ」 そのものという明らかさです、、合格

 

 

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ですから、実際のところ、、私が敬愛して止まない禅という体系は、、

 

このこと、、「今ここに居る」 ことにのみ帰依するということをその修行の中でただひたすらに実行し続けるのです、、

 

 

禅の道場に行かれたことがある方なら体験されたことがあるかもしれませんが、、

 

私にとってはその食事の作法が実に興味深いものでした、、

 

 

ご飯に、汁物、おかずなどなどがある中で、、禅の修行では、、ただ一つの品目にのみ 「出会う」 ということをとにかく徹底するのです、、

 

ご飯を頂くときは、両手でごはん茶碗を持ち上げ、一口をモグモグモグと口にします、、ニヤリ

 

無意識の私たちであれば、すぐさまおかずに箸を伸ばしご飯と一緒にそれを食べることをしてしまいがちですが、、禅ではそれは決してしません、、

 

 

禅の人々は、ご飯が口の中からなくなるまで、意識的に留まりその瞬間の出会い、「ご飯」 にのみ出会うということを続けます、、

 

そして、ようやく口の中が無くなったところで、次の品目へと箸を移すということを続けます、、割り箸

 

 

 

鈴木俊隆禅師の逸話集にもありましたが、、実際のところこれは、二つのことを同時にすることはできない、、からです、、OK

 

どんなときでも私たちの行為は、「今ここ」 の発露であるからして、その瞬間の出会いは 「今ここ」 に常に一つだけです、、

 

同時に何かをしてしまうことも当然ながら、日々の私たちにはよくあることですが、、実際には、、「ながら」 で何かをしているとき、私たちは、「今ここの出会い」 を真に果たしてはいないのです、、

 

 

歩きながらのスマホは、、「歩く」 ということを外しています、、

 

食べながらのテレビは、、「食べる」 ということを外しています、、

 

運転中の音楽は、、「運転する」 ということを外しています、、などなど、、

 

 

もちろん、そうしたことのすべてに何ら問題性があるというわけではありませんが、、私たちが意識的で在るとき、無意識的に手を伸ばす 「ながら」 の誘惑を断ち切り、、「今ここに在る」 者として、「今ここ」 への出会いを一つ一つ完全に実現するとき、、私たちは真実を生きています、、

 

 

真に、「今ここ」 に出会い、「今ここ」 に現れる相対的な様々な出来事と一つになるとき、、私たちは 「今ここ」 という場の途切れのない広がりを見出すこともあるでしょう、、ドア

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!流れ星

 

 

 

 

今月はやたらと、鈴木俊隆禅師が登場しますが、、ま、それもあるがままということで、、お願い

 

 

ある日、一人の修行者と禅師が禅堂 (坐禅の修行をする場所) に二人だけでいるとき、、

 

修行者は、ずっと気になっていた、「少し傾いた掛け軸」 を静かにまっすぐに直し自らの座布団に戻ったと言います、、日本国旗

 

 

すると、しばらしくして禅師がその掛け軸のところまで来るや、元のように、「少し傾いた状態」 に戻し、禅堂を後にしたとのことでした、、あし

 

 

おそらくその際の修行者の顔は(→)、、ガーン

 

ってなところで、、笑

 

 

 

 

 

 

そう言えば、ジョーン・トリフソンさんの本の中にこんな箇所があったなとふと思い出す、、ひらめき電球

 

 

解放とは、制限の中に自由を見出し、不完全さの中に完璧さを見出すことです。

 

 

 

まさに、鈴木俊隆禅師の一見滑稽にも見える冒頭のようなガイドはこのようなことを語っているようにも感じるものです、、カギ

 

即ち、「不完全さ」 もまた 「完璧さ」 の現れであって、、「不完全さ」 に抵抗するのではなく、、「不完全さ」 を 「ただそうであるもの」、「あるがままの現れ」 として見ることによって起こる、「受容性」 の発露を感じなさい、、とでも言っているかのように、、

 

 

もちろん、「傾いた掛け軸」 があったのであれば、それに違和感を感じ、「正しい状態」 に整え直すというのも私たちを通して見出される全体の中の発露であり、恩寵であるわけで、、

 

 

そうした行為自体に何かしらの問題性があるなどとは言うわけではありませんが、、それでも、「不完全さ」 に対して、微妙にでも沸き起こる、反射的、無意識的な 「抵抗」 の感覚に気づけるかどうか、、

 

 

