悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v


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悟りとは、、真実とは、、真理とは、、人生の目的は、、生きる意味は、、私たちとは何か、、

 

 

仮にこうした究極的な問いがあったとして、、

 

 

老子の言葉にこういうのがあるそう、、カギ

 

 

探すなら見失う、探さなければ見つかるだろう、、( ̄ー ̄)

 

 

 

・・・・(ノ)゚Д゚(ヽ)

 

 

なんとも探求者泣かせの言葉のようですが、、

 

これ自体は正しいことを語っている反面誤解が起きやすいのは、、

 

 

探してはいけない、と言っているわけではないということであって、、

 

 

 

事実をただ述べているポインターであると言って良いでしょう、、OK

 

 

 

即ち、、「探す」 ということ自体が、「今ここにはない」 という観念を強めてしまうため、、

 

 

 

あるいは、「探す」 ということのエネルギーが、、

 

「今ここ」 を離れて、必然的に、特定の 「答え」  を求めて、「どこか」 へ向かおうとするために、ランニング

 

「今ここ」 を見落としてしまうといった傾向がどうしたってあるからというわけです、、秘密

 

 

 

そうした傾向が常にある 「探す」 ということのエネルギー上の習性を見抜いて来た、

 

かつての教師たちは、、老子のようにこうした言葉で後世にポインターを遺したと言えるでしょう、、

 

 

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一方、、釈迦の悟りと、老子的地平の融合によって生まれたとされる 「禅」 という体系は、、

 

 

実にユニークなアプローチを構築したと言えましょう、、

 

むしろ、、これ以外に工夫のしようがないと言ってもいいほどのダイレクト感とシンプル感、、拍手

 

 

 

つまり、、「探す」 こと自体が 「どこか」 へとエネルギーを外してしまうのであれば、、

 

 

「今ここ」 に根差し、「今ここ」 に深まるというアプローチ、、ダルマ

 

即ち、、「今ここ」 を探すということに転換したというわけです、、お願い

 

 

 

もちろん、禅の彼らは、「探す」 などということは手放しており、、

 

そうした態度で日々の修行に取り組むわけではないのですが、、

 

 

修行の中で、、徹底して、目の前のこれしかないということを指し示され続けると、、カギ

 

意識が、「どこか」 という習慣的な傾向を徐々に手放し始め、、

 

 

 

これにより、「どこか」 に答えがあると思い込んでいた誤解が見抜かれ、、

 

今ここに目覚めるといった、いわば 「帰還」 が起きやすい仕掛けが施されていると言えるからです、、ドア

 

 

 

 

 

 

どこで、何を探していますか、、カエル

 

今ここ、、今ここ、、何度でも今ここです、、合格

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 


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人生を変えたい、今よりもっと素晴らしい自分になりたい、輝かしい未来を実現したい、、

 

 

 

さて、私たちの 「自我」 と言われる、防衛に根差したエネルギーというのは、、

 

その性質上、、不満足、不十分、非受容といった感覚をいともたやすく生み出します、、手

 

 

もちろん、こうした感覚がまったく悪いというわけではありませんが、、

 

 

 

少し立ち止まって、「変えたい」、「近づきたい」、「成し遂げたい」 とする、

 

 

その根本には何があるかを見てみる目を持つというのも、盲目的にそうした自我 (恐れ) に流されながら生き続けることを解放し得る、有意義な探求の機会になることもあるかもしれません、、OK

 

 

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というわけで、そうした感覚の背後に、、

 

 

「今」 から逃げ出したいという感覚、、「今ではないどこか」 にゴールがあるはずだという感覚、、

 

「今ここ」 ではまだ自分は不完全であるから未来のいつかに何かを成し遂げた暁にこそ、ようやく完全になれるに違いないという感覚があることにもし気づけたとしたら、、ひらめき電球

 

 

私たちにとって本当に優先すべきは、、人生を変えようとすることでも、素晴らしい自分になることでも、理想の未来を実現しようとすることでもなく、、

 

 

 

