悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

 

 

先日、、何か思ったより硬い物をうっかり口に含んでしまい、、

 

次の瞬間、まさかまさかの、、ガリ!!ガリガリ!!!ガーン

 

 

なんと人生初、、健康だったはずの歯が見事に欠けてしまった折の話、、歯

 

 

ここで図らずも思い出されたのは、、以前取り上げた、ソクラテスが命を賭して行ったとある実験の話、、(↓)

 

 

 

 

 

当然、あれほどの気概がわたしにあるわけでもありませんが、、笑



次の瞬間面白いことに、、それを見ている者、、その一連の様子に気づいていた何かは、、当然ながら、一ミリも 「欠けて」 はいなかったということ、、傷ついてもいなかったということ、、

 

増えることも減ることもない、清らかになることも汚れてしまうこともないと、かの般若心経の言う通りの在り様そのままというわけでした、、OK

 

 

 

私たちの一般的な認識は、、「私」 という固定化された存在が、この肉体の中に居て、肉体=私自体とした同化作用が常時起きているわけですが、、肉体=私自体ではないことは、今回のように歯が欠けずとも認識するのはとても容易です、、笑

 

 

つまり、爪を切ったり、髪を切ったりしても自分が 「減る」 ということはないし、ケガをしているときとケガが治癒したときを比べてみても、そのことに 「気づいている者」 に何らかの影響が及んでいることは本当はないということ、、

 

病のときも苦しみの最中でも 「それを見ている者」 が 「見ている」 以外の何かであったことは実は一度もなかったということを見れば、、このシンプルなまでの本来の認識は容易に取り戻せます、、富士山

 

 

私たちとは、、相対を見守る絶対性、、常に今ここに在る受容性であるということ、、合格

 

 

 

 

そう言えばと、その昔こんな言葉があったのを思い出しました、、ひらめき電球

 

私が神を見る目と、神が私を見る目は、同じである、、目

 

 

 

※ちなみに、、よくこうしたジャンルの話でなされる、何があっても大丈夫、、としたメッセージは実はこのことをベースに語られているものだったりもします、、グッ

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!お願い

 

 

 

 

とある昔の話、、いわゆる、仕事のストレスで休日になっても心休まらず、、ガーン

 

気休めにと大好きなお笑い系の番組や録画を見つつもそれほど気が紛れず、、笑い泣き

 

 

時に一時的な高揚感に浸ってはみても、日常に戻ればすぐさま心は重々しいというような時代から、早、10年ほどが過ぎているのですね、、今となれば懐かしき若かりし頃、、照れ

 

 

 

もし、あの頃のような状態が仮にでも今起きることがあったとするなら、、

 

大きく異なるのは、、今であればおそらく、お笑いに逃げることはまずないでしょう、、(依然、大好きですけど、、笑)

 

 

 

そもそもこうした状況における誤解で往々にしてあるのが、、

 

 

「一刻も早くその状況を脱さなければならない」 です、、秘密

 

 

誤ったスピリチュアルの教えに出会ってしまうと、、なんとしても 「良い気分」 を作り出そうとしてみたり、常時 「ワクワク」 を維持しようなどと掻き立てられるかもしれませんが、、こうしたことがうまくはいかないことは徐々に見抜かれて来ることでしょう、、

 

 

というのも、、「良い気分」 にしろ、「ワクワク」 にしろ、、それで以て、今その瞬間に起きている自我的な反応を覆い隠そうとしたところで、結局のところそれは、自我の振動に無自覚のまま 「上塗り」 をしようとしているようなもので、内面で起き続ける自我 (の反応) が癒されるということはないからなのです、、秘密

 

 

むしろ、体感的な 「不快さ」 から逃げようとすればするほど、、自我の活動は強化される一方で、「雨の日」 を無理くりに 「晴れの日」 に作り変えようとしたところで、あるがままに起きている一般的な 「天候」 と同じでさほど効果は望めません、、

 

 

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では、悟り系スピリチュアルではどうするか、、ずばり、、どうもしようとしません、、合格

 

 