その感覚に気づきながら行為を起こすのと、反射的な一種のパターン化された行動が起こるのとでは求道においては大きな違いがあると言っても良いかもしれません、、OK

 

 

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というわけで、私たちの日常に、「問題」 らしきものが現れた際、、それに対する反射的で無意識的な、自我性に端を発した 「抵抗」 の様相が起きた場合には、、その感覚に気づきを向け、「抵抗」 のままに 「抵抗する個人」 を生み出そうとする感覚を手放し、、

 

 

「問題」 を 「あるがままの出来事」 としてニュートラルな 「出会い」 を徹底できるかを見てみると良いでしょう、、虹

 

 

「抵抗 (恐れ)」 からの収縮した発露とは違った、ある意味で、「受容 (愛)」 から生み出される行為が出来事に内在する (分離的な) 問題性を徐々に溶かしつつ、そこにおける開かれたフィールドの中で興味深い変容、あるいは、転換が起きることもあるかもしれません、、流れ星

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!お願い

 

 

 

ふと思い出された、鈴木俊隆禅師の逸話より、、ひらめき電球

 

 

ある修行者が禅師にこんな相談をしたそう、、

 

私は日々、梯子を上ろうとして、1段上ったら2段落ちているようなのです、、ショボーン

 

 

それに対して禅師曰く、、

 

 

梯子のことなど忘れてしまいなさい!

 

禅においては、すべてはまさに、ここ!大地の上にあるのだから!

 

 

 

 

 

 

 

というわけで、こうしたことは、スピリチュアルの誤解としてそれなりに見かける話です、、手

 

今はまだ自分は、このランクに居て、もう少し鍛錬を積めば (あの人のように) 次のランクへ上がれる、、

 

そしていつか自分はこの一段一段を確実に上り終えた先、(あの人のように) すばらしい境地、景色、自分に辿り着けるんだ、、

 

 

などといったもの、、

 

 

さて、どんなメッセージにしろ、「辿り着く場所」 がここ以外のどこかを指し示されたメッセージは結局のところ、時間と空間があるとした二元的な誤解に根付いているために、「正しい」 ことを語っているということはあり得ません、、

 

 

大切なのは、、どこに居ても常に在るその場所、、「今ここ」 に気づいていて、その場こそがゴールであって、そこから離れた形で、「どこか」 へ行くことなどできはしないし、ここ以外のどこにも辿り着く場所などない、ということをしかと自らの内で感得することであると言えるでしょう、、富士山

 

 

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また、とりわけ、先の鈴木俊隆禅師が戒めた点を見てみると、、目

 

まるで、そこに、「梯子を上っている自分」、「梯子を上り切れる自分」、「梯子を上ろうとして苦闘する自分」 といったところの、個人の感覚 (ストーリー) が日々の修行の中で付きまとうために、

 

 

いつまで経ってもそうした 「自己」 の制限のかかった中での上下運動になってしまうといったところで、「自己」 の枠を超えた 「あるがまま」 の無境界性に抵抗する様相を常に生み出してしまったり、、

 

 

さらにそこに、「理想とされる状態 (例えば、悟りなど)」 や、「目指すべき誰か (見事に悟りを得たあの人)」 などといった対象のエネルギーを持ち運んでしまうと、尚更に修行は意味をなさないものになってしまうとも言えるでしょう、、

 

 

つまるところが、限定的に固定化した 「状態」 や 「誰か」 に盲目的に近づこうとする感覚に伴って、

 

すぐさま 「今ここ」 から離れて、より高められた 「自分」 を目指そうとする二元的な迷妄性が助長されるからというわけです、、ランニング

 

 

何度でも何度でも、今ここ!今ここ!今ここ!なのです、、どこに居ても私たちはこの場所で辿り着いているのです、、富士山

 

 

 

禅がすることはまさにこれ、、このことを常に忘れないようにするための、「今ここ」 への徹底した帰依なのです、、お願い

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!カエル

 

 

 

とある月夜に一人の教師のもとへある一人の生徒が訪れた、、お月様

 

 

コンコン!!失礼します!グーグー

 

 

おや、久しぶりだね、今日は何かな、( ̄ー ̄)

 

 

夜分遅くにすみません、先生、、どうしても今日、聞いておかねばと思い立ちまして、、プンプン

 

 

 

いや、大丈夫だよ、、いつだって、「今ここ」 だからね、、( ̄ー ̄)

 

 