むしろ、今ここに現れている人生の在り様を、それ以外はないという体感で以て受け入れ、

 

 

どんな場面が現れているときもその場その場に根差しながら、富士山

 

その瞬間に自分が担う役割やポジションに徹底して入り込み取り組むことであると言えるでしょう、、─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ

 

 

 

実際、この体感自体が、幻想の 「どこか」 を溶解させ、「どこか」 に向かわなければならない 「個人」 の感覚の偽物性を見抜きはじめ、、

 

本当のゴールがどこにあるかということを自然と指し示し始めることでしょう、、合格

 

 

 

 

 

 

こうして私たちが、、受容と共に 「今ここ」 と同調するとき、、

 

ごくごく自然な変化、、つまり、、「どこか」 へ向かおうとして躍起になって変わらなければならないと駆り立てられていた感覚とは違った、、より内発的で、あるいは、生全体からの芽吹きのような形でのダンスが、虹

 

 

今ここに降り注ぐこともあるのです、、流れ星

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 


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進路選び、こと哲学に熱狂中な教え子と話をする中で、、

 

 

ひたむきな若者を見るのは微笑ましく楽しくもあり、さすがに余計なことを言う気にはなれませんでしたので 、、笑

 

 

 

余計なことはここでつづることにします、、笑笑

 

 

というわけで、たまのキーワード、、「哲学」 というやつ、、目

 

 

往々にして、悟り系のメッセージが一種の 「哲学」 であると誤解されるきらいはそれなりにあるものです、、注意

 

けれども、「哲学」 と 「悟りメッセージ」 はまったくの真逆であるとまで言っても良いかもしれません、、秘密

 

 

 

 

というのも、、「哲学」 というのは、「考える」 ことによって、「答え」 を導き出すアプローチであり、

 

「悟りメッセージ」 というのは、「考える」 ことでは、「答え」 には至れないと知っているといった点ににあると言って良いでしょう、、

 

 

 

実際、考えなければ 「答え」 に辿り着けないとする前提には、、

 

「答え」 は探し出さなければならない、「今ここにはない特別なもの」 であるために、、

 

 

必然的に、「どこか」 を目指して 「今ここ」 を離れるアプローチ、、すなわち、、「迷い」 の中に進んで入っていくということが必要になります、、ランニング

 

 

 

一方、、「考える」 ことを放棄し、、「答え」 は見つけ出さなければならないものではなく、、

 

「答え」 を覆い隠して、見えにくくしているものを取り除くことで自然とそれは姿を現すものだという前提に根差しているアプローチでは、、

 

 

「どこか」 があるという誤解を徹底して打ちのめし、真正である 「今ここ」 にのみエネルギーを注ぎます、、ダルマ

 

 

 

そう、、「答え」 は 「目指す」 ものではなく、、そこに 「還る」 ものだということです、、カエル

 

 

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「どこか」 へ出かける必要がなくなれば、、「迷う」 必要も、「迷い」 の存在も必要なくなります、、富士山

 

 

そうなると、在るのは、明白でありながも分かり得ない、それでいて圧倒的に確かな 「今ここ」 であって、

 

どこにも行かなければ、そこですでに辿り着いているということを徐々に見出し始めるというわけです、、合格

 

 

 

 

 

というわけで結論、、悟りとは、、哲学 (迷い) から目覚めることなのです、、完了

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 


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悲しいとき、不安を感じるとき、恐いとき、怒っているとき、、えーんショボーンガーンムキー

 

 

こうした、相対的には 「ネガティヴ」 とされるエネルギーを感じたとき、、

 

そこから離れ、気を晴らしてくれそうなものの中に 「逃げ込もう」 とすること自体は、ランニング

 

 

自我の自然な防衛性による反射作用のひとつですが、、OK

 

 

 

この 「逃げる」 という動きに伴って、、

 

本来分けられない感覚が、疑えない形としてさもそこにあるように固定化され、

 

そうした状況を抱える 「個人」 というストーリーの実体性を強化することは事実です、、秘密

 

 