もちろん、どうもしないというのは、、自我的な活動をそのまま野放しにして苦しんでいれば良いという意味ではありません、、むしろ、、「状況や状態を作り変えよう」 とする代わりに、、カギ

 

 

その瞬間に起きている自我の活動、、鬱性のように感じるどんよりとした感覚、怒り、後悔、悲嘆、、それらに抵抗して何らかの行動を試みようとする動き、、自我に操られた形で自動的に沸き起こる感情や思考のループ、、それらと共にひたすらに一緒に居てあげます、、お願い

 

 

苦しいかもしれませんが、、気づきの領域に在るということは、「苦しみ」 を見守る者としての目覚めが起き始めている証拠であり、「苦しみ」 を受容する可能性が徐々に開かれてくる土台ともなるものです、、富士山

 

 

これが、私が敬愛するジョーン・トリフソンさんが、目覚めとは、進んで地獄に居ること、、とした言葉で指し示していたことであり、あるいは、白隠禅師の、「南無地獄大菩薩」 が伝えようとしている体感なのです、、お祝い

 

 

 

 

今この瞬間にどんな状態が起こりつつあるとしても、ただそのままにしておけるでしょうか?そこから離れずに。

 

そして、その状態が自分に与えてくれないもの、与えてくれそうにないもの、例えば、活力、興奮、感動、喜び、幸福といったものですが、そういうものを与えてくれる何かへと逃げ込んだりもしないで。

 

今ここにあるものに徹底的にどんな条件もなしにただ耳を傾けるんです。できるでしょうか?

 

(トニ・パッカー)

 

 

気づきを保っているとき、意識しているかどうかに関係なく、癒しが起こっています。

 

閉ざされていた扉が開き始めます。扉が開くと、「現在」 が絶対だということ、そして、ある意味では宇宙全体がこの瞬間、毎秒新たに始まっているということが分かります。

 

その単純な気づきの瞬間の中に生の癒しはあります。癒しは常にまさにここにあるのです。 

 

(シャーロット・ジョーコー・ベック)

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!流れ星

 

 

先の月曜日、、自我意識の多くが、「次の日」 にすぐさま休日が控えているがため、、お祝い

 

 

早く 「次の日」 が訪れてはくれないかと、「今とは違った何か」 を望んだことでしょう、、照れ

 

かく言う私もちょいちょいと、、笑

 

 

ま、とは言え、この反応が、自我による毎度反射的な防衛作用故の 「今ここ外し」 であるということをはっきりと観ることができれば、手放すのもまた容易です、、OK

 

 

※ 「手放す」 ということにおいては、それが起きている様子を気づきのもとに晒さない限り、意識的な 「手放し」 が生じることはまずないものです、、ひらめき電球

 


 

混沌としたした防衛性、「恐れ」 は絶えず無秩序に漂い、私たちの 「身を守る」 ためにといつでも機会さえあれば、反発、抵抗、執着といった反応を露わにするチャンスをうかがっている反面、、

 

ひとたび気づきの光にさらされるや、、まるで、映画、となりのトトロのまっくろくろすけのように、、バイキンくん

 

そこに本当にあったのか疑ってしまうほどに姿をくらますことがある意味では常であると言えるでしょう、、目

 

 

 

こういう観点から、「自我は幻想である」 などとしばしば言われるわけですが、、

 

それでも、私たちが日々を送る中で、状況に応じて、自我の働きによって足を取られていると感じる場面は確かにあって、その度ごとに、自我からの目覚めは求道においては必要なことです、、グッ

 

 

 

自我の引き戻し、執着が、、「今 (流れ) とは違った何か」 へとしきりに抵抗していたり、反発しているように感じられた際には、、そのことに気づいて、、手放せるかどうか試してみて下さい、、OK

 

 

もちろん、何としても手放さなければなどと頑張ってしまうとこの求道的な取り組みが逆に自我のエネルギーを誘発してしまうことにもなるので、、コツとしては、、手放そうとはせずに見守り、手放しが自然に起こるフィールドを用意してあげるといったところです、、カギ

