昨日は、担当の教授に会ってこれからを話した。
相談、というより最初から報告くらいのつもりだったが。
つまり、留年と休学するということを。
教授の話を要約すると、もったいないけど、
僕の意思を尊重せざるを得ないね、というとこ。
確かに、卒論まで仕上げて学士資格までとっておけば、
戻ってきた際に採れる行動の幅は広くなるだろう。
折角合格した院の入学資格も取り消しだし。
一年間の学費だってタダじゃないし。
でも、今の僕にはそんなの全然もったいないことではないのだ。
それらの全てに価値を見出せない、「望み無し」なのだから。
休学だって、別にそんな手続きをとらず、
失踪みたいな形で出て行ってもよかったし、
教授や親に話をする必要も、「望み無し」の僕には無かった、はずだ。
だけど、そうした。
あ、休学手続きはまだやってないけど。
なんでそうしたんだろうなぁ。「望み無し」の僕が。
けじめ、みたいなものだろうか?
そうしなければ、なんだかもやもやするからやったんだけど。
そんな、良心めいたものがまだあったということか。
もしくは保身のつもりだろうか。今更。

休学、はともあれ。
留年はするつもりなかったんだけどな。
卒論を2週間で仕上げるほどの精神的余裕は無かった様。
思ったよりへたれだったみたい。
あとはこのことを研究室メンバーにメールで流さなきゃな。
お世話になりました、みたいな。
あー。気が重いー。なんでだろ?
少し時期が外れてしまったけれど、初詣の話。
参拝の時、ほとんどの人は賽銭を入れ願い事をすると思う。
僕の願い事は、ここ7年くらい、決まって世界平和だ。
これは、切実に世界が平和になってほしいと思っている、からではない。
絶対に叶うことがないとわかっているからだ。

今となっては願い事するような望み自体ないわけだが、
以前はそれなりに欲しいものや叶えたいことがあった。
しかし、それらを神に願ったことは無かった。
第三者によってもたらされることが許せなかったからだ。
自分の実力以外の要素で望みを叶えるのが嫌だったのだ。
当時から神の存在を認めてはいなかったが、ケチがつくと思ってた。
だから、自分に関わり無いところの、絶対に叶わぬ願いをしてた。

実際に神に祈って叶えてもらおうと思う人はほとんど居まい。
神の存在を真剣に認めている人など極少数だろうし、
そういう人たちも都合よく願いを叶えてくれる存在とは思ってないだろう。
それでも願うのは、そうすることで改善される何かがあるんだろう。
そして、それが正しい神の使い方なんだろう。
今はそんな風に考えている。

「望み無し」の今。願い続ける世界平和。
惰性なのかもしれない。もし、そうでないとしたら。
僕は神を信じたいのだろうか…ってそれはありえないけど。
まぁ、叶ったら認めてやっても良いや。
前回の想で僕の「生きる」定義について話した。
僕は言葉について独自の定義を持っている。
いや、これは僕に限ったことではないはずで、
そのことに対する意識の差はあれど、皆そうだと思う。

人の心は千差万別。なのに言葉の数は限られてる。
それなら、ひとつの単語をとったとしても、
人によって示すものが異なるのは当然だと思う。
例えば、コーラという単語を例にとっても、
ペプシを想像する人、コカコーラを想像する人、等
人によって異なるものを想像するだろう。
より詳しく言葉を連ねることで、そういった齟齬はある程度回避できる。
示すものが物体ならそれは容易に可能だ。

しかし、概念だとするとそうはうまくいかない。
既に挙げた「生きる」に然り。愛とか、友情とか、信じるとか。
僕はこれらに対する明確な定義をまだ持っていない。
だから、これらの言葉を使うことに抵抗があるし、
使う人に対しては、必要ならばその定義を問いただすつもりだ。
まぁ、その必要にせまられたことは未だ無いけれども。