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ですからもし、、そうしたあるがままの感覚に 「抵抗」 し、そこから逃げ出そうとする様子に気づくことができたら、、

 

あるいは、その様子を 「見る」 ことができたら、、私たちにとって新しい可能性が開けてくるかもしれません、、ひらめき電球

 

 

 

安易に、「逃げ出す」 ことへ無自覚に流されたり、不快な感覚を 「別の何か」 に作り変えることに躍起になろうとするのではなく、、手

 

ただ 「そうであること」 を許すことことができるかどうか、「抵抗」 する様子を手放して起きているエネルギーの動きをそのまま見つめられるかどうか試してみると良いでしょう、、目

 

 

悲しいときは、、悲しみと一緒に居る、、

 

不安なときは、不安に寄り添う、、

 

恐いときは、恐怖を見守る、、

 

怒っているときは、怒りを否定しない、、

 

 

 

こうして、、「そのままである」 ことを許し、受容することによって、、悲しみや不安や恐怖、怒りに、、「光」 が差し始めるのです、、虹

 

 

 

 

「何かをしようとする」 ことによって、「求める」 ことによって得られるものだと一般的に誤解されている安堵は、、

 

実は、何もしないとき、何かを求めようとしない時に、不意に降り注ぐこともあるものです、、流れ星

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 


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私が折に触れて、「緻密さの結晶」 と称する、曹洞禅の生みの親、、

 

道元禅師の留学時代の逸話、、お願い

 

 

 

中国に修行にやって来た道元さんは、、釈迦の真の教え (正伝の仏法) を知りたいと、、

 

様々な寺院、高僧を訪ね回るが、なかなか自らが納得する答えは得られない、、チーン

 

 

 

そんな中、、ある日の炎天下の折、、とある寺院の隅で海藻を干していた老僧と出会う、、

 

 

というわけで、いつもハリーアレンジで参ります、、OK

 

 

あまりの暑さに老僧の身を案じた道元は思わず声をかける、、

 

 

 

もし!ご老僧!!何故、あなたほどの年齢の方が、もっと若い僧侶にやらせればいいものを、、

 

このような炎天下の中、、食事の準備などをしておられるのですか??滝汗

 

 

 

おや?異国の方とお見受けする、、( ̄ー ̄)

 

なぜ私が料理をするとな??

 

私がやらずに誰がやるというのかな??


 

では、ご老僧、、何故、、こんなにも暑い日照りの中であえて作業をなさるのですか?滝汗

 

 

「今」 やらずにいつやると言うのかな?( ̄ー ̄)v

 

 

・・・・ポーン

 

 

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こうした経験から道元は、、帰国後、、永平寺開山の際、、

 

食事の支度をする役職を重んじ、、修行の中の大事なポジションとして据えたそうな、、

 

 

 

さて、この老僧の体感は、、まさに、今ここを受け入れ、今ここに帰依していたものであったと言えるでしょう、、合格

 

 

 

 

というわけで、相対の私たちは、、往々にして、、「今のままでは充分でない」 と感じてしまうきらいがあります、、えー

 

ジョーンさんの観点からすれば、、これは、分離した断片と同一化しているための産物的なエネルギーの様相であるとのことですが、、

 

 

 

この無意識的な個体性から来るエネルギーの振動に無自覚に流されると、、ランニング

 

今ではないどこか、今にはない何か、今ここ以外ものを求めるといった反応が常に付いて回ります、、うずまき

 

 

 

これによって起きているエネルギーの動きは、、あるがままの 「今ここ」 に対する抵抗であって、

 

この抵抗の様相が、、「今ここ」 と 「私」 の二元対立をより一層強化し、全体性 (今ここ) との同調において見かけの上での障害になり得るものであると言えるのです、、秘密

 

 

 

ですから、先の老僧のように、、

 

自らの置かれた 「ポジション」 にひたすらに取り組むこと、、─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ

 

 

これ以外の何かはなく、ここ以外のどこかはありはしないのだということにしかと目覚めて、今ここを受容するとき、、あるいは、この帰依 (明け渡し) の体感に相まって、、カギ