 

 

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ま、実際のところ、、ここで 「禅」 の中継があるのとないのとでは、それなりに大きな差があるとも言えるものです、、ドア

 

というのも、、「禅」 においては抵抗が現れようが、執着が現れようが、、その瞬間に目の前にあるものであるなら、、問答無用で、「出会う」、「取り組む」 ということが徹底された前提とされているからです、、ダルマ

 

 

ですから、「手放す」 か、「手放せぬ」 かを問題とする以前に、感・即・禅!と間髪を入れずに 「今ここ」 の中に溶け去ってしまいます、、合格

 

 

実際これが、、シンプル過ぎるほど見事に、、二元的な在り様、、ランニング

 

今回であれば、、「今日この日」 から逃れて、「休日の明日」 へと逃げ込もうとする自我的意識状態、、(「今日」 しかないリアリティを、「今日」 と 「休日」 の二つに分け、「今ここに在る」 だけの本来開かれた意識を、「今日」 から離れ、「休日」 へと向かわなければならないと収縮した 「個人」 の感覚) を鮮やかにいなしてみせるのが禅、あるいは、禅定力 (ぜんじょうりき) などと言われるものなのです、、富士山

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!完了

 

 

 

というわけで、ふと思い立ったもので久々に瞑想をしてみました、、

 

 

今回はシンプルに、「今ここに耳を傾ける」 です、、耳

 

 

目を瞑り、自然な呼吸のリズムや感覚に気づいている、「今ここに在る」 というシンプルさに目覚めつつ、、

 

 

静かに、「今ここを聴く」 ということに徹します、、お願い

 

そのとき、それまでに起きていた相対的な映像や、思考や感情がもとになって沸き起こる混沌としたエネルギーが 「聴く」 ことの間に入り込んで来たら、、また、「今ここに在る」 に戻りつつ、それらを気づいて手放します、、(※そういった意味では、、この瞑想のマントラは 「今ここに在る」 と言っても良いかもしれませんが、、笑)

 

 

「今ここを聴いている」 ことをただ続けるとき、、観念的な、「私が何かを聴いている」 とか、「外の世界で何かが起きている」 などとした認識を脇に置き、「聴いている」 だけを続けます、、

 

 

実際には、、この時、、「聴いている」 だけが起きていて、そこには、「聴いている誰か」 も 「聴かれている何か」 もすべてはその、「聴いている」 の中に溶け去り、、意識は、今ここの本来の広がりを取り戻し始めているのです、、秘密

 

 

もちろん、ここにおいて、特別な認識を得ようなどとする必要はなく、ただ 「聴いている」 に明け渡せばよいのです、、OK

 

 

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こうすることで、自我意識の常態と言うべき、「どこか」 に安心や安全、自分を満たしてくれるだろう何かを求めようとする傾向や執着は徐々にペースを落とし静まり始め、防衛故に収縮していた意識の在り様は開かれていきます、、ドア

 

 

この、ある意味で、「初まり」、あるいは、「真実」 と共にあることで、、

 

 

自然と頭の中が整理されていったり、今為すべき必要なことが閃いたり、または、思い出されたり、、

 

あるいは、今ここに在るという絶対的なリアリティにシンプルに根付くことで、研ぎ澄まされた落ち着きのようなものがその場に満ち始めていることに気づくこともあるかもしれません、、合格

 

 

私はしばしば、この発露を、「今の声」 と呼んでいます、、流れ星

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!完了

 

 

 

求めているものが手に入ったとき、あるいは、達成したときの 「幸せ」 と、

 

求めるものがなくただ在る者として在るときの 「幸せ」 

 

 

いずれも、「幸せ」 と感じることに違いはありませんが、、ひらめき電球

 

 

 

それを成している 「質」 という点においては、大きく異なるという側面は実際あるでしょう、、

 

前者の 「幸せ」 にどこか問題性があるというわけではありませんが、、

 

 

この構造を見極めておくことで、私たちが 「幸せ」 を真に見出す術において近道になると言うことはできるかもしれません、、グッ

 

 

