※画像は西部田の地名を表す神社の標識
※この随筆は2006年6月5日に執筆したものに加筆修正しました。
つげ義春は1937年生まれ。私の父の一つ下、現在(随筆執筆当時す)70歳である。
彼は葛飾で生まれたが、子供の頃母の郷里である千葉の大原に転居して過ごしたせいか、大原の風景が脳裏に焼きついているらしい。日本漫画史上燦然と輝く最高傑作『ねじ式』にも大原の景色が下地に描かれている。
参考
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【『ねじ式』】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AD%E3%81%98%E5%BC%8F
「ねじ式の原風景と千葉最古の温泉/太海・こはら荘、曽呂温泉」
https://hina-ken.com/?p=1603
母の故郷の大原があるからだろう、つげはよく房総へ旅に出た。『庶民御宿』という小品は友人とオートバイで房総に出かけたときを描いた作品で、私はこの作品で「千葉女にマラ見せるな」という言葉を覚えた。
参考
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【『庶民御宿』】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B6%E6%B0%91%E5%BE%A1%E5%AE%BF
このように、つげの作品は房総を舞台にした作品が多数ある。そんな房総にあるつげ作品の舞台を歩いてみた。
先日の2日、3日と千葉市で組合の合宿が開かれた。二日目は日曜の正午に散会になるのが恒例で、その後時間を持て余してしまうので、今回はバイクで行って、合宿終了後あてもなく房総へと向かった。
当初は房総にあるお気に入りの温泉にでも入る予定だったが、バイクを流しているうちに、以前から気になっているつげ作品の舞台の村を思い出し、そこを目的地に決めた。
『西部田村事件』は1967年、つげが30歳、私が生まれた年の作品である。これはつげ義春作品の“旅モノ”の傑作と称され、作品の中に実在の部落が登場している。西部田村とは実在の地名である。
参考
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【『西部田村事件』】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%A8%E7%94%B0%E6%9D%91%E4%BA%8B%E4%BB%B6
この作品、傑作かどうかはさておき、読んだことがない読者に簡単なストーリーを紹介しよう。
『西部田村事件』とは、主人公が西部田村へ釣りをしに旅にきたとき、西部田村療養所という精神病院から患者が脱走した騒動の顛末を描いたものである。本当にこのような事件があったかどうかは不明である。
この患者、茂原出身の千葉大学商学部中退の若者である。
憲さん、何故か身につまされる。
ちなみに千葉大学に過去も現在も商学部は存在しない。あるのは法経学部であり、男子学生は入学を敬遠しがちだ。
村は患者の脱走を受けて大騒ぎである。主人公は喧騒を離れ、釣り場を探し川沿いの道を歩いていると浴衣にスリッパ姿の患者に遭遇する。彼らは意気投合し、夷隅川で川遊びをして戯れるが、患者が堰堤工事の穴に足を踏み入れてしまい、保護されるという他愛のない話である。
房総の片田舎、夷隅川流域の60年代の秋口の風景が描写されていて、なんともいえない味のある作品である。
つげは実際、よくこの大多喜に来たそうである。あるサイト(現在閉鎖)にもこう書かれている。抜粋しよう。
以下、サイトの抜粋
また、この年(1965年)の冬、白土三平氏が『つげを励ましてやろう』と、つげを誘い二人で千葉県大多喜(2004年合併され外房市となる)へと向かう。大多喜は大多喜城の眼下に広がった、周りを夷隅川と丘陵に囲まれた静かな城下町で、彼らはそこに10日~半月程度滞在した。ここでの生活は後のつげ作品に大きな影響を与えている。
『夷隅川の深いトロはまるで沼のように見える』ところから『沼』が生まれた。
西部田村は大多喜の隣に位置し、つげは白土氏と毎日のようにこの辺りを釣り歩いたようだ。これは、『西部田村事件』に繋がっている。
この時泊まっていた宿の客室の窓には対岸の森が広がっている。ある日その一部分だけに雨が降っているように見えた。白土氏が帰京した後、彼が一人で宿に残っていた日のことである。また、この宿には現在は動いていない大きな柱時計がある。もちろん、これは『初茸がり』である。
以上、引用おわり。
『沼』『初茸狩り』いずれもつげの名を世にしらしめた秀逸な作品である。また、大多喜で構想を得た『紅い花』も『ねじ式』に並び賞されるつげの最高傑作であろう。
ちなみに、つげが大多喜で宿泊した白土の定宿が現存するようであるが、今回のフィールドワークではこの宿は見逃してしまった。
次回の楽しみにととっておこう。
参考:
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【旅館寿恵比楼】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E6%81%B5%E6%AF%94%E6%A5%BC%E6%97%85%E9%A4%A8
「いすみ鉄道いすみ線 - 大多喜駅 房総の小江戸 大多喜 × 名物 猪十六丼(後編)」
https://wildenmann.blog.fc2.com/blog-entry-627.htmll
と、お気づきだと思うが、つげの漫画には旅ものが多く、その足跡を辿って歩くマニアが多数存在するようである。
何を隠そう、私もそうだ。
そのガイド的書籍も発行されている。
こちら!
