村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋、2013年)を数年ぶりに再読して、改めてすごくいい小説だなあと思ったので(特に詳細なあらすじの説明等もなく感想を書いていくので、読了後にお読みください)。
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』文藝春秋、村上春樹、モーリス・ルイス(イラスト)
デビュー作である『風の歌を聴け』(1979)や『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)を読んだ直後に読み返すと、文体が恐ろしく洗練されている、とまず率直に感じる。この小説には無駄な文章が一行もない。初めて触れた村上作品が『1Q84』(2009-2010)だったこともあって、文体は最近の村上春樹の方が確実に好きだと思う。この文体の変化が1995年を経てのものなのかは自分にはよくわからないのだが、よく言われる「デタッチメントからコミットメントへ」の流れに文体の変化も位置づけられるのであれば、なおさら「コミットメント」以後の作品をより読むべきなのではないかと個人的には思っている(本業の村上春樹の研究者には怒られそう)。
「洗練」というのは作品の設計の中にも見て取れる。「調和のとれた完璧な世界」を描くのに、20年以上前に書かれた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と比較すると、2つのセクションと2人の主人公をこしらえ、「計算士」だの「夢読み」だの「頭骨」だの「僕の頭の中の閉じたディストピア」だのがちゃがちゃした設定を多々持ち出していたのに対し、本作では色彩をまとったキャラクターを4人と「色彩を持たない」主人公1人を用意するだけで調和のとれた完璧な世界(=ユートピア/ディストピア)を描くことに成功している。これは手法の洗練と呼ばねばならない事象だと思うのだが、どうだろうか。実際、「世界の終り」セクションにおける「僕の無意識の中の壁で囲まれた街」と本作の五人組の共同体は世界観としては全く同型であることは以下の引用からも明らかである。
「『ガールフレンドを作って、普通に一対一でデートしたいという気持ちは僕にもあったよ。セックスにももちろん興味があった。人並みにね。グループの外でガールフレンドをつくるという選択肢もあった。でも当時の僕にとって、その五人のグループは何より大事な意味を持つものだった。そこから離れて何かをするということはほとんど考えられなかった』
『そこには見事なばかりの調和があったから?』
つくるは肯いた。『そこにいると自分が何か、欠くことのできない一部になったような感覚があった。それは他のどんな場所でも得ることのできない、特別な種類の感覚だった』
沙羅は言った。『だからあなたたちは、性的な関心をどこかに押し込めなくてはならなかった。五人の調和を乱れなく保つために。その完璧なサークルを崩さないために』
『あとになって振り返れば、たしかに不自然な要素があったかもしれない。しかしそのときには、それが何より自然なことに思えたんだ。僕らはまだ十代だったし、何もかもが初めて経験することだった。自分たちの置かれた状況を客観的な目で見渡すことなんて、とてもできなかった』
『つまり、ある意味ではあなたたちはそのサークルの完璧性の中に閉じ込められていた。そういう風に考えられない?』
つくるはそれについて考えてみた。『ある意味ではそうだったかもしれない。でも僕らは喜んでその中に閉じ込められていた。そのことは今でも後悔していないよ』
『とても興味深い』と沙羅は言った。」(218-19:数字は頁数を示す)
さて、本作のポイントは、主人公・多崎つくるの視点を通した語りがとかく曖昧で信用ならない、というところに尽きると思う。つくるくんは自己肯定感がとんでもなく低いうえに、とても鈍感である。なにせ灰田くんの口の中に射精したことが夢なのか現実なのかすらよくわかっていないという有様なのだ(118-19)。あたかもつくるが第三者的に、客観的に、語っているように見せかけて、つくるの一人称に基づくかなりバイアスのかかった視点から物語世界に参入していることに読者は自覚的でならなければならない。