 

 

私たちは 「今ここ」 と調和的に同調し、「今ここ」 に溶け去り、本来の姿、「今ここ」 へと還る道を見出すことができるのです、、ドア

 

 

 

 

 

 

 

今ここ以外を生きることを徹底して手放し、今ここ (真実) のみを相手にし、

 

真実 (宇宙) とひとつになる生き方、、これをと言います、、ダルマ

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 


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その昔、ある一人の教師が、、自分の周りに集まって来た人々に、、

 

 

自分の教えは、「いかだ」 のようなものだと思いなさい、、と言っていたという、、船

 

 

まぁ、ハリーアレンジ曰く、、こんな感じに、、笑

 

 

 

もし、皆が、、向こう岸に渡る術を探していたとき、、( ̄ー ̄)

 

 

自らであれこれ試行錯誤をするものも段階の中では大切だろうし、

 

もし、そこに私の用意した、「いかだ」 があったのであれば、それを使うのもいいだろう、、

 

それを使うことで、困難を克服する場面があるように思えたら、

 

 

惜しみなくそれを使うがいい、、私は喜んでその 「いかだ」 を差し出そう、、

 

 

 

けれども、もし、渡り終えたのであれば、、

 

「いかだ」 に執着していけない、、「いかだ」 は所詮 「いかだ」 だ、、

 

 

必要なくなる時が訪れたなら、、「いかだ」 を手放し、歩き進めるがいい、、

 

「いかだ」 を手放しても、それが、例え、「私」 を捨てることになっても、、

 

 

私は皆を責めたりなどはしない、、むしろ、、喜んでそれを祝福しよう、、

 

 

なぜなら、、皆の教師は、、私ではなく、、私の教えでもないからだ、、

 

 

皆にとっての 「真の教師」 は、、皆自身であることを覚えておきなさい、、

 

私にも、私の教えにも、すがり続けたり、執着しすぎてはいけない、、

 

 

皆自身の明かりを頼りにし道を照らして行くのだぞ、、( ̄O ̄)b

 

 

 

 

というわけで、最後のが大ヒントになってしまいましたが、、

 

 

大分ハリーアレンジは入ったと言え (笑)、、このようなスタンスで弟子たちと関わり、、

 

自灯明 (じとうみょう) という遺言を遺したまさにその人物こそ、、

 

 

そう、、釈迦だったと言います、、秘密

 

 

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というわけで、、様々な仏教の宗派にあって、、

 

 

禅の立場はある意味で、、「特異」 であるとは言えるかもしれません、、ひらめき電球

 

 

実際、過激な禅僧で知られる臨在禅師は、、求道の道の途中で、、

 

仮に仏のような神々しい存在に出会ったとしても、、迷わず、それを 「殺せ」 とまでポイントしたとされていますし、、

 

 

つまるところ、外側の対象に意識を捧げて、自らの内にある真正さを顧みない態度を厳しく戒める意図があったのかもしれません、、

 

 

 

禅の彼らは、釈迦にも頼らず、釈迦の悟りすらも捨て去り、、仏像にもすがらない、、

 

ただ、あるがままの自分で、目前のリアリティ (今この瞬間) へ帰依するということにダイレクトに捧げます、、─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ

 

 

これがある意味で、、それ以外ない真実 (今ここ) を照らす生き方であり、、悟りを実践し続ける態度でもあると言うわけです、、虹

 

 

私に禅を教えてくれた禅師が言っていた、、「真実を生きる」 というのは、、まぁざっとこんなところです、、完了

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 


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苦しみの構造は、様々な観点から見てみることはできるわけですが、ひらめき電球

 

 

 

例えば今回はこんな感じで、、

 

あるがままの物事が現れていた際に、、それとは違った形で、物事を思い通りにしようとするとき、プンプン

 

 

あるがままとの間に二元的な摩擦や抵抗が生じ、、

 

体感的には、大なり小なり、「苦しみ」 が生じることになります、、ランニング

 

 

 

これはある意味で、「我がまま」 とはよく言ったもので、、

 

