2.眩暈と戦慄
非知という転回点に臨んで、〔絶対的意識の〕運動は、「一切を問いの中に立てる不確信」(die alles in Frage stellende Ungewissheit)を貫き通すことへと、逆転する〔ことがある〕。この転回点を通って進行してゆくこと〔運動〕は、様々な心的現象に即して特徴づけることができる。眩暈を催すことと戦慄することという感性的状態は、絶対的意識の運動にとって、ひとつの比喩である。つまり、絶対的意識は、総てのものが〔無常に〕消え去る中において、根源に触れながらも根源からぽっかり浮かび上がってしまうのであるが、そういう絶対的意識にとって、ひとつの比喩なのである。眩暈のなかで私は自分の客観的な支えを喪失してしまい、崩れてしまう。戦慄のなかで私は、摑み取ることができるはずのものから、身を引いてしまう。無制約的なもの(das Unbedingte)へ向かう運動として、私は、様々な限界状況を思惟することのなかで眩暈を催し、この限界状況に面と向って能動的選択によって摑み取るべき決断(Entscheidung)の前で、戦慄してしまうのである。
眩暈は、場所から動かないのにどんな堅固な立場も奪ってしまう回転運動(Drehbewegung)として、理論的な形而上学思想のための比喩であり、このような思想において私は思惟可能なものを〔すべて〕超越するのである。眩暈を催すことのなかで、消極的には現存在の現象性(Erscheinungshaftigkeit)が、積極的には超越者の存在の確信が、感得可能となる。どんな場合でも、眩暈は、客観性の瓦解である。眩暈が生じるところでは、知は止む。ゆえに、「一切は原理において客観的に知ることが可能である」という前提では、眩暈は、「それが生じる場合、間違って思惟されているにちがいない」、という論拠となる。しかし、思惟可能性〔思惟することができるということ〕は、現存在としての現象形式であるにすぎないのだから、眩暈は、逆に、存在の深みの中に踏み入るための可能的根源となるのである。
したがって、眩暈を催すことは、哲学することのひとつの根源である。眩暈は、なるほど、そこにおいては一切がただ取り乱れて混沌(カオス)のなかへ戻され沈没してしまうところのものであり、〔それ自体としては〕無である。しかし、眩暈は、哲学的には、思惟における思慮深い眩暈生起である場合、一切が回転して渦を巻くようであっても、この渦巻きは謂わば私の手中にあるのである。そのとき、私は眩暈を通して、了解しないながらも〔何かを〕了解するのである。私は眩暈において限界にぶつかったのであり、人間というものはこの限界において、自分自身の影を超えて跳躍するという不可能なことを欲するものである。しかし〔この〕運動においてはっきりとしてきたものがある。それは、この〔限界までゆくという〕運動においてのみ私にとって明らかとなるものであり、この運動がなければ明らかとならないものである。そしていまやこのものが、帰還されたもの〔そこへと私が帰還したもの〕として、規定的な〔具体的に一定の〕哲学的思惟を導く(lenken)のである。
〔切り立った〕垂直な深淵の上での 眩暈は、〔その中へ〕落ち込む衝動を私が覚え、戦慄しつつ後ずさりする場合、ひとつの破壊意志の比喩である。この破壊意志は、絶対的意識の運動において遭遇するものであって、あたかも、ひとつの誤り導こうとする声が、「一切は破滅させられなければならない」と語るかのようである。この声には、深淵の中に沈没させようとする暗黒の引力が働いている。この声に向って進んで意志することは、目標なき敢行であり、これは充溢から為されるのではなく、絶望(Verzweiflung)から為されるのである。この破壊意志に対しては、現存在の有限的秩序が、根拠を欠いているゆえに表面的な生活統制としてであるが、対置される。一方では、この破壊意志に対して、信仰をもつ愛の真実な熱情(der echte Enthusiasmus glaubender Liebe)が、対置されるのである。そのような〔二つの〕可能性の間で、眩暈のなかで戦慄する衝迫(Drang)は、ただ表面性の欺瞞を去ってのみ、真の存在あるいは真の無へと、〔我々を〕運動させるのである。そしてこの衝迫は、突如、決断の前に立つのである。最初(第一)の経験において可能性が見えるようになったので、次(第二)の経験として、知りつつ選択が為されることになるのである。〔この選択とは〕すなわち、実存が自らに帰還して存在を確信するか、それとも、負い目(Schuld)を増大させつつ逃避を始めるか、の選択〔あれか - これか(entweder - oder)〕なのである。この負い目(罪)は、ただ無において終焉することを知る。
眩暈を催して倒れることには、まだ、存在へ向き直る可能性がある。「元に戻れない」という意識は、「欲さない」ことの表現であることもある。「窮極決定的である」という一種の宿命論は、この場合、自分を自分から解き放つことをしない空虚な行為の受動性を示している。しかしほんとうに、何か元に戻れないものがあって、このものが永遠な決断を意味する場合には、このこと自体が、時間というものの只中での存在の基準となるのである。この基準において、この意識は己れの深みのなかへ駆られることになる。深淵に面しての法外な可能性が、「実存する」という現実の根源となり、概念把握できない仕方でひとは自己自身へ至ることになるのである。〔II.264-265〕
- 以上、「眩暈と戦慄」の項全訳。-
〔初回:2016-03-08 14:04:14 第二回:03-09 00:07:14〕