つくるがなぜそんなキャラクターなのかというと、それもまた五人組の世界に起因する。
「『僕はつくるのままでかまわないのかな?』
『君はいつもつくるだよ』と言ってエリは静かに笑った。『それでかまわない。ものを作るつくるくん。色彩を持たない多崎つくるくん』」(285)
フィンランドにて16年振りに再会した「クロ」ことエリは「色彩を持たない多崎つくるくん」という文言をポジティブな意味合いで使っている(つくるは「色彩を持たない」=「無色」という色を持つ、とエリは思っている)と思われるのだが、当のつくるにとっては他の4人と違って名字に「色彩を持たない」ということがコンプレックスであったことは冒頭の語りからわかる。
「彼はただそのまま『つくる』と呼ばれた。もし自分が色のついた姓を持っていたらどんなによかっただろうと、つくるは何度も真剣に思ったものだ。そうすればすべては完璧だったのに。」(8)
現在のつくるの人格形成において「ある日、突然、世界から追放される」という出来事が決定的であったことは間違いないのだが、なんとなく五人組の世界の出来方に伴って、最初からコンプレックスを持つ羽目になってしまったのではないかと感じる。
ここで、本作の批判点として挙げられがちな「キャラクター造形にリアリティがない」ということに言及しなければならない。
本作のキャラクター造形について、色のイメージを使った人物造形はステレオタイプ的だと言えるし、つくるくんが駅を作るのなんて短絡的に過ぎると思う。だが、ポイントはそこではない。本作の(ステレオタイプ的で短絡的な)人物造形を通して、現実における我々の認識、特にあるコミュニティにおける自己と他者の振る舞いについての認識の仕方も、案外そんなもんじゃないか、ということを読者に突き付けているところにポイントがある。
「あの人は〇〇キャラだから~~」と特定の個人をその人が属するコミュニティにおけるキャラとして認識し、そのように振る舞うことを無意識的に期待してしまうし、自分もそのようなキャラに合った振る舞いをきっとしている。それは、本作における戦隊ヒーローよろしくな五人組の色に基づく振る舞いの仕方と何ら変わらないように思われる。
本作においてはたまたま色を名字に持つ4人と持たない1人が集まって出来たグループが、その色のイメージを反映したような振る舞いをキャラクターがしているということであって、「グループに調和をもたらすようなキャラを各個人が演じることで共同体を維持する」ということ自体は、我々が日常において特に深く考えずに行っている振る舞いなのではないか、ということだ。
仲良し5人組のコミュニティから追放され、<無色>というキャラをある日突然降りざるを得なくなったつくるくんは、その共同体から離れたという理由だけで、かつての友人たちに何が起きたかさえ知らずに16年もの歳月を過ごしたことになる。もしかしたら一生知らないまま生涯を終えていたかもしれない。特に、シロに何が起きたのか、そしてシロがどのような末路を辿ったかすら知ることもできなかった。シロの死は、シロにまつわる最大のニュースであったはずなのに。
このように、調和のとれたコミュニティを追放された結果、「色彩を持たない」多崎つくるですらなく、ただ「多崎つくる」という曖昧な個人としてひよひよ漂わなければなかった(し、ある意味それは幸福だったとも言える)ということは結構きついものがある。だが、こういうことを考えさせてくれるこの物語は、やっぱりよく出来ているなあ、という感慨を抱かざるを得ないのである。
本作の最大の謎である、シロは本当は誰にレイプされ、誰に殺されたのか?という謎は、結局のところはっきりとした答えを筆者は提示しない。だが、はっきりとした答えは相変わらず不明な一方で、物語内でつくるが散々逡巡するような「俺がやったわけはないんだけど、俺がやったかもしれない」という感慨が大事なのではないか、というのが私の読みだ。