あ、はい、、では、単刀直入なのですが、、私たちは一体、どうしたら自由になれるのでしょうか?キョロキョロ

 

 

ジユウ??( ̄ー ̄)

 

 

は、はい!僕は何とかして自由になりたいと常々思っているんですが、どうしてもうまくいっていないような気がして、、ショボーン

 

 

そうですか、、ということは、君は今、「不自由だと思っている」 というわけなんですね、、( ̄ー ̄)

 

 

え?まぁ、そうです、、今、不自由ですね、、えー

 

 

じゃあ、簡単です、、「自由になりたい」 などと思わなければよいのですよ、、グッ( ̄ー ̄)

 

 

えええ??先生!!毎度、何言っちゃってるんですか!?僕は、「自由になりたい」 からここに来たというのに!!ガーン

 

 

おや??気づきませんか??

 

あなたが言う、、「自由になりたい」 という感覚こそが、「今、不自由である」 という疑いようのない観念の根本にあるということが分かりませんか??おいで( ̄ー ̄)

 

 

あ、確かにそうですね!!「自由になりたい」 ということは、「今、不自由である」 ということを何の疑いもなく信じていたように思います!!びっくり

 

 

ですね?ですから、、「自由になりたい」 などとは思わないでいることが何よりの第一歩ということなのですよ、、( ̄ー ̄)ノカギ

 

そうした 「不自由」 の誤解が覚めると、、「自由をどこかに追い求める自分」 の感覚も、「今、不自由の中に居ると信じる自分」 も徐々に溶解し始めることでしょう、、OK( ̄ー ̄)

 

 

もっと言えば、「自分は自由とは別のもの」 だという感覚、「自由はどこか他の場所にある」 という感覚、、即ち、これら二元的なエネルギーの滞りが解放されるとも言えるわけです、、( ̄ー ̄)ノドア

 

 

おおお!!「自由」 の解放が、「不自由」 の解放をもたらすというわけなんですね!!びっくり

 

 

 

そういうことです、、そこにおいて私たちは、初めてスタートラインに立てるとも言えるでしょう、、グッ( ̄ー ̄)

 

確かに、本来絶対的な無境界性である私たちが、相対的なレベルの制限のかかった世界を生きる中では、必要に応じて、窮屈で不自由な感覚というのを大なり小なり、その都度感じたりするものですが、、先の大前提、、大きな誤解が覚めたということは私たちにとっての、ある意味で、追い風になり得るものです、、( ̄ー ̄)ノ

 

 

つまり、「自由」 への執着も、「不自由」 の観念的誤解もそれらが脱落した後、、冷静に日々の体感や、「自分が不自由だ」 と感じる感覚を見つめ始めるようになり、、その感覚の正体と言うべき 「自我」 を少しずつ見抜けるようになってくるものです、、OK( ̄ー ̄)

 

 

「自我」 があるがままの出来事に格闘する形で起きる、抵抗や収縮の感覚を別に、「不自由」 だと固定化する必要は全くもってなく、、むしろ、そうした反応が起きているときでも、「今ここに出会う」 ということを一つ一つ徹底していく中で、、「自我」 のパターン化された傾向は (もちろん残り続けるものもありますが) 少しずつ姿を消していったりもするものです、、バイバイ( ̄ー ̄)

 

 

 

!!!びっくり

 

 

もちろん、「自我」 を消し去ることを目的にするなんてことは必要ありません、、

 

必要なのは、これまで、「不自由」 だと感じてきた感覚や出来事から 「逃れて」 どこかに 「自由」 を探しに行こうと奔走していた感覚から、どんなに 「不自由」 に感じることに対しても、逃げずに 「出会う」 ということによって、

 

 

それまで起きていた、「自由」 と 「 (不自由な) 自分」 の間の分離が希薄になり、エネルギー的な統合の様相を徐々に呈しつつ、非二元的なエネルギーの戯れがごく自然に起きるようになるというわけです、、( ̄ー ̄)ノ秘密

 

 

自由はここに在る!!!笑い泣き

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!お願い

 

 

 

 

剣道などで、守破離ということが剣道を極める上での修行の流れ?とされているそうです、、

 

 

守、、徹底的に 「型」 を身に着け、「型」 にハマった修行を続ける段階、、

 

破、、身に着けた 「型」 を徐々に破り独自の応用ができる段階、、

 

離、、「型」 の中にあっても 「型」 にとらわれず、自由自在に技を見出すことができる段階、、

 

 

 

