悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

 

寒くなったので、OSHOのある瞑想への誘導を思い出す、、ひらめき電球

 

 

さあ静かに・・・・・・

 

目を閉じて・・・・・・そして自分の身体がすっかり凍りついたと感じる

 

今こそ内側へと入るときだ

 

自分のエネルギーのすべて 意識のすべてを集めて 自分の存在の中心に突き進む

 

それはへその下五センチ 身体の内側にある

 

早く もっと早く まるでこれが自分の最後の瞬間だという切迫感をもって

 

深く もっと深く

 

自己の存在の中心に近づくにつれ 大いなる静寂が降りてくる

 

そして平安の花々が自己の存在の内側に花開く

 

その真ん中に炎がある-------あなたの生命の火だ それは全<存在>の一部だ

 

この炎は 象徴的に 悟った意識 ブッダと呼ばれてきた

 

それはあなたの固有の本性だ

 

あなたはいなくなり ただ純粋で境界のない意識だけがある

 

今こそそれを観照するのにふさわしいときだ

 

観照しなさい あなたは身体ではない

 

観照しなさい あなたはマインドではない

 

観照しなさい あなたは観照者であり ただ純粋な意識だ

 

その中に安らぎなさい・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

というわけで、これでもなかなか良質の瞑想に誘導してくれそうですが、

 

ハリー考案の瞑想もお時間あればお試しください、、寒さには打ってつけです!炎

 

 

 

というわけで、先のOSHO同様、、背筋を伸ばし、意識をハラへと向けつつ、、

 

そこに小さい拳ほどの空間をイメージ、、その空間に、小さな炎が灯る様子をイメージする、、

 

 

ゆらゆらと漂い始めた炎は少しずつ少しずつ大きくなり、身体の内部を徐々に覆いながら、

 

さらには、身体と外界との境界線がどこかわからなくなるほどに広がっていく、、

 

 

その最中、自然とわいてくる思考や感情、思いを感じたらそれらを観照しつつ、

 

同時に、あなたの炎でそれらを燃やし尽くしてしまいましょう、、メラメラメラメラメラメラ

 

 

暖かくも力強い炎をハラをセンターとして感じて下さい、、OK

 

 

 

 

 

あ、別にあやかっているわけでは、、笑

 

 

もちろん、気づき (アウェアネス) においては、煉獄さんばりの括目は何といっても大事です!

 

目を瞑っていても括目する!これがある意味で瞑想のコツと言えばコツです、、OK

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!流れ星

 

 

さて、いわゆる誕生日を迎えつつも、近年はしばしば自分の年齢を忘れてしまうようになり、母親に確認した次第です、、笑

 

 

※ちなみに、山田孝之くんや伊藤淳史くん、嵐の二宮和也くん、松本潤くんらと同学年ですが、、あとは、ぺこぱの松陰寺さんも、、笑

 

 

こういうわけですから、いかに、「年齢」 というものが便宜的なものであり、仮の指標に過ぎないということは明らかです、、それが絶対的なものであるならば、忘れるなどということができないはずですから、、

 

 

けれども、いくら年齢を忘れても、やはり忘れらないものがあることに気づきます、、(毎度のことながら、、笑)

 

 

 

そうです、、自分は、38歳だと一応は 「思って」 はみても、、それが真実であるかは本当のところではわかりません、、自分が生まれた年が免許証などに記載され、身内がそのように記憶しているだけで、それが本当なのかどうかはそれを信じようとしなければ実際にはその真偽は分かり得るものではないのです、、

 

 

けれども、、信じようと信じまいと絶対的な確かさで知っていることは、、自らが 「今ここに在る者」 だということ、さらに言えば、「今ここ」 であるということ、、

 

このことは、自分が38歳かどうか信じたり、思い出したりする手間さえ一切なく、それが真実であるということは瞬時に認識できます、、むしろ、これ以外の真実が他にありようがないというほどに完全に明らかです、、カエル

 

 

 

 

 