要するに「村上春樹と可能世界」(千田洋幸「死者と可能世界」より)(※1)という話になるのだが、本作ではシロがつくるにひどいことをされなかった世界線と、シロがつくるにひどいことをされた世界線が、曖昧に錯綜している。後者に関してはつくるが度々見るシロに射精する性夢や、つくるがシロのもとへと巡礼する妄想が該当する。
「そんな夢について考えると、ユズは彼にレイプされたと主張しても(その結果彼の子供を受胎したと主張しても)、それはまったくの作り話だ、自分には思い当たるところはないと断言することはつくるにはできなかった。夢の中での行為に過ぎないとしても、自分にも何かしらの責任があるのではないかという気がしてならなかった。いや、レイプの件だけじゃない。彼女が殺されたことだってそうだ。その五月の雨の夜、自分の中の何かが、自分でも気づかないまま浜松まで赴き、そこで彼女の鳥のように細く、美しい首を絞めたのかもしれない。
彼は自分がユズのマンションのドアをノックし、『開けてくれないか?君に話があるんだ』と言っている光景が目に浮かんだ。彼は黒く濡れたレインコートを着て、夜の重い雨の匂いを漂わせていた。
『つくる?』とユズは言う。
『君にどうしても話さなくちゃならないことがある。とても大事な話なんだ。僕はそのために浜松までやってきた。時間はかけない。ドアを開けてほしい』と彼は言う。閉じたドアに向かって語り続ける。『連絡もなく急に押しかけてきて、申し訳ないと思う。でももし前もって連絡したら、君はきっと最初から会ってくれなかっただろう』
ユズはしばらく迷ってから、黙ってドア・チェーンを外す。彼の右手はポケットの中の紐をしっかりと握りしめている。」(317)
これまでアオ、アカ、クロへと巡礼するつくるの様子を追いかけてきた読者にとって、シロのもとへ訪れ、シロにドア・チェーンを外させたつくるの「連絡もなく急に押しかけてきて、申し訳ないと思う。でももし前もって連絡したら、君はきっと最初から会ってくれなかっただろう」という言葉は限りなく「あり得そうな」響きを持っていることがわかる。
「『仕事場に突然押しかけて悪かった。でもそれがいちばんいいような気がしたんだ』」(アオ、155)
「『朝から突然押しかけて悪かった』……『そうしないと会ってもらえないかもしれないと思ったんだ』」(アカ、182)
「『先に連絡したら、会ってくれないかもしれないと思ったんだ』」(クロ、284)
それでも、このシロへの文言は、つくるの「表の顔」ではなく、つくるが「裏の顔」と言うような、可能世界のつくる・もう一人のつくるが言っているのだと思う。それは、本作で描かれる表向きのつくるとは言葉の使い方が若干違うことからわかる。他3人への「いちばんいいような気がした」「会ってくれないかもしれないと思った」という確信度合いの低い言い方からすると、「最初から会ってくれなかっただろう」という言い方は語気が強い。「あり得そうな」響きを持っているが、やっぱり違う人が言っているような気もするというところに、つくるの語る世界の曖昧さと共に、つくるという人格自身の曖昧さや不確かさが表れている。
というわけで、個人が語る人格と、その個人から見える世界は、斯くも曖昧で不確かである、ということがこの小説から汲み取るべき<真実>なのではないか、というのが私の全体的な読みだ。
あれほど調和のとれていた色彩の5人組の世界が、ある日突然あっけなく崩壊してしまったように、どんなに確実のように見えても、世界はこんなに曖昧で不確かなのである。もちろん、それは1995年の現実世界で起きた、二つの災厄を射程に捉えた上での認識であることは言うまでもない。
「もしそんな極端に混雑した駅や列車が、狂信的な組織的テロリストたちの攻撃の的にされたら、致命的な事態がもたらされることに疑いの余地はない。その被害はすさまじいものになるだろう。鉄道会社で働く人々にとっても、警察にとっても、もちろん乗客たちにとっても、それは想像を絶する悪夢だ。にもかかわらず、そのような惨事を防ぐ手立ては今のところはほとんどない。そしてその悪夢は一九九五年の春に東京で実際に起こったことなのだ。」(349)
※1:千田洋幸『危機と表象』所収。おうふう、2018年、61頁。