非知という転回点に臨んで、〔絶対的意識の〕運動は、「一切を問いの中に立てる不確信」(die alles in Frage stellende Ungewissheit)を貫き通すことへと、逆転する〔ことがある〕。この転回点を通って進行してゆくこと〔運動〕は、様々な心的現象に即して特徴づけることができる。眩暈を催すことと戦慄することという感性的状態は、絶対的意識の運動にとって、ひとつの比喩である。つまり、絶対的意識は、総てのものが〔無常に〕消え去る中において、根源に触れながらも根源からぽっかり浮かび上がってしまうのであるが、そういう絶対的意識にとって、ひとつの比喩なのである。眩暈のなかで私は自分の客観的な支えを喪失してしまい、崩れてしまう。戦慄のなかで私は、摑み取ることができるはずのものから、身を引いてしまう。無制約的なもの(das Unbedingte)へ向かう運動として、私は、様々な限界状況を思惟することのなかで眩暈を催し、この限界状況に面と向って能動的選択によって摑み取るべき決断(Entscheidung)の前で、戦慄してしまうのである。
眩暈は、場所から動かないのにどんな堅固な立場も奪ってしまう回転運動(Drehbewegung)として、理論的な形而上学思想のための比喩であり、このような思想において私は思惟可能なものを〔すべて〕超越するのである。眩暈を催すことのなかで、消極的には現存在の現象性(Erscheinungshaftigkeit)が、積極的には超越者の存在の確信が、感得可能となる。どんな場合でも、眩暈は、客観性の瓦解である。眩暈が生じるところでは、知は止む。ゆえに、「一切は原理において客観的に知ることが可能である」という前提では、眩暈は、「それが生じる場合、間違って思惟されているにちがいない」、という論拠となる。しかし、思惟可能性〔思惟することができるということ〕は、現存在としての現象形式であるにすぎないのだから、眩暈は、逆に、存在の深みの中に踏み入るための可能的根源となるのである。
したがって、眩暈を催すことは、哲学することのひとつの根源である。眩暈は、なるほど、そこにおいては一切がただ取り乱れて混沌(カオス)のなかへ戻され沈没してしまうところのものであり、〔それ自体としては〕無である。しかし、眩暈は、哲学的には、思惟における思慮深い眩暈生起である場合、一切が回転して渦を巻くようであっても、この渦巻きは謂わば私の手中にあるのである。そのとき、私は眩暈を通して、了解しないながらも〔何かを〕了解するのである。私は眩暈において限界にぶつかったのであり、人間というものはこの限界において、自分自身の影を超えて跳躍するという不可能なことを欲するものである。しかし〔この〕運動においてはっきりとしてきたものがある。それは、この〔限界までゆくという〕運動においてのみ私にとって明らかとなるものであり、この運動がなければ明らかとならないものである。そしていまやこのものが、帰還されたもの〔そこへと私が帰還したもの〕として、規定的な〔具体的に一定の〕哲学的思惟を導く(lenken)のである。
〔切り立った〕垂直な深淵の上での 眩暈は、〔その中へ〕落ち込む衝動を私が覚え、戦慄しつつ後ずさりする場合、ひとつの破壊意志の比喩である。この破壊意志は、絶対的意識の運動において遭遇するものであって、あたかも、ひとつの誤り導こうとする声が、「一切は破滅させられなければならない」と語るかのようである。この声には、深淵の中に沈没させようとする暗黒の引力が働いている。この声に向って進んで意志することは、目標なき敢行であり、これは充溢から為されるのではなく、絶望(Verzweiflung)から為されるのである。この破壊意志に対しては、現存在の有限的秩序が、根拠を欠いているゆえに表面的な生活統制としてであるが、対置される。一方では、この破壊意志に対して、信仰をもつ愛の真実な熱情(der echte Enthusiasmus glaubender Liebe)が、対置されるのである。そのような〔二つの〕可能性の間で、眩暈のなかで戦慄する衝迫(Drang)は、ただ表面性の欺瞞を去ってのみ、真の存在あるいは真の無へと、〔我々を〕運動させるのである。そしてこの衝迫は、突如、決断の前に立つのである。最初(第一)の経験において可能性が見えるようになったので、次(第二)の経験として、知りつつ選択が為されることになるのである。〔この選択とは〕すなわち、実存が自らに帰還して存在を確信するか、それとも、負い目(Schuld)を増大させつつ逃避を始めるか、の選択〔あれか - これか(entweder - oder)〕なのである。この負い目(罪)は、ただ無において終焉することを知る。
眩暈を催して倒れることには、まだ、存在へ向き直る可能性がある。「元に戻れない」という意識は、「欲さない」ことの表現であることもある。「窮極決定的である」という一種の宿命論は、この場合、自分を自分から解き放つことをしない空虚な行為の受動性を示している。しかしほんとうに、何か元に戻れないものがあって、このものが永遠な決断を意味する場合には、このこと自体が、時間というものの只中での存在の基準となるのである。この基準において、この意識は己れの深みのなかへ駆られることになる。深淵に面しての法外な可能性が、「実存する」という現実の根源となり、概念把握できない仕方でひとは自己自身へ至ることになるのである。〔II.264-265〕
- 以上、「眩暈と戦慄」の項全訳。-
〔初回:2016-03-08 14:04:14 第二回:03-09 00:07:14〕