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高野慎三著『つげ義春を旅する』ちくま文庫
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784480036278
大多喜はそんなつげマニアの巡礼地にもなっているそうだ。
私も数年前、自分の地図に『西部田』の地名を発見したときは少なからず興奮を覚えた。
千葉から大網街道で大網に向かい国道128号で茂原へと向かう。よく使う走りなれた道だ。
茂原から県道27号で大多喜に向かう。この道は初めてだ。
道の両脇は青々と稲穂が揺れている。房総の典型的な田園風景だ。天気もよく気分は爽快だ。
程なく大多喜に着く。結論的には西部田には大多喜市街を経由していくのだが、分からず県道172号の裏の方からアプローチした。
すると『大多喜沢山温泉』の看板に出くわす。
うんにゃ???
房総の温泉は全て知っていると自負する私も聞いたことのない温泉である。
看板に誘われるように行くとゴルフ場の敷地内へと入っていく。
敷地の奥まったところに立派な温泉施設が存在した。
千葉は北海道についでゴルフ場が多い土地柄である。ゴルフ場が多く、集客のため、温泉を掘り付加価値をつける。この施設もおそらくゴルフ場の経営者が運営するのであろう。
参考
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【大多喜沢山温泉(現在閉鎖か?)】
http://machispa.la.coocan.jp/html_chb_s/ootaki_sawayama.htm
バイクを停めて入浴しようかと玄関に近づいたところ、なんと入浴料が1500円!目玉が飛び出し、すごすごと退散した。
そのまま、ゴルフ場を抜けて引き返そうかと思ったら、さらに先へと砂利道が延びている。ここはオフロードバイクの出番、ままよ!とそのまま突き進んでいった。
すると!しばらく林道を行くと、道一杯にレジャーシートを広げた年配の女性グループが行く手にたちはだかる。バイクを停めて尋ねる「西部田というところに行きたいのですが・・・」「それならこの道真っ直ぐ行って右だっけ?左だっけ?」一生懸命説明してくれるが要領を得ない。ただ、この道が行き止まりでないことだけは分かった。
よくみると、彼女たちレジャーシートに色とりどりの紙を広げ、折り紙を楽しんでいっるようだ。
うんにゃ??
「ところでここで何をしているのですか?」
「折り紙したり、歌うたったり」
「楽しそうですね」
「楽しいさ~、はっはっはっ!」豪快に笑う。
房総では、林道で年配の女性が折り紙を折る風習があるようである。房総も奥が深くあなどれない。
礼を言って、先へ進む。途中橋があり下を覗く。房総独特の岩盤に赤茶色した水が流れている。綺麗とはいえないが独特の風情がある。
林道は間もなく舗装された道へと出たが、すぐに行き止まりになる。以前、景気のいいときは予算がついた道路工事も今は、利用価値がないといって放置されているようだ。無残である。
迂回して砂利道を行くとやっと集落へ出た。
ここが西部田部落なのだろうか?
分からないまま大きな道へ出ると夷隅川のむこうに「大多喜病院」の看板を掲げた病院が見える。
「この辺に間違いない」と確信する。
バイクを夷隅川にかかる橋のたもとの広場において調査を開始する。漫画にも描かれた部落にある神社を探す。
まず、北の方に向かうと寺があり、さらに神社があった。神社は山の中腹に樹木に隠れて社が見えたが、参道は藪に覆われて行く事ができない。諦める。そもそもここが西部田かどうかも分からないので民家の表札を見て確かめようとするが、表札さえ出ていない。人に聞くにも人すらいない。静かな集落だ。
引き返してバイクで通った道に戻る。
いた!第一村人発見!民家の庭におばあさんが立っていた。
「道を尋ねたいのですが」
「どこさ行く?」
「西部田というところに行きたいのですが」
「西部田はここだ。」
何の変哲もない寂れた田舎の部落だ。
漫画にあるような藁葺き屋根や土塀は見当たらない。それもそのはず。その漫画が描かれてからももう40年も経っているのだから。
老婆に礼を行って辺りを散策する。せめて「西部田」の地名を証拠にカメラに残したい。
必死になって探す。
すると県道沿いに神社があった。ここか?