とういわけで、同い年の彼にあやかり、、本当に38歳って!?とも言い切れいない!年齢を忘れたって悪くないだろう!!笑笑

 

 

というわけですから、、このまま歳をとり続けても、、「今ここ」 が途切れることも、これ以外の何かが現れることもおそらくはなさそうです、、じいさんになっても、はたまた死して尚、今ここがよもや覆るなど、、それこそよもやよもやだ、、笑笑
 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!バースデーケーキ

 

 

 

ある夜、煉獄さんが自身の足の速さを得意げに話す鬼に対して言った一言、、

 

 

過信は良くない!炎

 

 

 

実際その鬼は、自らの過信が油断につながり、煉獄さんに首をはねられてしまったのだった、、ナイフ

 

 

 

 

さて、悟り系スピリチュアルで言われる、自我 (恐れ) というのは実際のところ、観れば観るほどに興味深いエネルギーです、、ひらめき電球

 

恐れ故の執着性、所有性という粘着性に端を発し、あらゆるものを自身の一部として取り込み、さもそれらを所有する個体生命があるという幻覚を私たちに見せるだけでなく、その見事なトリックはそう簡単には見破られないものです、、

 

 

ひとたび、「自分」 が人間であり、男 (女) であり、○○という名前を持ち、□□という身内や知り合いが居て、自らの住まい、地位や信念など、、無意識のうちに私たちはそうしたものを 「自分」 を形作る枠としてかたどり、それら観念が本当は一時的且つ便宜的なもので、実は幻想に過ぎないということになかなか気づくことはできません、、

 

 

何せ、私たちは、目の前にあるコップひとつ、、それが本当は 「コップ」 ではなく、名前の付けられぬあらゆるものであるということを、こんなにも近く手の届くところにあるにもかかわらず見落としてしまっていると言えるでしょう、、

 

 

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というわけで、今回の 「過信」、、当然ながら、自信を持ち過ぎて今ここをあなどるようなニュアンスでありながら、物事を信じ込みすぎるといったような意味合いもあるわけですが、、いずれにしても、

 

 

過信は良くない!炎

 

 

まさにその通りで、自信を持つことは不安や心配に駆られ不健全な自我の空回りから見ればある意味健全であるとは言えつつも、それでも、それにしがみつき執着してしまえば、築き上げてきた自信もまた単なる足かせと言うべき重荷でしかなくなってしまう場面も往々にしてあります、、

 

 

自信にすがるあまり、その場で初めて起きているはずの出来事に対して、過去の記憶から来る今ここにないやり方で出来事に相対すれば当然ながらズレというものが生じるのは必至です、、

 

 

そうではなく、自信は自信として感じながらも、、それに寄りかかり過ぎず、あくまでもそれを片足として、もう一方の足でその場にしかと根差し踏み出すことで、今ここの真正なエネルギーが降り注ぐこともあるものです、、、流れ星

 

 

ま、というより、これが特別な何かであるわけではなく、邪魔しているものを取り除くことで初めからある本来性が姿を現すと言った方が正確かもしれませんが、、OK

 

 

 

 

 

 

てか、一口、一口にうまい!うまい!と今ここの一期一会を体現する煉獄さんには脱帽この上なしです!鬼狩りでなければ、ぜひとも禅僧になって頂きたいものです、、お願い

 

 

 

※というわけで、今年も無事誕生月を迎えられました、、カエル

 

今日も読んで下さり、ありがとうございます!バイバイ

 

 

気づけば秋風が爽やかで心地よく、夏のほてりが癒されるのを感ずるこの季節は私のお気に入りです、、照れ

 

 

さて先日は、ご多分に漏れずひそかに無限列車に乗車中でありました、、ナイフ

 

テストを前に控えた生徒たちには、全集中!心を燃やせ!!とここぞとばかりにあやかりまくった私でしたが、、炎

 

 

 

そんなこんな今回、うむむ!!!と合点がいったのは、、ひらめき電球

 