全体的なあるがままを 「自分の思い通りにしようとする」 ための、「個人」 のエネルギーであると言えるでしょう、、秘密

 

 

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もちろん、この感覚が起きているからと言って、全くもって 「悪い」 ということでは決してありません、、

 

「個人」 もまたエネルギーの形としては、全体の中の豊かなダンスの一つです、、OK

 

 

 

けれども、、私たちが意識的になるとき、、ダルマ

 

 

つまりが、、「今ここ」 にあるものから離れて、「今にはない」 ものに意識がまやかされそうになるその様子に気づくことができるとき、、目

 

 

そうした、摩擦や抵抗、、苦しみや個人といったエネルギーの 「誤解」 を解くことのできる可能性が徐々に開けてくることもあるものです、、合格

 

 

というわけで察しの通り、、「個人」 の感覚を緩ませるわけですから、、

 

これが 「個人」 から起こるわけではないなどと非二元のメッセージで言われるのはこのためです、、秘密

 

 

 

 

 

 

「思い通りにしようとする」 その様子に気づき、、もう一度、今居る場所、今あるものに気づきを向けてみる時、、カギ

 

今を受け入れる可能性、、今ここに抵抗するのではなく、今ここを信頼し (明け渡し) それと共に生きていく可能性が自然と見出されてくることもあるかもしれません、、虹

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 


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女優の杏さんのとあるCMで、禅について語られているくだりがあり、、こちら♪

 

 

とある外国人が尋ねます、、おとめ座

 

(坐禅って) 何をするの?

 

 

それに対し、、

 

宇宙とひとつになるのよ♪

 

と、杏さん、、拍手

 

 

 

個人的には、一時、、宇宙と手をつなぐ、、などと表現していた時分もあったかと思いますが、、

 

 

まぁ、坐禅にしろ、禅にしろ、、

 

それを、「宇宙とひとつになる」 と形容した様はなかなか的を射ているように思います、、目

 

 

 

 

「坐禅」 というのは、、動かずの禅の実践であり、静中 (じょうちゅう) の工夫などとも言いますが、、

 

動かずの 「坐禅」 に留まらず、、動きの中での今をもてなす態度もまた、、

 

 

動中 (どうちゅう) の工夫などとも言われ、、禅の二本柱のひとつでもあるものです、、ダルマ

 

 

 

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私たちが、「個人」 と呼んでいるもののエネルギーの性質は、、

 

 

主に、、「どこか」 を目指し、「今ここ以外」 の何かを求める傾向であると見たとき、、

 

このエネルギーをいなし、今この瞬間の、目前のリアリティのみを相手にし、そこに根付く態度こそ、、

 

 

禅が強調する、、「真実を生きる」 というところであると言えるでしょう、、合格

 

 

 

もちろん、禅をまとわなくても、私たちが絶対的に今以外に居るということは不可能である以上、、

 

私たちが、真実でないことは一瞬たりともないわけですが、、

 

 

 

真実の中にあって、真実を見落としている、、あるいは、真実でないものに魅了されているといった様相が、ある意味で、奇跡的に起きているために、、グラサン

 

 

相対の世界で、この誤解を見事に突破する実践法ということにおいて、、

 

 

禅の体系が伝える確実性は、まさに秀逸と言うべきほどに感嘆するアプローチであると言えるのです、、カエル

 

 

 

 

ま、何にせよ、、今この瞬間の、目前のリアリティ以外の真実などどこにもありはしないという大前提にあって、

 

 

今在る 「今」 と一緒に居ること、、今在る 「出会い」 に丁寧に向き合うということが、、

 

私たちの本来的、宇宙 (今ここ) との同調と調和を生み出し、、虹

 

 

 

真実それ自体 (今ここ) への帰依に伴って、、私たちを初めからある自然さの中に帰還させるのです、、ドア

 

 

 

 

 

今以外の何かを求めますか? 今あるものと一緒にいますか?