鳥井をくぐり、参道の階段を登ると「疱瘡神社・・・」とある。疫病神の一種らしい。
参考
↓
【疱瘡神】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%B1%E7%98%A1%E7%A5%9E
社は新しく立派だ。
参道に戻ったとき見つけた。さっきの「疱瘡神社本社合祀記念植樹」の裏に「西部田氏子中」とある。ここが西部田であることを確信した。
※後から分かったのはこの神社は御国造神社(大国主神社)であり、この標識は疱瘡神社を合祀したときの記念のものであるらしい。
参考
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【疱瘡神社】
https://osanpo.yokohama/location.php?L_ID=4432&O_ID=0
神社を散策する。ここに来るとは思わず、用意していなかった漫画そのものを記憶を頼りに思い出すと、神社に大木があるはずである。
すると鳥井のすぐ近くにそれらしき大木が存在した。根元に注連縄を回し、鬱蒼とした立派な大木だ。ここに間違いないと確信した。
※これも後で分かったが、この神社が漫画に出てくる神社のモチーフになったようだ。
さらに部落の中を散策する。人がおらず閑散としている。車も通らない。
部落の真ん中に「西部田農家組合共同作業所」という鄙びた小屋がある。いい雰囲気だ。
その向かいには頭だけ真新しい地蔵があり、その周りにはその地蔵が眷属のように従えた、風化した道祖神や馬頭観音がひっそりと祀られていた。
バイクを置いた夷隅川にかかる川に戻り川面に目を落とす。「患者」の落ちた堰提工事の穴はどこなのか探したが、さすがに分からなかった。
※これも後で分かったが、そこは蟹取橋という橋から眺めることができたそうである。もしかしたら、この橋がそうだったかも知れないが確認するすべがない。
参考
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「旅するつげ義春」#1 「千葉県 大海・大多喜」
https://manganium.net/2021/04/29/tabi_001/
西部田部落を後に、大多喜城址にたつ千葉県立中央博物館大多喜城分館を訪れる。ここは外観は立派な城であるが、石垣を含め全て模造、それも架空の城であるらしい。展示物も甲冑や具足など私の琴線に触れるものはなかった。
ただ、帰りしな駐車場で話しかけてきた地元の親父さんに貴重な話を聞いた。彼は大多喜高校出身で現在、仕事は隠居して無職だそうである。
彼によると、大多喜病院は以前精神科の病院で「○○(←個人名)病院」といったようである。(西部田療養所ではない)現在三代目が次いでいるそうだ。
大多喜は盆地だが自然に囲まれ空気がいいので、以前は多くの療養所があったそうだ。
西部田は昔からの部落で、現在も尚、江戸時代から続く家が存在しているようである。
思わぬ情報である。親父さんに礼を行って大多喜を後にした。
つげの足跡を辿る旅は楽しい。彼は以前錦糸町に住んでいたり、立石の売血所で血を売った経験もある。それらも近場だがまだフィールドワークしていない。
また、東北や会津の温泉場もフィールドワークの対象だ。
今度はしっかりと準備して、その足跡を訪ねたいものだ。
帰り、目当ての温泉に寄ったが、営業時間を過ぎており、泣く泣く日も暮れて冷たくなった風を薄手のジャンバーでしのぎながら葛西のアパートへと一気に戻った。
どーよっ!
どーなのよっ?
参考
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「西部田を訪れる」
https://blog.goo.ne.jp/yamanei/e/51023cd421e8d42a1a9bc4198690233b
「憲さん随筆アーカイブス 『つげ義春とぼく』とぼく」
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2023/09/post-03c97d.html
憲さん随筆
「つげ義春氏芸術院会員就任記念! 憲さん夢ワールド全開『憲さん夢日記』大公開! 「憲さん落語協会から脱走する」の巻き!」
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2022/03/post-4adf46.html