炭治郎の夢のシーン、、死んだはずの家族と幸せに暮らす場面、、しかしそれを夢だと知るや否や、、後ろ髪が引かれる中それでもそれらを振り払い自らの生きる道 (リアリティ) へと歩み出したシーン!!( ;∀;)拍手拍手拍手

 

 

しばしばスピリチュアルでは、「良い気分」 がする方を選ぶべきとした教えが聞かれたりしますが、、「良い気分」 がする方というのは、往々にして、自我にとっての単に 「都合が良い方」 に他ならず、結果として、自我が 「良い気分」 の陰に隠れて本来の流れを見過ごしてしまうきらいもあるため注意が必要です、、注意

 

 

というわけで、今回の炭治郎の自我への反逆はまさに禅的な生き方を学ぶ者にとって素晴らしいテキストになり得る見事な手放しだったと言えるでしょう、、合格

 

 

 

 

 

あ、ここぞとばかりに煉獄さんに捧ぐ過去記事、、お願い

 

 

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!

 

 

 

 

愛でていても花は落ちる、嫌いでも草は生える

 

 

とした、道元禅師の言葉もありながら、、

 

先日久々に登場の鈴木俊隆禅師の逸話の中で私が気に入っているものの一つが、、合格

 

 

アメリカで禅を指導していた禅師のもとを訪れていたとある学生、、

 

博士論文を執筆中に、自宅近くにあった禅堂を訪ねては度々坐禅に参加していたそう、、

 

来る日も来る日も論文を仕上げなければならないプレッシャーと格闘する中気づけばその日も禅堂で坐禅をしていた、、

 

そんな彼を見かけたある日の禅師は、彼のもとに近寄り彼のアパートを指さしながら一言こう残した、、

 

 

「あそこに居て、論文を書きなさい」

 

 

 

 

 

 

 

というわけで、私たちが困難や面倒、億劫なことや、やっかい事などに遭遇したりする際、、ガーン

 

 

私たちの自我は往々にしてストレスを感じ、何かしらの反発や抵抗を反射的に講じつつ、、できればそのことと向き合わないように、それが目に入らないような 「どこか」 へ逃れてしまいたいとするのが一般的な反応です、、

 

もちろん同時にこれはごくごく自然なこととも言えるものですからそうした反応自体が起きないようにと躍起になる必要はありませんが、、

 

 

先の道元禅師の言葉通り、、個人にとって都合の悪い出来事というのは、草が生えるのと同様に否応なしに、ある意味では、あるがままに起こるというのが常と言うものですから、、都合の良いことばかりや自分を安心させ満足させてくれる出来事だけを望もうとすること自体、単なる自我の独りよがりの抵抗の域を出ず、それを実現しようなどと躍起になることの機能不全性 (不自然さ)に意識的な私たちは気づくことができるはずです、、OK

 

 

草が生えるという当たり前の自然さに抵抗したところで、それでも草はみるみるうちに広がり、私たちの 「都合」 をいともたやすく侵食してしまいます、、(そこから目を背けたいとする気持ちが起きることは何ら問題ではありません)

 

 

然るにそこで大切になってくるのは、その場を置いて他のどこにも行こうとせず、ただその場に根差し、面倒でも億劫でも厄介であっても、その困難に一つ一つ取り組むということに尽きます、、ダルマ

 

 

逃れたところで、あるいは、目を背けたところで、そこから得られるのは偽りの安心です、、本当の安心 (大安心) は何が起きたにせよ、それと出会う、向き合うことによって見出されるものなのです、、というより、、逃げる必要がなくなった意識の在り様において、安心とは対極の何かなど消散する

以外にはありません、、バイバイ

 

 

 

 

 

※というわけで、明日は草むしり日和、、頑張るZEN!!ダルマ

 

今日も読んで下さり、ありがとうございます!流れ星

 

 

 

 

さて、虫の音が心地よくなり始めた季節、、

 

ふと何気なく、鈴木俊隆禅師の法話集をペラペラとめくっておりましたら、以前に読んだこんな箇所が目に止まったのでシェア、、バイバイ

 

 

 