もちろん、「求めているもの」 が手に入りさえすれば、欠乏と不満足の背後にあった、自我性 (恐れ) は満たされ、この上ない歓喜と安心を得ることでしょう、、

 

けれども、この自我が起こしている一連のエネルギーの様相を注意深く見ることで、私たちの 「幸せ」 に必ずしも、「求める」 というアプローチは必要ではないかもしれないというのが徐々に見えてくるかもしれません、、

 

 

というのも、、「幸せを求めている」 とき、というのは、、実は、、常に 「今ここに在る」 はずの意識が、空想上の 「どこか」、「今ここにはない何か」 へと (その場を離れずにして) 引き離されているというパラドックスが起きているために、、エネルギーの上では、ある意味では、「不自然」 な様相であるのです、、

 

 

「今ここに在る」 にもかかわらず、「今ここに在る」 では満足できない、満たされないと信じて疑わないために、、「幸せはここにはない」 ということを観念の中で当然のことのように思い込んでしまっているのです、、即ち、、「幸せを求める」 ことによって、「今ここは幸せではない」 という、まさかの逆説的な様相が意識の中で無意識にできあがってしまうというわけなのです、、秘密

 

 

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というわけで、このことに気づけば、、自我が織りなすこのトリックを見抜くことができれば、、

 

 

「幸せ」 のために 「求める」 ことが起きているとき、、無意識的な 「今ここは幸せではない」 が微妙にでも意識の中に感じられるのであれば、、その在り様を静かに見守り、そこにおいて、「求める」 を手放し、「今ここに在る」 ことの中にもう一度舞い戻るという可能性が発露し始めます、、ドア

 

 

「求める」 ことは必ずしも間違っているというわけではありませんが、、「今ここに在る」 からいつも始めるとき、、自然な衝動として起こる 「求める」 も時には感じながらも、、「今ここに在る幸せ」 も同時にあるとき、、私たちは、、「幸せを求める」 生き方ではなく、、「幸せで在る」 生き方へと意識の変容がゆるやかに起きるとも言えるのです、、合格

 

 

「求める幸せ」 ももちろん否定したりはしませんが、、「求めない幸せ」 というのもこの世界の妙味とも言えるものです、、どちらが 「幸せ」 への近道か、、自身の中でぜひとも感じてみて下さい、、カギ

 

 

 

 

 

というわけで、昨日、一昨日と、我が地元では毎年恒例の絵ろうそく祭りが行われました、、

 

今年は出向きませんでしたが、、写真は数年前に一隅を照らす相棒と見に行った際のものです、、流れ星

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!お願い

 

 

 

その昔、東京で新卒時代を過ごしていた頃のこと、、時計

 

 

ある研修で、とあるコーチ的な人がやって来て、私も含め大勢の前で実践混じりのいろいろなワークをしてくれたのをふと思い出したものです、、

 

 

その際、、(ってあんまりよく覚えていませんが、、)

 

 

何かをやらなければならないときの私たちの反応の傾向を見る、的な話の中で、、

 

どういうわけだか私が指名され、、みんなの前に立たなければならない時分に際して、、

 

 

思わず、、「えーーーー、、、ガーン」 

 

と口に出してしまったところ、、そのコーチ的な人が、、

 

 

はい!それ!!っという具合に、、私が有する 「物事に取り組む際の傾向」 を見事指し示してくれたという話でした、、びっくり

 

 

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ま、今となればあれは、私だけにおける、「物事に対する内的な傾向」 ではなく、

 

誰しもが共通に有する、自我の防衛性だったのだなとふと思いに至ったものです、、ひらめき電球

 

 

 

私たちの自我は防衛性故に、、不都合や不快、面倒や億劫などとした出来事を仮に経験しなければならないときには、どうしてもそうした出来事を思考的な解釈を用いて否定的に分断し、その出来事からうかがえるわずか一面だけに強烈なレッテルを貼りながら、、

 

「自分」 を守れるように、「自分」 がそれを避けていられるようにと、、そのことに対する (二元的な) 抵抗と反発、批判や狼狽といった反応に出るのが常です、、ランニング