さて、剣道の親は、「禅」 であるわけですから、禅においても、これと同様のことが言えるかもしれません、、お願い

 

 

事細かなマニュアルに則った修行が延々と続けられる中、、

 

はじめのうちは当然、その窮屈な 「型」 の中で不自由さを感じることでしょう、、ガーン

 

 

実際、この段階で、「型」 の中にあって、「型」 に抵抗するエネルギーを自我 (自己防衛性) と言うわけです、、プンプン

 

「型」 をまだ 「型」 だと認識し、それとの格闘を続ける段階はそれなりに続きますが、それでも、「型」 を徹底することを続けます、、

 

 

そのうちに、「型である」 ということ、「型」 の中に居ること、「型」 をこなすことに慣れが生じるとさほど、苦はなくなるとも言えるでしょう、、ニヤリ

 

 

しかし、ここで気を付けなければならないのは、「型」 の中に (しがみつきながら) 安住しようという、また別の自我のエネルギーが沸き起こってはいないかという点においては意識的である必要があるでしょう、、ダルマ

 

 

そうした段階を超えながら、徐々に意識が 「型」 を溶かすかのように、「型」 とその中に居たはずの 「個人 (の都合) 」 の感覚の間の境界線があいまいになり始めたりもするものです、、虹

 

 

もちろん、その都度、条件がそろえば、「守」 の段階に感じていたような不快さの感覚は必要に応じて現れてくることもありますが、それ自体、自然な自我の機能ですから、それを抑え込もうとする必要はありません、、

 

 

自我に気づけばまた、自我は規律を取り戻すということも気づき (観照) の力の中で充分に起こり得るものなのです、、富士山

 

 

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こうした禅の取り組みが教えているのは、、実際のところ、「自由」 とは、「型」 に抵抗し続け、「型」 に背を向けた形で、好き放題、「個人の都合」 にばかり則した形での 「わがまま」 な様相のことではなく、、手

 

 

むしろその逆で、、徹底した 「型」 への帰依、その中への三昧に伴って開かれる、「型」 を超え、「個人」 を超えた本当の意味での自由 (あるがまま) へのいざないというわけです、、ドア

 

 

ですから、日常の中で、私たちに一人一人に与えられた、相対的なレベルでの役割、、いわゆる 「型」 を徹底して生きることが、カギ

 

実は一見、窮屈で不自由な在り様に見えながらも、窮屈さの中でも縛られず、不自由さの中でも開かれて在るという受容性への転換を為し得る、ある意味でのキーであるということを思えば、時に、そうした 「型」 についてもプレゼントとも言えるものなのかもしれません、、

 

 

 

※Present、、ご存知のように英和辞典を引いてみると、、贈り物という意味のほか、現在、今、という意味があるんだZEN!!拍手

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!流れ星

 

 

 

 

 

 

 

というわけで、昨日の白隠禅師ついでに、お願い

 

白隠禅師の有名な逸話がいつ振りか思い出されたものです、、(↓)

 


 

 

あらぬ疑いをかけられた白隠禅師が、「ほう、そうか」 と言って状況を全面的に受容したという、とんでも話ですが、、滝汗

 

 

 

懐かしのOSHOおじさんのこちらの話をまさに体現したかのような禅師の逸話でした、、目

 

 

禅の人にとって、問題などというものは本当に何一つない。

 

なぜならば、彼は物事を見てはそれらの自然さを受け入れてしまうからだ。

 

「水は緑」 ----- どこに問題がある?

 

「山は藍」 ----- どこに問題がある?

 

花は花、とげはとげ ----- 物事はそのありのままだ。どこに問題がある?

 

 

イエスもノーも言わずにしゃんとしたままでいられるだろうか?

 

イエスやノーを言いたい誘惑に抵抗できるだろうか?

 

何の審判もせずに、ただしゃんと目を見張り、

 

それがそこにあるということに注目するだけでいられるだろうか?