迷うがゆえ、あなたの問題が、あなたにとって問題になってしまうのです。自分を失わなければ、いろいろな困難はあっても、問題は一切ありません。

 

問題の真ん中で座ります。あなたが問題の一部であるとき、あるいは問題があなたの一部であるとき、そこに問題はありません。あなたが問題そのものだからです。

 

問題とは、あなた自身です。もし、そうであれば、そこに問題はありません。

 

あなたの人生が、あなた自身の周囲の一部であるとき、言い換えれば、あなたが、今、ここで、自分自身に呼び戻されるとき、そこに問題はありません。あなたとは離れて、何かがあるという妄想の中にさまよい始めるとき、そのとき、あなたの周囲はもはや実在ではなくなるのです。

 

あなたが妄想に迷うときには、周囲もまた深い霧の覆うような幻想なのです。妄想の中にあるとき、妄想には果てしがありません。あなたは、いろいろな妄想の考えに次々に取り憑かれます。ほとんどの人は、妄想の中に生きています。そして問題を解決しようとして、問題の中に巻き込まれるのです。

 

しかし、生きるということは、問題の中に生きることです。問題を解くには問題の一部になること、問題と一つになることです。

 

 

 

 

 

って!?私が買ったとき千円もしなかったのに、めっちゃプレミアついてるやん!!笑い泣き

 

1・2共に、まさに現代版、正法眼蔵と言っても過言ではない究極のガイドブックですので禅に興味ある方はぜひぜひ!拍手

 

 

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さて、というわけで、「問題」 が起きたとき、それを 「私」 にとっての 「問題」 としてしまうから、「私」 とは別に存在する嫌な、「問題」 、その 「問題」 を経験しなければならない 「自分」 がこの世界に生み出されてしまうのです、、

 

 

すべては、思考のトリックです、、同じ出来事が起きても、それを 「問題」 とする人もいれば、特別 「名前」 を付けることなく、淡々とそれを生きる人もいるように、人各々の自我の度合いによって思考が本来、「名前無き事象」 を 「問題」 として固定化してしまうというカラクリです、、秘密

 

 

先の禅師の文章にもあるように、、あるいは、釈迦が、人生とは思い通りにならないものだと語ったとされるように、、人生そのものが本来、「問題」 とは無縁であるということは不可能であるわけですから、「問題」 が起こらないで欲しいなどと願ったところで、あるがままに物事は起き、去っていく定めです、、

 

 

ですから、困難なことが降りかかる時分においてさえ、「問題」 を経験する 「自分」 を生み出し、二元的な、「問題」 と 「自分」 の間の軋轢の中で苦しむのではなく、、進んでその 「困難」 の中へと歩みより、「問題」 と一つになるとき、、「問題」 と 「自分」 との間の分離的な不調和はなくなり、、ただ 「その場を生きる自分」、「今ここと共にある自分」 だけがあります、、カエル

 

 

そして、そのときそこにあるのは、「今ここ」 を受容した者だけに降り注がれる偉大な力です、、これを見出すことができたとき、恐れるものも、はたまた、「問題」 でさえ何一つないということに目覚めることもあるのです、、合格

 

 

 

あ、こんな記事も以前に書いてました、、参考までによろしければ、、ひらめき電球

 

 

 

 

※というわけで、先日車の故障により、4万円の出費、、オーマイプロブレム!!笑い泣き

 

今日も読んで下さり、ありがとうございます!流れ星

 

 

 

アメーバのおすすめ?機能で、3年前に書いた記事が上がってきました、、ひらめき電球

 

 

ふむふむ、、なるほど、、笑

 

 

 

 

 

今思えば大分青臭いですが、なかなかです、、笑

 

 

 

さて、そんなわけで瞑想について一言、、瞑想を始めたりする中でしばしば耳にする言葉に、、

 

「深い」 とか、「浅い」 とかいう言葉、、ビックリマーク

 

 

「深い」 瞑想が良くて、「浅い」 瞑想はまだまだだ的な、、

 

「深く」 瞑想とはどういうものか、どうやったら 「深く」 入れるか、、などなど、、

 