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 


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というわけで、先の台風の通過に伴い、、台風

 

我が家の雨どいが豪快に破損しました、、ガーン

 

 

 

こうした不意の出来事に際して、、様々に思考は誘発するものです、、えー

 

あ~台風の進路がいつもと違ったからな~、、

 

もともと古かったからそういう時期だったのかな~

 

修理に一体、いくらかかるんだろう、、

 

業者を呼んで見積もりを取ってもらわないと、、

 

まったくもってまったく~~、、Oo。。( ̄¬ ̄*)

 

 

ってないろいろ、、笑

 

 

 

さて、ここで、ティーチャー、ジョーンさんの文章がふと思い出されました、、ひらめき電球

 

 

苦しみが生じると、その見かけ上の問題について考えるという形で私たちは習慣的に反応します。

 

起こったことについて繰り返し考え、名前をつけ、それについてのストーリーを作り、分析し、

 

誰かの責任にし、批判し、未来の肯定的なシナリオと否定的なシナリオを想像し、解決策を探します。

 

 

「こんなのは耐えられない。もっとひどくなったらどうしよう。もう駄目になりそう。

 

 なんでこんなことが私に起こるの? 私にあんなことをするなんて信じられない。

 

 不公平よ。私は本当にばかだわ。なにひとつまともにできないんだから。

 

 もしああだったらどうなんだろう? あれさえこうだったら・・・・・、たぶん私がすべきなのは・・・・・・」 と。

 

 

 

こうした思考のすべてに、風や雨の音を聴くときと同じように、

 

個人とは関係のない自然の出来事として耳を傾けることはできるでしょうか?

 

思考を手放し、注意をストーリーから今この瞬間のそのままの現実--------

 

身体の感覚、車が行き交う音、今ここに居るという感覚--------に戻すことはできるでしょうか?

 

 

概念とは関係ないエネルギーとしての今この瞬間の裸の現実があるとき、

 

苦しみに何が起こるでしょうか?

 

 

自分の人生というストーリー全体が見かけほど確かなものではないこと、

 

思考と想像がなければ苦しみも不幸も維持できないということを発見するかもしれません。

 

(ジョーン・トリフソン)

 

 

 

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というわけで、今回の出来事も、自分がそうした 「見かけ」 に対する、、

 

「ストーリー」 を勝手にこしらえ、その 「ストーリー」 が正しいと思い込むあまり、、

 

自分で形作った 「ストーリー」 以外のものが見えなくなってしまう、、グラサン

 

 

つまるところ、、何が、「あるがまま」 のリアリティを覆い隠しているのかということが徐々に見抜かれると、、

 

 

思考の強迫的な言い分が、自我 (の恐れや都合) を満たすために、どこかへ行き場を求めようとする単なる 「抵抗」 にしかすぎないということが観え、、

 

そのダンスの健気さを感じつつも、、徐々にそうした思考は 「気づき」 の光の中で溶解し始め、

 

 

それを手放す可能性というものが自然と見出されてくるものです、、虹

 

 

 

そして、そこにあるのは、、ストーリー以前のリアリティ、、「破損」 でも、「問題」 でも、「面倒」 でもなく、、

 

「ただそうであること」 だけです、、カエル

 

 

それこそが、今この瞬間のあるがままのリアリティ (裸の現実) を 「見る」 ということであり、

 

ここから行為が生じる時、、無理のない範囲で、、あるいは、ストレスを感じさせることなく、、

 

 

 

必要なことが穏やかな流れとなって起き始めてくるものです、、ドア

 

 

 

というのも、ここにおいて、、流れに対して、唯一抵抗していたエネルギー、即ち、

 

ストーリーを信じることで浮かび上がっていた個人の感覚 (ストーリーの中に居る 「誰か」 という登場人物) が解放されているからでもあります、秘密

 

 

 

 

 

 

 

※というわけで、明日屋根さんが来ます、、日本国旗

 

今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 


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さて、私たちの、根本エネルギーというべき 「恐れ」、、

 

 

この 「恐れ」 こそ、私たちを、「個人」 たらしめている最たるものであると言えるでしょう、、

 