 

 

けれども、こうした反応が、自我による防衛的活動の反射的な動きであるということを気づき (アウェアネス) の俯瞰の中で見抜くことができれば、私たちは自然とその傾向の健気さと短絡さをしかと観つつ、、それを手放す方向へと舵を切ることも時にはたやすくできたりするものです、、OK

 

 

もちろんここでも大切になって来るのは、、そうした自我的反応が起きることが何ら 「悪い」 ことでも 「問題」 というわけでもない!という認識を持つことです、、そうでないと、自我が起きるたびに自我を見抜きつつも自我をさも 「悪者」 か 「敵」 のようにとらえつつ、、そうした自我と格闘を常々行わなければならないストレスを時には抱えてしまうからでもあります、、ナイフ

 

 

なにせ、、自我と格闘しようとするその傾向こそが、実は自我で以て自我を超えようとする機能不全以外の何ものでもありませんから、、そうした態度での自我との付き合い方は往々にうまくはいきません、、秘密

 

 

 

自我は自然に起こるということ、自我が起きても何ら問題ではなくむしろ自然な防衛性の精巧な発露であると観て、、必要に応じてそれをくつろがせ、手放せるときには手放し、なかなかうまくそれが起きないときには、静かにそれを感じつつ、、自我と共に居てあげます、、合格

 

こうした受容的在り様で自我を見守ることができると、、徐々に自我自体も規律を持ち始め、、私たちの日常を共に生きるより良きパートナーとして防衛性故の役割を正しく果たしてくれたりもするです、、(ま、それでも何らかの根強い傾向はいつになっても残ることはありますがそれはそれで全くもって問題ではありません、、)

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!お願い

 

 

 

 

さて、スピリチュアルに留まらず、一般的なところでも、

 

 

「感情に振り回される」 というフレーズをよく耳にするものです、、目

 

 

この 「振り回される」 という認識をもう少し注意深く見てみますと、、

 

その感情が 「自分」 にとって不快であるために、到底受け入れられず、その感情から逃れようにも逃れない、思うように感情を手放せないと悪戦苦闘する防衛性たる自我がそこに居ることに気づきます、、ひらめき電球

 

 

自我は、自分にとって ( 「都合」 の良い) 心地よい感情や気持ちや思いは喜んで受け入れ、「我が物」 にしようと ( 「恐れ」 故に) 所有しようとするのが常です、、照れ

 

けれども一方で、、自分にとって 「都合」 の悪い感情や気持ちや思いが現れた場合には、精巧なまでの防衛性が働き、それがあることを良しとせず、抵抗し、反発し、何とかしてそれを封じ込めようとしたり、その場を離れようなどと右往左往したりするわけですが、、ガーン

 

 

実際には、、本当に意味での 「苦しさ」 というのは、ネガティブ、あるいは、相対的に 「負」 などとされる感情や気持ちや思いの方ではなく、、それに対して戦いを挑もうとし、挑み続ける自我性に起因する動きの方なのです、、秘密

 

 

ですから、「感情に振り回されている」 からと言って、、落ち込んだり、気を滅入らせたり、悲観したり、卑下したりする必要は全くもって一切ない、というのがそうした感情と付き合う上での大切な前提になると言えるでしょう、、

 

 

 

怒りに打ち震えていようが、ネガティブな感情に支配されることが頻発しようが、、それが起きていることを 「問題」 などとせず、ただその瞬間にそのことが起きていることを許し、怒りたいように怒り、悲しみたいように悲しんでみる、、

 

自我の勝手な防衛反応に流されて、否定されることなくあるがままに現れた感情は固定化されず、時間の経過と共に少しずつ流れ、溶けていくものです、、オバケ

 

 

だからと言って、そうした感情がいずれはまったく現れることなく自分には 「青天」 の未来が待っているなどとした期待はしてはいけません、、これもまた、結局のところ自我による 「都合の良い状態」 に過ぎません、、

 

 

