新苫米地理論が公開され、
連日の講義を受けながら、
改めて感じたことがあります。
それは、
「現実とは、物理的な出来事の積み重ねである」
と信じている世界観のままでは、
起きている変化を言葉にすることが、
どれほど難しいか、ということでした。
最新のT理論の視座──
「潜在ポテンシャル統一理論」の
眼差しを通せば、
世界は全く異なる相貌を見せ始めます。
どの出来事を安定と感じ、
どの未来を自然なものとして受け入れ、
どの状態へ向かうことが“自分らしい”と感じられるのか。
その背後にある
、
認知のポテンシャル地形によって、
僕たちの選択は方向づけられている。
身体も、未来も。
このタイミングで、
連日、師から直接受け取ることができたのは、
大きな移動ができる“機会の通り道”でした。
一般的に「コンフォートゾーン」と言えば、
心理的な「居心地の良さ」を想起するかもしれません。
けど、
今回の新しい理論における
“TCZ(トータルコンフォートゾーン)”として捉えるとき、それはもっと立体的な構造物になります。
(僕は点と線が未来の空間を切り取り、立体的な空間として立ち上がってくる世界観が日常の生活をずっと送ってきたので、リアルに空間を歩いているように感じます)
僕たちの内部表現には、
いくつもの「快適さの領域」が点在しています。
仕事、人間関係、
年収、健康状態、
身体の感覚、
言葉の選び方。
そして、セルフイメージ。
これら現在と未来、情報空間と物理空間のあらゆるレイヤーに存在するTCZ(Total Comfort Zone)の構造が、数学的な意味での“コンフォートゾーン”を定義します。
例えば、
すり鉢状の盆地に立つと、
自然と一番低い場所に転がるように、
僕たちの心身はエネルギー消費を最小限に抑えられる安定した快適な範囲に収まります。
人生もまた、
同じように“地形”によって決まっているのかもしれません。
どれだけ変わろうとしても、
なぜか同じ場所へ戻ってしまう。
同じような人間関係を選び、
同じような言葉を使い、
同じような悩みを反復し、
変わらない未来を自然なものとして受け入れてしまう。
それは意志が弱いからではなく──
そこが“もっとも自然に安定する地形”として
デザインされているからです。
もし、あなたが「自分だけの言葉」を失い、
誰かが作った物語の中を歩いていると少しでも感じていたとしたら、、、
それはあなたの地形が、
誰かの意図によって、
本来の自分とは違う形に「変換」させれてしまっているのかもしれません。
誰かの都合の良い状態へ。
誰かの物語の中で安定してしまう状態へ。
誰かの期待を満たすことでしか、
自分を保てないような地形へ。
そうなると、
本人は自由に選んでいるつもりでも、
実際には、すでに敷かれたポテンシャル地形の中を自然に転がっているだけになります。
それは安定しているので、
意外と心地よいものだったりします。
そうやって世界は分断され、
本来の美しい世界が観えなくなっていく。
自分の望む未来をデザインするためには、
TCZをいかにデザインするか、
ということになってきます。
“地形”そのものを変えること。
それは、
誰とつながり、どの「場」に身を置き、
“新しい眼差し”を獲得するこいう、これまでの議論に繋がっています。
(当初からT理論ではないような語り口で一緒にみてきたことも、実際には理論に沿って語ってきているからこそ矛盾なく有機的に繋がっていきます。)
それらをすべて手に入れるには、
「世界の観え方そのものを移動」すること。
ただ、それだけ。
そうすることで、
あなたが望むものを手にすることが、
可能な世界に移動することができます。
ただ、
その世界への移動は、
残念ながら、一人だけでは達成することができません。
自分ひとりの内省や努力の中には現れないんです。
どこに現れるのかというと、
「他者」や「場」を通じてのみ現れ、
奇跡のような世界の移動を促してくれます。
もう少しいうなら──
自分ひとりの世界には、未来は存在しない。
他者と接続されたときにだけ、
未来は“現実として立ち上がる”のです。
だからこそ、
未来を共鳴する「場(コミュニティ)」に身を置き、
仲間と接続することが、本来なら絶対に上がることのできない抽象度の壁を超えて、理想世界へ移動するための最大の戦略となります。
ここでポイントなのは、
“場”とは、単なる人の集まりではないということです。
仲良しの集団でも、
同じ趣味を持つ人たちの集まりでも、
安心できる居場所でもありません。
もちろん、
それらも大切です。
けれど、
本質的な意味での場とは、
個々人のTCZが接続され、
より高い抽象度の共有地形へと移動していく構造です。
それが、
“TCZ-High-Shared”
という構造につながっていきます。
少し論文から引用します。
TCZ-High-Sharedの本質が利他性に対応することを踏まえれば、芸術は本来的に統合・整合・安定を志向し、戦争回避的に機能する構造として位置づけられる。他⽅、幻覚的出⼒に基づく擬似的芸術は不整合や分断を増幅しうる。
(苫米地英人『潜在ポテンシャル統⼀理論:認知ホメオスタシスと認知戦』p23)
また詳しくは講座などで、
導入をしていきますが、
領域依存性を超えた先では“TCZ”も、
あなたの未来に沿わせたデザインが可能になります。
どのようにして、
現状の延長ではない未来を、
“自分にとって自然な安定状態”にしていくのか。
明後日のMentoring Program 2ndの講座で、
少し導入をしていこうと思っていますので、
参加される方々はお楽しみに。
あと、芸術について
ワシントン(D.C.)スピーチでは、
こんなことをおっしゃっていました。
AIが起こす「ハルシネーション(幻覚)」は単なるエラーに過ぎないのに対し、人間の「芸術(アート)」とは「人間がまだ見つけていない、より高いレベルのLUB」そのものである、と。
現在の生成AIが自らLUBを発見することは困難ですが、人間にはそれが可能であり、クラシック音楽、絵画、ダンスといった純粋芸術に触れ、その構造を体感することは、脳内に新しいLUBを構築するための直接的な訓練になる、と。(DeepL翻訳)
これにYouTubeの動画も重ねたいです。
アートは作った人の身体性を再現してなんぼだと思っているわけ。
TCZが選択、
変換されるのは、
知識だけではありません。
どんなに素晴らしい理論を学んでも、
それが身体に落ちていなければ、
新しい眼差しは獲得できないのかもしれません。
僕たちが身体性にこだわるのは、
情報空間の移動が起こると身体が変わり、
身体が変わると情報空間の移動が起こる、
この双方向性があるからです。
新T理論でいえば、
同じものを様相論理学で記述するのと、
工学で記述することの双対構造があるコインの裏表のように。
抽象度を上げて、
未来の自分としての身体性を実装していきましょう。
そのとき──
TCZは現状ではない、
まだ見ぬ未来のカタチへとデザインされます。
ではでは、今回はこの辺で。
また次回の記事でお会いしましょう!
Khronos / The salone|Hiro
追伸:
Dr.Tの公開資料を
いくつかピックアップしてリンク貼っておきます。
※論文執筆直後に収録された音声
感想・ご質問、大歓迎です!
たった一言でも構いません。もし何か感じたことがあれば、ぜひシェアしてください。言葉にすることで、見えなかったものが形になり、次の扉が開いていくのです。
あなたの一言が、次の扉を開く鍵になります。
どんな小さな気づきでも、それが新しい変容の始まりになります。そして、“場”をさらに深める力になります。