そういった、実際使用する場合に支障のない範囲で
詰められて構築されていったものが言語なのかなぁ。
とすると、詳細な形容をつけられない概念の類は、
正確に伝える必要が少なかったということなんだろうか?
それは決して、確固とした共通認識があるから、
ということではないんだろうなぁって思います。
僕は大学で学部4年生をやっている。
工学部の研究室に所属しているのだが、ちょくちょくサボる。
今は卒論で忙しい時期なのだが、
先週はなんとなく気が向かず一度も出向かなかった。
「望み無し」の僕はサボらないことで得られるメリットを望まないので、
なんとなく気が向かなければそのままサボってしまう。
そんなわけで昨日は久しぶりに研究室に顔を出した。
が。さてやるかと自分のデスクに座った途端、
もうなんか今すぐここを脱出したい気分に駆られて逐電した。
逃げ出したのだ。

そして、大学の裏手を流れる河にそって歩き出した。
逃げ出したところで、いくとこも、やることもなく。
だから、ただただ歩いた。ずっとずっと河岸を下った。
目的を察せない河川工事をじっと眺めたり、
絶対誰かの秘密基地だった跡を発見したり、
鴨と烏と鳩のやりとりに気をとられたり、
犬と散歩中のおねーさんに声をかけたり、
たまに知っている場所にでたら、あぁここだったのかなんて納得しつつ、
なんでこんなことしてるんだろなぁ、とか
なんで逃げ出したのかわかんないなぁ、とか
長く暮らしてるのに全く知らんとこばっかだなぁ、とか
足も痛くなってきたしそのうち行き倒れるかもなぁ、なんて思ってたら
知っている場所に出た。唐突に。
それは高専時代の通学路で。実家からそう遠くなく。
なんか嬉しくなった。
ここは叫ぶところじゃないか?と思いついて、
夕陽に向かっておおおあああああああぁぁっ。
分かったのは、叫びで満たされる熱は持ってなかったことだけ。
それと、僕の体力限界は歩行5時間くらい、ということ。

そのまま、なんとか実家まで歩いて帰り。
父親に現状の説明と、春から旅にでる予定を話した。
肉体労働とか、スポーツとか、体を動かすことで発散できるのでは、
という助言を父はくれた。
僕の倍以上の経験から得たその答えはきっと正しいのだろう。
僕のケースに対してもそれが当てはまる可能性は高い。
だが、僕は頭でっかちな上に根性無しなのだ。
自分の組み立てた論理で納得しないと進めない。進まない。
生命をベットに乗せるような手段を採る前に、
試せる手段は他にいくらでもあるのだろうけど。
根性無しの僕はさっさと決めてしまいたいのだ。
というか、生命というベットが僕にとって軽すぎるのか。
僕はこの「望み無し」状態を脱出したいのではなく、
どちらでも良いから終わらせたいと思っているのだ。
だから、やはり、旅に出る。
父は納得しないだろうけれど。

今日も今日とてやることも無く。
卒論には間に合わずとも、やれるところまで進めるつもりだったのだが。
思いがけぬ拒否反応まで出た今となっては、さて、どうするべきか。
そんなこんなで、実家でこれを書いてたりする。

明日はどうなるだろうか。
今回は僕の思想に触れたいと思う。
まずは、二つ前の記事で少し触れた、
ただ死んでないだけの状態、について言及する。

の前に、僕にとっての「生きる」定義を説明。
僕にとって、生きるということは欲することだ。
望みを持つ、と言い換えてもいい。
欲し、それを手に入れるための手段が「生」だと思う。
欲するといってもその範囲は幅広い。
単純に、死にたく無い、というのも望みの一種だし、
もっと多くのものを体験したい、味わいたい、楽しみたい
といったところがスタンダードだろうか?
成功して、富と名誉と権力を得たい
…なんてステレオタイプな欲望を固持してる人は今や少ないだろうけど、
もちろんこれだって立派な望みだ。
人を殺したい、とか社会的に否定されるものだって、望みに違いない。
夢、なんてほど大層なものまでいかずとも、
こういった望みを持って生命活動を維持することが、
僕にとって「生きる」ということ。
ただ生命活動を維持することだけでは、生きているといわない。
それは、望みを叶えるための単なる手段に過ぎない。
望みを持つためには生命活動を維持していなければいけないから、
それまでの過渡期間とはいえるかもしれないが。
それでも、望みを持ちたいとすら思わなければ、
本人にとっては目的の無い手段にしかならない。