 

 

それならば、あなたは鍵を手に入れている。それが禅の鍵だ。それはマスターキーだ。

 

それはありとあらゆる錠前を開けることができる。

 

 

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白隠禅師がしたような、あるいは、OSHOが語ったような 「受容」 など到底できるものではないというのも当然ながら起こり得る反応ですが、、手

 

 

実際には、、「今ここに徹底的に出会う」、「今ここを完全に生きる」 という、

 

いわゆる一行三昧 ( 「一所」 懸命) なり、一期一会のような、禅の基本にして、真髄というべきやり方で、日々を生きるということを続ける中で、、少しずつそうした 「受容」 の体感は意識の中で育ってくるとも言えますし、

 

仮に、「受容する」 ということがどうしてもできないことであっても、その瞬間その瞬間の 「場」 を生き続けるという上記のような禅的態度で在ることによって、

 

 

図らずも、「受容」 の門を開くことを可能にするという妙法が実は禅のアプローチの中に隠されているというのも注目すべきことであると言えるでしょう、、秘密

 

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!流れ星

 

 

 

最近はめっきり唱えることが減ってしまった、白隠禅師坐禅和讃、、お願い

 

その冒頭、こういう文言がありますねん、、ひらめき電球

 

 

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて

 

 

ま、ハリー的な超訳では、、

 

我々は皆、「個人」 を生きているように見えはするが、

 

実は全体の中の途切れのないダンスの中に在る

 

であるからして、そうした中で、「個人」 にとらわれてしまうと、

 

まるで、「水」 の中で悪戦苦闘する、「氷」 のような様相、

 

いわゆる、抵抗や滞りといった状態が一時的に起きることもあるものだ

 

とは言っても、我々が水であること、全体であることに何ら違いが生じるということがあるわけではない

 

 

 

ってなところで、、私たちの日々の中で、「個人の都合」 ばかりにとらわれ、それを押し通そうとするエネルギーの高まりに伴って、どういった状況や状態が起こり得るかは何となく想像ができるものです、、手

 

 

「水」 である我々の本性が、「氷」 のような様相を呈してしまうと、全体であるはずの調和自体から抵抗する形で、流れの滞り相まって、なかなか全体との同調が起きにくくなってしまうといったところです、、バイキンくん

 

 

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さて、この白隠禅師坐禅和讃の中には、実はこうしたエネルギーの固定化がトリガーとなって起き得る抵抗や滞りといった様相を見事に突破し、、虹

 

 

全体との同調へと帰還しつつ、有機的な相即相入のダンスを起こし得る、いわば、白隠禅師からの遺言と言うべきキーが現代のわれわれに示されていたりするのです、、カギ

 

 

それがその後に続く、、マカエンの禅定 (ぜんじょう) は 賞嘆するに余りあり

 

といった部分です、、マカエンというのは、いわゆる、大乗 (ウィンウィン) のことを指しており、「個人の都合」 だけにとらわれず、「その場」 に現れた、今ここの現れに対する徹底した帰依 (禅定) によって、

 

 

エネルギーは、「個人」 から 「その場」 全体、「抵抗」 から 「調和」 へとものの見事に昇華、あるいは、転換がなされるというものです、、ドア

 

 

食事に出会い、掃除に出会い、仕事に出会う、、

 

「個人的に」 好ましい状況や相手、出来事ばかりに執着しそれらばかりを良しとするのではなく、

 

どんな状況にも、相手にも、出来事にでも、「今ここで完全に出会う」 という禅定へと歩みを進める時、、

 

 

 

私たちは、白隠禅師が私たちに見せたかった景色を見ることができるのです、、富士山

 

それが即ち、、白隠禅師、ひいては、、禅が代々伝えて来た遺産というべきものを受け取るのです、、ダルマ

 

 

白隠禅師坐禅和讃の最終、、流れ星

 

当処即ち蓮華国 この身即ち仏なり、、チャンチャン!カエル

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!完了

 

 

 

ある時代の禅の師とその弟子が夜更けまで話をしていました、、

 

ようやく師は弟子にこう言う、、今日はもう遅い、帰って寝なさい、、( ̄0 ̄)ノ

 

 

その場を後にしようとする弟子は障子を開けるなりこう言う、、外はもう真っ暗です、、バイキンくん

 

 

すると師は、火の付いたろうそくを弟子に渡しました、、( ̄ー ̄)ノふんわり風船星

 

 

 

弟子がそれを受け取った瞬間、、師は、、、

 

 

それを吹き消しました、、(  ̄з ̄)丿フーーーー

 

 

・・・・!!!目

 

 

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さて、何度か紹介したことのある禅のこの逸話、、ひらめき電球

 

 

まさに、不立文字 (ふりゅうもんじ) よろしく、語らずのガイドとはまさにかくの如し、、拍手

 

 

私たちの一般的な価値観からすれば、「真っ暗闇」 に感じられるような場面において、

 

 