 

 

そんな折、以前人伝いに聞いた話を思い出しつつ、、ある禅僧が先のような話を相談された際、、

 

一言、「深いって何?」 と言ったそうな、、、完了

 

 

その話を聞いただけでも、軽く噴き出してしまった以前の私でしたが、その場に居たらきっと笑ってしまっていたことでしょう、、

 

 

 

即ち、、この禅僧の意図は察するにただ一つ、、「深い浅いもない、ただ今!これだけ!」 ということなのです、、カギ

 

 

瞑想をすること自体は、「今ここに在る」 という真実に根差した在り様に立ち戻らせるために必要なアプローチであるとは思いつつ、、様々な情報があれやこれやと飛び交うスピリチュアルのジャンルの中で気を付けなければならないのは、、

 

 

その情報やアプローチが、「今ここ (真実) を外すものではないか」 という点です、、合格

 

 

つまり、「より良き」 瞑想を追い求めようとして、理想とする 「深さ」 を実現しようなどと思えば思うほど、、「今ここに在る」 からは遠ざかるばかりで今ここ (真実) を見落とし続けるばかりであるということです、、「深い」 瞑想を求める気持ちが高まれば高まるほど一向に今ここ (真実) と一つにはなることはないのかもしれません、、

 

 

過去記事ついでに、一休禅師の歌もよぎりつつ、、お願い

 

生まれ子がしだいしだいに知恵づきて仏に遠くなるぞ悲しき

 

 

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ま、とは言いつつ、、よく言われる 「深い瞑想」 についての解説もある程度は必要な側面もあると思い少し書いてみると、、

 

これはある意味で、「今」 への帰還であり、溶解と言われるエネルギー的な変容の在り様です、、カエル

 

ま、と言っても、、何かものすごいものに変容するわけでも、次元?が上昇するわけでもありません、、

 

 

本来 「今」 そのものである私たちが、個体性の感覚が強まるあまり見落としていた在り様を思い出すといったもので、決して並外れてすごいというわけではないのです、、おいで

 

 

ま、よく見る例えでは、、海を泳ぎ回る魚が自らの故郷がまさに自分の居る大海であったことに気づくといったようなところのものです、、イルカ

 

 

個体性の感覚が常態化している私たちにとって、それがエネルギー的に溶解する在り様は時に心地よく、場合によってダイナミックな感覚すら感じられることもあるかもしれません、、これが冒頭から言う、瞑想における 「深さ」 の指し示すところだったりもするわけです、、

 

 

が、先にも書いているように、これは 「特別さ」 などでは全くなく、むしろこの上ないほどの 「当たり前さ」 と言うべきものであるわけですから、、これを 「求める」 ということ自体が完全なる真実への逆行と言っても良いわけです、、注意

 

 

 

ですから、瞑想においては、過去記事でも一生懸命書いているように (笑)、、ただ今ここに在るに徹すること、何かをしようとするすべての 「求める」 を諦め、何もしないことに明け渡すという練習をしてみると良いかと思います、、OK

 

 

マントラのような特別なアプローチを使わずとも、慣れてくれば、開始数秒のうちにクンダリーニというエネルギーの解放?循環?が起こるのが明らかに分かるようになります、、

 

ま、そうしたことが起こるのを例え認められなくても全くもってオーケーで、、瞑想の要諦は、「ただ今に在る」、これに尽きると言って良いのです、、ダルマ

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!流れ星

 

 

受け入れる、、とは、、ビックリマーク

 

 

ある意味で、「何もしない」 ことです、、完了

 

 

・・・・・!?びっくり

 

なななな、、何もしないって、何もせずにただそのままでいろってこと!?!?