※もちろん、セラピーのような専門療法でそうした感情の傾向が癒され、消散されるということはそれなりにあるわけですが、、OK

 

 

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というわけで、本題に戻り、、

 

 

あらゆる感情の波、起伏の激しい浮き沈みを静かに見守る者が常に在るということ、、

 

受け入れられない感情に反射的に抵抗していしまう自我を 「まったく動かずに受容している存在」、、それが本当のあなたとして常に在るという認識こそ、私たちにとって本当に大切な立ち位置だと言えるでしょう、、富士山

 

 

って本題短っ!!笑い泣き

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!お願い

 

 

とある、漫才の 「IMA-1 グランプリ」 決勝戦にて、、拍手

 

 

 

どうもー!サトリボーイですー!あー!ありがとうございます!

 

今、エックハルト・トールの本についている未記入の読者カードを頂きましたー!

 

ありががとうございますー!こんなんなんぼあってもいいですからねー!言うとりますけどもね

 

 

 

突然やけど、うちのおかんがね、最近わからん 「経験」 があるって言うてんねんな

 

 

「経験」 の名前忘れてもーてー、どうなってんねんそれ!

 

じゃ、おれがおかんした 「経験」 のこと一緒に考えてあげるからどんな特徴言うてたか教えてみてよー!

 

 

急に静寂に包まれて、意識が拡大したような気がしたらしい言うねんな

 

 

「悟り」 やないかい!その特徴はもう完全に 「悟り」 やがな!すぐにわかったよそんなもん!

 

 

でもわからへんねんな、おれも 「悟り」 と思ってんけどな

 

おかんが言うには、それが欲しくてインドまで行ったやつがおる言うねんな

 

 

じゃあ、「悟り」 ちゃうやないかい!「悟り」 なんちゅうもんはインドなんかに行かなくてもどこででもええねん!「悟り」 に場所は関係ないねん、下手したら、自宅のトイレでも、風呂場でも起きる時にはどこででも起きんのよ!

 

インド側もね、みんなから 「悟り」 の場所に任命されたらね、荷が重いよ!「悟り」 ってそういうもんやから、ほな、「悟り」 ちゃうがな、ほな、もう少し詳しく教えてくれる?

 

 

おかんが言うには、それが起きた途端、「分かった!」 ってなったって言うねんな

 

 

「悟り」 やないかい!あれは一瞬の事やけど、たまにすごい衝撃なもんやから忘れることなんてできひん!

 

でもおれはね、あれは、悟りの瞬間の映像を思考で以て自我が固定化して所有しまうからそのことをよく我が物顔で語り出す人がいるんやけど、それはそれで 「悟り」 の一瞥とも一応は言えんねん、おれの目は騙されへんよー!「悟り」 やそんなもん!

 

 

分かれへんねんでも

 

何が分からへんのー!

 

 

おれも 「悟り」 やと思っててんけどな

 

おかんが言うには、、それは特別な瞑想を体験しないと作り出せないらしいねん

 

 

ほな、「悟り」 ちゃうやないかい!「悟り」 にね、特別な瞑想なんていらへんのよ!

 

いつでも 高次元やら空に入れるとか言うけど、、今ここ以外が現れたこともなければ、空でなかったところにおれらが居たことは一度もないんやから!「悟り」 ちゃうがな!もうちょっとなんか言うてなかった?

 

 

 

どこに居ても同じ場所に居ることに気づいた言うねんな

 

 

「悟り」 やないかい!おれたちはね、普段はどこかを目指して動いているように相対的には見えるけど、実はそう 「見えてる」 だけで、本当のところは一歩も動いてないねん!

 

家に居ようと、会社に居ようと、旅先だろうとインドだろうと、、気づきた時はいつだって 「今ここ」 やねん!「悟り」 やそんなもん!

 

 

わかれへんねん!

 

なんで分かれへんのこれで!

 

 

おれも 「悟り」 やと思ってんけどな、

 

おかんが言うには、その経験をするには何十年も修行せなあかん言うねんな!

 

 

ほな、「悟り」 ちゃうやないかい!「悟り」 のために何十年も苦行を積む必要はもはやないのよ!