相対の私たちは、、「恐れ」 の対象から身を守り、生命を維持する機能として、、

 

 

 

「恐れ」、、悟り系的に言えば、、自我、、

 

私で言うところの、、「自我性」 というプログラムと共に日々生きていると言って良いでしょう、、目

 

 

これは、生存のためには欠かせないプログラムで、これがあることによる恩恵は計り知れないものがあります、、お願い

 

 

けれども、、生命を守るというのが、第一の目的でありながらも、、

 

 

私たちは、、成長の過程で、、「不愉快」 だったり、「不快」 だったり、「面倒」 だったりと、、

 

できれば、出会わずにやり過ごすのが望ましい出来事に遭遇したりした際なども、、

 

 

 

この自我性は、、「自分」 を守るためにと、その精巧なプログラムの限りを尽くして、、

 

私たちを、その対象から遠ざけよう、、あるいは、その後に同じような出来事や相手に遭遇した際には、、

 

 

 

何を置いてもまず、それを 「避ける」、そこから 「逃げる」 という反応を瞬時にできるように、

 

私たちの 「観念」 の中に刷り込みを行うのです、、パソコン

 

 

 

ですから、、「避けたい出来事」、「遠ざけたい相手」 に遭遇した際には、、

 

条件づけられた、あるいは、習慣的で、観念的な 「恐れ」 が体感を鈍らせ、、「対象に出会う」 ことを拒否するといった反応を見せるわけです、、手

 

 

-----------------------------------------------------------------------------------

 

 

もちろんこれは、、こうした反応が 「悪い」 ものだから、「恐れ」 を滅し、自我を超越した形で生きられる自分を実現しなければならないといった話ではありません、、注意

 

 

繰り返しになりますが、、「恐れ」 は、私たちにとって、欠かせないプログラムであり、、

 

もっと言えば、、こうした反応のすべてが、、ごくごく自然な生のダンスであるということに他ならないわけですから、それを否定する必要はまったくなく、、

 

 

 

それを躍起になって、なくすようにしよう、起こらないようにしようなどとしてしまうと、、なおさらに苦しむことになります、、もやもや

 

 

 

というわけで、、「恐れ」 との上手な付き合い方ということですが、、

 

 

先にも言ったように、、「恐れ」 は生命維持の防衛機能としては、、必要なものであるという前提を踏まえつつ、、

 

大切なのは、、そうした 「恐れ」 を無自覚に野放しにしているという点に目を向けることです、、ひらめき電球

 

 

 

 

習慣的に一定の形を成した、私たちの自我は、、

 

出来事に遭遇すると瞬時に反応を開始するわけですが、、、その反応をある意味では、、利用するというわけです、、カギ

 

 

 

つまりが、、体感的に、、「離れたい」、「避けたい」、「逃げだしたい」 という反応が感じられた時、、

 

その瞬間の 「出会い」 から目を背け、、「出会い」 を拒否しようとした様子に気づいた場合には、、

 

 

 

それがもとは、防衛に基づく生命維持の反応であるとは言いながらも、、おばけくん

 

冷静に状況を見てみれば、、命に関わるような大事は実は見当たらず、、OK

 

 

習慣の中で条件付けられた、単なる、「条件反射」 のようなものに過ぎないということが気づきと共に明らかにされ始めると、、

 

 

私たちは、、そうした習慣的な恐れを手放す可能性を徐々に見出し始めます、、虹

 

 

 

 

 

そして、習慣的には、避けていた出来事や、遠ざけていた相手に対して、、

 

「出会う」 という選択が自然と起こることもあるでしょう、、─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ

 

 

 

これは、「恐れ」 の対象から逃げることで起きていた二元的な分離の溝を、、

 

相対のレベルから、非二元的な統合へと転じてくれる、シンプルにして、見事とも言うべき、、禅の知恵でもあります、、ダルマ

 

 

ここにおいて、、「恐れ」 は受容され、その受容性の中で次第に溶解されていくことでしょう、、合格

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございました!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

今月もどうぞよろしくお願いします!

 

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