 

 

 

と言われそうですが、、そうではありません、、バイバイ

 

「何もしない」 というのは、即ち、「抵抗」 が無いこと、、OK

 

 

ですから、例えば、風邪を引いたような場合に、、

 

風邪が引いたことに、あれこれ文句を言ったり後悔に暮れたりするのではなく、必要な対応を淡々と講じるというのが、ここで言う、「無抵抗」 であり、「何もしない」 ということなわけです、、おいで

 

 

即ち、風邪を引いたのであれば、普段より早く床に就き、消化に良いものなどを食し、医者から薬をもらい安静にしている、、これが、風邪を 「受け入れた」 在り様です、、お願い

 

 

 

ですから、ある意味で、「受け入れる」 というのは、禅的な、「今ここを生きる」 を実践しさえすれば自然とそれは体現されるというものです、、

 

というわけですから、、努めて、「受け入れよう」 ともする必要はないということです、、秘密

 

 

物事を 「受け入れる」 というのは、その瞬間その瞬間、自我に囚われそうな様相を手放し、その場に目覚め、今ここで出会うべき出来事、対処すべき物事に一つ一つ遠ざけようとするのではなく、進んでそれらを生きるということです、、あし

 

 

実際のところこの在り様が、真の意味での 「受容」 をエネルギー的に実現してくれます、、これにより私たちは 「本来の私たち」 であるところの、「受容性」 そのものへと帰還を果たし、思いがけない奇跡が満ちるフィールドが図らずも用意されることになるという格好です、、カギ

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!流れ星

 

 

というわけで、繁忙期を終えて、、バイバイ

 

ゆるり久々にブログでもと思いつつ、、

 

 

 

さて、この夏に扱っているとある高校生の英語の教材にこんなお話が載っていたのでほほー!と思い、シェア、、OK

 

 

ある小さな女の子は、いつも窓の外を眺め谷を越えて向こう側に見える綺麗で大きな家に憧れていたのだそう、、ラブ

 

日が昇ると向こうのその家はキラキラと輝き黄金の光を放っているように見えた、、チュー

 

いつしか大きくなったらあの家に住みたいと思うようにもなっていた、、照れ

 

 

そして月日は経ち、一人で出かけられるほどに成長した彼女は夢にまで見たその家へ行ってみようと自分の家を後にした、、あし

 

 

旅の道中、思った以上に遠くにあるがため何度か休みを取りながら、やっとの思いで憧れの家に辿り着いた彼女が目にしたのは、自分が夢にまで見た家とは似て非なるものだった、、ガーン

 

 

彼女の目の前には古びた大きな家が立っているだけだった、、

 

落胆に暮れる彼女がその場を後にしようと来た道を振り返ると、、道の向こうにキラキラと輝く家があることに気づく、、びっくり

 

驚いた彼女が歩みを進め徐々に近づいてみると、、その輝く家は、夕日に照らされて黄金に輝く自分の家だった、、笑い泣き

 

 

めでたしめでたし、、拍手

 

 

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といわけで、なかなかいい教訓を与えてくれているように思うこのお話、、

 

外側の輝くものを求めてはるか遠くへ出かけた先に見つけたのは、、実は自分は、「初めから輝く場所」 に居たというシンプルさ、、完了

 

 

今あるものがたとえ受け入れがたいものであっても、ただそれ共に在ること、それ以外を望む心が沸き起こってもその場をしかと見て、その場に根差しその場を生きること、、

 

ある意味でその受容の力が驚くべき変容を起こすカギになり得るということもあるでしょう、、と言ってもこれは、、どこかに行ってはいけないという意味ではなく、どこに居てもどこへ行ったとしてもそこが宇宙の唯一の姿、今ここであるということには他ならないわけです、、秘密

 

 

 

 

悟りを開き体現しているもっとも偉大な禅の師も、アドヴァイタの聖賢も、この絶えず変化を続けていて考えではつかめない出来事、つねに完全な今この瞬間の出来事と切り離された存在ではありません。

 

解放はとても単純で、とても簡単で、すぐに手が届き、無条件に自由です。それは、したいことをしたり、こうありたいという理想通りの人間になったり、他のすべての人たちを思い通りにしたりする自由ではありません。今ある通りの自分でただいるという自由です。

 

向かうべき場所もなければ何かになる必要もないというそのこと、私自身何度も繰り返し発見しているそのことは、とても大きな安堵をもたらします。

 