「うしおととら」という漫画で、妖怪が人に尋ねる話があった。
私は多くの人の死を見てきたが、死を恐れるものがいれば、
恐れずに受け入れるものもいる。それはなぜだ?と。
簡単だ。
生命活動を維持すること以上に欲するものがあったから。
それを手に入れるために生命という手段を消費するのだ。
人は「生きる」ために生きるのだから。
主人公うしおは、この問いに、泥なんてなんだい、と答えていた。
大切なものを得るためには、泥をかぶることなんて問題ではない、と。
まったく、その通りだなぁと思ったものだ。
と、話が逸れた。

僕の「生きる」定義はこんなところ。
だが、僕の定義だと範囲が個人レベルに限られている。
そこに人との関係性を置いたときに、
生命活動の維持が手段と目的を兼ねる場合もあるだろう。
ただ生命持つだけで、親しい人間を喜ばす、もしくは哀しませない。
でもそれすらも目的に据えない、望まない場合は…?

僕は上記の全てを望まない。
僕の自覚していないところでは望んでいるかもしれない。
いや、多分望んでいるんだろうなぁとは思う。
じゃないとブログなんて作ってないんだろうし。
それでもやっぱり、欲するものがないのだ。
この、欲するための手段、生命活動を失っても構わないと思うくらいに。
かといって死にたいわけじゃない。
死にたい、というのも立派な望みだから。それすら無い。
長くなったけれども、これが僕の現状態。
ただ死んでないだけ、ということ。
さて。今度こそ理由をば。
二つ前の記事で少し触れたけれども、
自分の描いた軌跡と、描く軌跡を残しておきたかったから。
こうやってカタチにすることで見えるものもあると思うし。
現時点での僕の思想をはっきりと残しておきたい。
春から旅にでるつもりなのだが、
それまでの期間で思想が変る可能性だってある。
そうなった時に、その変遷を確認したい。

また、練習という意味合いもある。
心変わりせず、旅に出ることになった場合に、
その体験と心境の変化を刻々と記録するつもりなので、それの。
生きて戻ることになったら自分のために、
戻らなかったら、ここをみている誰かのために。

そう。こういった、ブログというカタチで軌跡を残すのは、
書く気になれるというのももちろんあるのだけれど、
やはり読者が存在しうる、からだ。
読者が存在しうる環境に、僕自身何を期待してるのか把握していない。
何も残さずに死ぬのが嫌なのか?
止めて欲しいと思っているのか?
推して欲しいと思っているのか?
どれも正解では無いが、ブログにしている以上、間違いでも無いだろう。
まぁ、積極的にここを知らせるつもりはあまり無いし、
誰かがここを訪れるなんて、それこそ確率上の話だろうけど。

そんなこんなで描く望却曲線です。
さくさくと三つ目。
今回はなぜこれを作ったかについて。
春から、旅に出ようと思っている。
目的地は無い。
目的も無い。
戻るつもりも現時点では無い。
消極的な自殺かもしれない。
死ぬ前に戻るつもりになれるか。そんな旅。
自分探し、なんて言葉が以前はやったけれど、似たようなものかも。
本当の自分なんて別に要らないが、そろそろ決めなければと思った。
この、ただ死んでないだけの状態に決着を。
生きたいと思わない。死にたいと思わない。
だから、どちらかに決めるための旅に出る。
生きたいと思わなければ、どこかで野垂れ死ねるだろう。
だから、旅に出る。
と、結局これを作った理由までいかなかったか。
次の記事にぱす。
早々に二つ目の記事。
今回はタイトルについて。
候補として思いついたのが、
・我が人生に一片の悔い無し
・ノゾミナシ
・望無
・一歩手前。
・跡
そんなものだろうか。見返してみてもあまりぱっとしない。
タイトルは大事だと思う。
ラベルには対象物を整形する力があるから。
望却曲線、はわりと気に入っている。
現時点で僕の描こうとするものをよく表している。
僕が望みを忘れ描いてきた軌跡と、描いていく軌跡。
これからどうなるかはわからないけれど。
タイトルは途中変更できるようだから、いっか。
ブログというものを知ったのは最近。
大した手間も要らず、簡単にweb日記が書ける、と。
なるほど、これは便利なものだ。
無精者の僕にはぴったりである。
とりあえずテストも兼ねた記念すべき初記事はここまで。