前回の想で僕の「生きる」定義について話した。
僕は言葉について独自の定義を持っている。
いや、これは僕に限ったことではないはずで、
そのことに対する意識の差はあれど、皆そうだと思う。
人の心は千差万別。なのに言葉の数は限られてる。
それなら、ひとつの単語をとったとしても、
人によって示すものが異なるのは当然だと思う。
例えば、コーラという単語を例にとっても、
ペプシを想像する人、コカコーラを想像する人、等
人によって異なるものを想像するだろう。
より詳しく言葉を連ねることで、そういった齟齬はある程度回避できる。
示すものが物体ならそれは容易に可能だ。
しかし、概念だとするとそうはうまくいかない。
既に挙げた「生きる」に然り。愛とか、友情とか、信じるとか。
僕はこれらに対する明確な定義をまだ持っていない。
だから、これらの言葉を使うことに抵抗があるし、
使う人に対しては、必要ならばその定義を問いただすつもりだ。
まぁ、その必要にせまられたことは未だ無いけれども。
そういった、実際使用する場合に支障のない範囲で
詰められて構築されていったものが言語なのかなぁ。
とすると、詳細な形容をつけられない概念の類は、
正確に伝える必要が少なかったということなんだろうか?
それは決して、確固とした共通認識があるから、
ということではないんだろうなぁって思います。
僕は言葉について独自の定義を持っている。
いや、これは僕に限ったことではないはずで、
そのことに対する意識の差はあれど、皆そうだと思う。
人の心は千差万別。なのに言葉の数は限られてる。
それなら、ひとつの単語をとったとしても、
人によって示すものが異なるのは当然だと思う。
例えば、コーラという単語を例にとっても、
ペプシを想像する人、コカコーラを想像する人、等
人によって異なるものを想像するだろう。
より詳しく言葉を連ねることで、そういった齟齬はある程度回避できる。
示すものが物体ならそれは容易に可能だ。
しかし、概念だとするとそうはうまくいかない。
既に挙げた「生きる」に然り。愛とか、友情とか、信じるとか。
僕はこれらに対する明確な定義をまだ持っていない。
だから、これらの言葉を使うことに抵抗があるし、
使う人に対しては、必要ならばその定義を問いただすつもりだ。
まぁ、その必要にせまられたことは未だ無いけれども。
そういった、実際使用する場合に支障のない範囲で
詰められて構築されていったものが言語なのかなぁ。
とすると、詳細な形容をつけられない概念の類は、
正確に伝える必要が少なかったということなんだろうか?
それは決して、確固とした共通認識があるから、
ということではないんだろうなぁって思います。