・・・・・・

 

最期にはどんどん単純になっていきます。雲を眺め、鳥が歌うのを聴き、コーヒーを飲み、息を吸って息を吐き、指を噛み、貧乏揺すりをし、ハートを開き、<ここ・今>であるとき-------あなたがそれ以外のものであることができないこれとしてあるとき--------、ただのこれ以上に大切なことなど何もありません。

 

 

 

 

 

 

というわけで、、

 

海の彼方にはもう探さない、輝くものはいつもここに、私の中に見つけられたから、、カエル

 

 

 

 

 

 

※今年はスイカが失敗し、歯ごたえ満点の硬いメロンをゴリゴリ食べている今日この頃です、、笑い泣き

 

今日も読んで下さり、ありがとうございます!流れ星

 

 

 

思考を信じないコツは、あるがままにあるいは、勝手気ままに理論武装をしながらまくし立ててくる主張の様子を盲目に (無意識的に) 信じてしまうのではなく、、意識的にその様相にシンプルな気づきを向け続けること、、カエル

 

 

そして、ある程度したら、その気づきの観照の中で、果たしてそうした主張は本当に正しいことを物語っているものなのだろうかと、、混乱や焦燥の中で溺れそうになっている思考に、ある意味で、「聖なる問い」 を投げかけてみると良いでしょう、、(もちろん、これはこれで思考ではあるのですが、、笑)

 

 

そうすることで、驚いたことに、嵐の中で沈みそうになっていた船に、突如穏やかな青天の青空が現れるかのごとく、船は平静を取り戻しつつ、それまでの悪天が瞬時に姿を消す不思議を目の当たりにすることもあるでしょう、、虹

 

 

するといかに思考が自我 (恐れ) に根差した、短絡的で、わずかな側面にしか光を当てられない不完全な機能であるということを発見することもあるでしょう、、OK

 

思考は意識的に使う場面においては役に立つ部分はあることはありますが、、絶対的な 「確かさ」 として信じる代物ではないのです、、思考を信じず、思考に気づき、思考が手放される様をぜひとも見守りましょう、、バイバイ

 

 

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思考が現れた時、それが思考に過ぎないこと、追いかける必要も、信じる必要もないかもしれないということ、思考が主張するのと違って、その思考は現実を客観的に伝えているわけではないということを観ることができるでしょうか?

 

こうした思考が観念的な映画やストーリーをどれだけ素早く生み出すか、そして、そのストーリーがどれだけ魅惑的な、どれだけ事実のように感じられるかということを観ることはできるでしょうか?


・・・・・・

 

苦しみが生じると、その見かけ上の問題について考えるというかたちで私たちは習慣的に反応します。起こったことについて繰り返し考え、名前を付け、それについてのストーリーを作り、分析し、誰かの責任にし、批判し、未来の肯定的なシナリオと否定的なシナリオを想像し、解決策を探します。

 

 

「こんなのは耐えられない。もっとひどくなったらどうしよう。

 

 もう駄目になりそう。なんでこんなことが私に起こるの?

 

 私にあんなことをするなんて信じられない。不公平よ。私は本当にばかだわ。

 

 なにひとつまともにできないんだから。もしああだったらどうなんだろう? 

 

 あれさえこうだったら・・・・・・、たぶん私がすべきなのは・・・・・・」 と。

 

 

こうした思考のすべてに、風や雨の音を聴くときと同じように、個人とは関係のない自然の出来事として耳を傾けることはできるでしょうか?思考を手放し、注意をストーリーから今この瞬間のそのままの現実--------身体の感覚、車が行き交う音、今ここにいるという感覚--------に戻すことはできるでしょうか?

 

 

想念とは関係のないエネルギーとしての今この瞬間の裸の現実がただあるとき、苦しみに何が起こるでしょうか?自分の人生というストーリー全体が見かけほど確かなものではないこと、思考と想像がなければ苦しみも不幸も維持できないということを発見するかもしれません。 

 

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!流れ星