前向きな気持ちを抱きながら、希望を持って、明るい未来、ここではないどこかへ向かわせようとする励ましなどが依然として多く見かけられたりするものですが、、

 

 

もちろん、場面に応じてこうしたことを相手を思って投げかけることが功を奏するということはそれなりにあるかもしれませんが、、

 

 

ここだけの話、、笑

 

 

こうした励ましの類に代表されるようなガイドやアプローチは実は間違いです、、秘密

 

 

というのも、、前へ!前へ!と駆り立てることが実際には、その人を焦りと共に消耗や奔走へといざなう傾向がそれなりにあるということに加え、、実際問題、、あるのは、「前」 でも、「先」 でも、「 (明るい) 未来」 でも、「ここ以外のどこか」 でもなく、、

 

 

何の疑いの余地もなく、ありありと在る、「今ここ」 である以上、、「今ここ」 を外させるようなメッセージは、それがどんなに慈悲と思いやりに満ちたものであっても、正しさを語るものでは決してないのです、、手

 

 

 

というわけで、上記の逸話の禅師が指し示したように、、お願い

 

 

頼るべきものは 「ろうそく」 にあらず

 

向かうべき場所は 「どこか」 にあらず

 

 

ろうそくが消えて尚、煌々と照るものは何かを見がよい

 

偽の安心に飛びついたりはせず、ろうそくがあってもなくても、そこに在るものを灯とするがよい

 

向かうべき場所などどこにもなく、お主がお主であるところ、お主自らを為しているものをここに居てここで見つけるだ、、( ̄ー ̄)

 

 

、、とでも言っているかのように私には聞こえる夜長です、、笑

 

 

 

 

「暗闇」 の中でこそ、足元に意識を戻し、その場その場を徹底的に生きる、、あし

 

今居るその場から逃れてより良いどこかやいつかなど、どこにも存在することはなく、実際、「これまでも」、宇宙開闢以来、、そうしたものが存在したことは一度としてなかったのです、、流れ星

 

 

あるのは、いつもいつも、この瞬間、「今ここ」 だけ、、完了

 

宇宙はいつでも、「今ここ」 以外であることも、「今ここ」 の外側にあることもないのです、、

 

 

というわけで、禅とは、、宇宙 (今ここ) と一つになる道なのです、、お願い

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!合格 

 

 

日に日に、「月」 のエネルギーが満ちていくのを感じると、不思議といろいろなものが 「明るみにされる」 ということももしかしたらあるのかもしれません、、お月様

 

 

これまで隠されていたこと、目にも触れられなかったこと、あるいは、抑制と均衡を保ちつつも一見バランスがとられていたようなことの、ある意味で、タガが外れるかのような形で、、ガーン

 

 

豊かなエネルギーの戯れが、まったく予期しない、想像も及ばない在り様で現れ出るのを観じる毎度月のはじめです、、ニヤリ

 

 

 

ある意味では、こうした機会も、大なり小なり様々な観念世界 (習慣や思い込み) に安住する自我にとってはそれを解放する上での好機とも言えるものなのかもしれないと思いつつ、、OK

 

 

やはりそこでも、「あるがまま」 に起こる、個人の都合や恐れを超えて起こる出来事を前に、、

 

 

私たちがそれと向き合いつつ、エネルギーを昇華させる術として、「禅で在る」 ことが何よりの一助となるのやもしれません、、お願い

 

 

 

 

 

昨日の鈴木俊隆禅師の言葉にもあったように、カギ

 

どんな時でも、あるいは、どんな道であっても、牛や象のように 「今ここ」 に気づきながら、あし

 

きちんと一歩一歩を踏み締め、その瞬間を感じながら歩きつつ、その場を完全に生きるということ徹底すること、、(禅定)

 

 

何が現れているときでも、そこから逃れたり、その場を避けようとする感覚に流されず、「その場で在る」 ということを続ける中で、意識は徐々にこの力 (禅定力) を養いはじめます、、富士山

 

 

「今ここ」 から引き離そうとしたり、どこかに身を隠そうとする反射的な自我が (習慣的に) 反応したような場合には、、自然とその様相を見抜くようになり手放しが意識的に起きるようになるとも言えるかもしれません、、

 

ある意味では、意識の中で 「禅」 それ自体が生きるようになるのです、、ダルマ

 

 

懐かしのOSHOおじさん風ならこんな感じで、、ひらめき電球

 

あなたの中に、「禅」 を住まわせなさい、、( ̄ー ̄)b

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!流れ星