 

なんでこれまでの修行の中で苦行が頑なに守られてたかと言うとね、苦行をすることで自我が抵抗するもんやから、苦行して抵抗して、苦行して抵抗してを繰り返しているうちに、いつかのタイミングで自我の抵抗が静まる瞬間が来んねん!

 

そのとき初めておれらの日常を動かしている自我の不在性が現れるもんやからこれまで苦行が半ば条件のように思われててんけど、自我の習性さえ見抜けばその必要はもうないのよ!

 

言うとくけどね、求道の修行の最後に分かるのは、「本当は修行は必要なかった」 っていうことやねん、、「悟り」 ちゃうがな!ほな、もうちょっとなんか言うてなかったか?

 

 

あらゆるものに分離は存在してなかったって言うねんな

 

 

「悟り」 やないかい!相対の世界ではね、物には一つ一つ 「名前」 が付いてるわけやけども、その 「名前」 いうのは、後付けの 「言葉」 で便宜的に物事を区切ってるだけの仮の境界線に過ぎないねん!

 

一時的にそういう 「物」 だと 「決められてる」 わけやけど、本当はそんな 「物」 は存在してなくて、境界線も幻想なんやから、そのことに気づけば、こういうものだと 「思い込んでいる物」 も、「観念 (思い込み) の世界」 も消えてまうから本来の世界、「無分別の実相」 言うんが見えてくるもんなんよ!「悟り」 に決まり!

 

 

わからへんねん!

 

わからんことない、おかんのした 「経験」 は 「悟り」 やもう!

 

 

 

でもおかんが言うには、「悟り」 ではない!って言うねん!

 

 

ほな、「悟り」 ちゃうやないかい!おかんが 「悟り」 ではないと言うんやから、「悟り」 ちゃうやないかい!先言えよ、おれが苦行の話してたときどう思っててん!?

 

 

申し訳ない!ほんで、おとんが言うには、「昼寝」 ちゃうかって

 

 

いや、絶対ちゃうやろー!もうええわ!ありがとうございました!

 

 

 

 

 

好きすぎてとうとう得意ジャンルでパロディ作ってもうた、、笑

 

・・・笑い泣き

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!お願い

 

 

 

例えとして、、車を運転中の場合、、車

 

 

雨が降って来るや、私たちは 「うまく」 運転できるようにと、、傘

 

当たり前のように、「ワイパー」 で雨水を払うという行為が引き起こされます、、虹

 

 

これというのは、フロントガラスから外界見るに際して、雨粒がそこにあったままでは当然運転しづらいと思うからであって、もっと言えば、「雨粒」 に 「気づく」 ということがなければ、「ワイパー」 を動かすという行為は生じようがないとも言えるものです、、カギ

 

 

 

というわけで、私たちが日々出くわす、あるがままの出来事の数々、、

 

 

出来事自体に一定の価値付けや意味付けがあるというのは本質的なところではあるわけではないのですが、、自我が意識をコントロールする常態においては、「防衛的」 というベースで物事をとらえようとするために、、自分にとって、自我 (恐れ) にとっての 「都合」 という観点から物事を見てしまうきらいがあります、、

 

「都合」 良く解釈したり、「都合」 悪い出来事には抵抗したり、、その都度、自我の息のかかった思考が現れ、より物事を 「都合」 に則った形で意識に納得させるように、、あるがままの出来事を 「わがまま」 に見てしまうというわけです、、グラサン

 

 

けれどももし、、こうした 「防衛」 や 「都合」 によって出来事に対する反応や解釈が起きていることに気づくことができたら、、即ち、、冒頭の例えのように、、「あるがまま」 を 「運転」 することにおいて、一時の障害とも言える 「雨粒」 を確認することができたなら、、

 

 

私たちは、、「ワイパー」 を使って容易に 「雨粒」 を払うことができるのと同様に、、気づきの領域 (ある意味では、「動かずの運転席」 ) に在りながらに、、意識的に自我を払い、思考を見抜き、「わがまま」 を手放す術を徐々に見出し始めたりもするのです、、ドア

 

 

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もちろん、嵐のような天候のような時に、高速でワイパーを延々と動かし続けてもなかなか視界が晴れないときがあるのと同じように、、滝汗

 

 

「気づき」 によって必ずしも手放しが期待できるかと言えばそういうことでもないのですが、、

 

その瞬間において自我が確かに起きているということ、思考が勝手な解釈で以て物事を都合のままに固定化しようとしていることに、気づいているのと気づいていないのとでは、、実際のところ、天国と地獄ほどの差があると言っても良いでしょう、、グッ

 

 

 

思うように手放しが起きないとしても、、そのことに焦る必要も抵抗する必要もなく、私たちがするのは、それでも、「気づき」 で在ること、シンプルな 「気づき」 と共にただ気づいているということなのです、、富士山

 

天候に左右される 「個」 ではなく、「運転席」 に居て、不動にして気づいている 「 (今ここに) 在る」 として生きるのは人生のあらゆる場面において発露し得る 「力」 という点においても大きな違いがあるのです、、合格

 

 

って、、これがほんとの、、天気の 「個」、、拍手

 

なんつって!笑い泣き

 

 

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!お願い

 

 

 

スピリチュアルにおいて、往々にして 「不安」 や 「心配」 を感じるや、、

 

「良い気分」 がする方、「快」 を感じる方へと努めて意識を向けつつ、

 

 

今ここで起きている 「不安」 や 「心配」 を半ば力づくで覆い隠そうとする教えがまま見られますが、、

 

おそらくこれが功を奏したとして、一時的に気分が高揚し気が紛れるだけで時の経過と共に同じような波がループのように押し寄せ、、押し寄せてはまた隠れ、隠れてはまた押し寄せの繰り返し (自我の独り相撲) にハマってしまうきらいも同様に起こり得るために、、本当の意味での 「効果」 はさして望めません、、

 

 

であるならば、、もし私たちの日常に、自我の防衛的活動であるところの、「不安」 や 「心配」 が沸き起こって来た時には、、今ここでまさに起きているそれら 「不安」、「心配」、「恐れ」 の様子を打ち消そうとすることなく、(気分の高揚や快を求めて) どこかへ行こうとすることなく、

 

 

じっと気づきを向けながら、そのことに気づいていられるかどうか、それと共に居てあげられるかどうか試してみてはどうでしょう、、OK

 

 

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そうした気づきの在り様から徐々に明らかになるのは、、私たちは、「不安」 自体、「心配」 自体、「恐れ」 自体であったことは一度もなかったということ、、秘密

 

確かに、そうした感覚は感じはするけれども、注意深く見てみると、、私たちは、どうやら、その感覚に気づく者であり、その感覚を見ている者であり、、その感覚を受容する者だということを知り始めるのです、、合格

 

 

 

気づきは、あらゆる相対的活動を静かに観照しつつ、、そこに何のコメントも発することなく、、それが例えどんな活動であったとしても、、それに光を当て続けている存在、、光自体であるのです、、富士山

 

 

ですから、無意識的にそうした不快さから逃れようとしてしまうと、、迷妄の様相は色濃くなるばかりで、ある意味では、暗い部屋の中で出口を求めて悪戦苦闘しているようなもので、そのやり方ではどうしても困難を極めるのは火を見るよりも明らかであると言えるかもしれません、、

 

 

であれば、暗闇 (自我の無意識性) に明かりを灯すこと、、気づきの光を静かに照らしながら、、自らが感じている 「不安」、「心配」、「恐れ」 を解体していくことが求道においては何より大切なことなのです、、グッ

 

 

 

 

って、そう言えば、、敬愛するジョーン・トリフソンさんは、、

 

目覚めとは、進んで地獄にいることです、、と先鋭的に語り、、

 

愛すべき白隠禅師もまた、、南無地獄大菩薩、、と地獄の仏に帰依したものだったな、、と末筆ながら思い出したものです、、似たもの教師を持つと、、生徒もこうなります、、笑い泣き

 

 

 

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