最近は1日2記事UPする日も増えておりますが…
何しろ3ヶ月以上遅れで記事を上げているものですから。
早くどんどん上げていかないと
忘れてしまうことも多々あるでしょうし、
季節感すらもなくなるかも。
夏の終わりに新緑の写真記事がUPされてますし。
そのうち冬に上げる記事が
夏に撮った写真を…なんてことになりかねないので。
主要社、主要史跡、企画物記事等以外は
なるべく1日2記事UPにしようと。
かつては1日3記事UPしてたな…
あの頃は頑張ってたな…
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【読み下し文】(本書より原文引用)
御年の皇神等(すめがみたち)の前に白さく(まをさく)、皇神等の依さし奉らむ奥津御年を、手肱(たなひぢ)に水沫(みなわ)畫埀り(かきたり)、向股(むかもも)に泥畫寄せ(ひぢかきよせ)、取作らむ奥津御年を、八束穗の伊加志穗に、皇神等の寄さし奉らば、初穗をば千穎八百穎(ちかひやほかい)に奉り置きて、𤭖(みか)の閉高知り(へたかしり)𤭖の腹滿て雙べて(ならべて)、汁にも穎にも稱辭(たたへごと)竟へ(おへ)奉らむ。大野原(おおぬのはら)に生ふる物は甘菜・辛菜・靑海原に住む物は、鰭(はた)の廣物・鰭の狹物、奥津藻菜・邊津藻菜に至るまでに、御服(みそ)は明妙(あかるたへ)・照妙(てるたへ)・和妙(にぎたへ)・荒妙に稱辭竟へ奉らむ。御年の皇神の前に、白き馬白き猪白き鶏(かけ)、種種(くさぐさ)の色物(ものども)を備へ奉りて、皇御孫命の宇豆の幣帛(みてぐら)を、稱辭竟へ奉らくと宣る【現代語訳】(本書より原文まま引用)
穀物を掌り給ふ神々に申上げます事は、神々が天皇命に寄さし給ふ稻、卽ち農夫が手足を泥田に浸して、攪きまぜ、搔き寄せて作ります所の稻を、房々とした立派な穗に實らしめ給ふならば其の御禮(御礼)には、初穗は穗のままどつさり奉り、御酒にも醸して、高く太い甕に盛り竝べて奉りませう。又野に生える物では甘菜辛菜、海にあるものでは大小様々の魚、さては沖の藻、波際の藻に至るまで奉り、神御服(かむみそ)としては、美しい妙の品々を畫して(画して)奉りませう。特に御年神には白い馬、白い猪、白い鶏を始め、種々様々の品物をととのへて天皇命の貴い幣帛として、奉らせられる旨を一同にお告げ申す。
【補足】
◎「御年の皇神等」
同様の言葉が4ヶ所で見られます(赤字にしておきました)。
本居宣長はこの神を、大和国葛上郡(現在の御所市)に鎮座する式内名神大社 葛木御歳神社で祀られる神としました。一方、平田篤胤は「皇神等」とあることから一柱ではなく、相殿に祀られている御年神の父である大年神や、またその子である若年神などを併せて稱へたものであるとしました。
初めの3ヶ所は「皇神等」と複数、最後の1ヶ所は「皇神」と単数になっています。これは最後の1ヶ所は先の3ヶ所と区別する必要があったのではないかと、次田潤氏はみています。特に最後のみ馬猪鶏を獻じていることが明らかにしていると。
[大和國葛上郡] 葛木御歳神社
ここで明治~大正時代の神話・民俗学者である高木敏雄氏の説を挙げています。次田潤氏はこの説を採るとのこと。
━━祈年祭は元來特定の神を祭るのではなく、年の始に其の年の風雨が時を得て、五穀豊穣し、國家が太平無事であるやうにと祈るのであるから其の事に直接間接に關系(関係)のあるべき神々を祭るに當つて、之を總括して先づ、「御年皇神等」と複數(複数)に稱へてゐるのであると云ふ━━
この後には御年神が紀には登場せず、記にのみ表され、しかも須佐之男命の神裔として名のみ記されていることから、天孫民族の尊信を受けた神ではなく出雲神話に属する神であると。そして御年神が神祗官に於て「祈年祭」に祀られるやうになつたのは、出雲系の神話が天孫系の神話と妥協調和が成立したからとしています。
「御年の皇神の前に、白き馬白き猪白き鶏、種種の色物を備へ奉りて」この二十一文字(漢文体の原文では二十一文字となる)は、出雲系統の「御年祭」が「祈年祭」に預るやうになつてから、追加された部分であると論じていると。
この二十一文字を削つた方が體裁(体裁)が整ふからとし、
━━全體(全体)の體裁を破壊して、此二十一文字が追加されたのは、卽ち出雲系傳承の、宗教上に於ける勝利を意味するのである━━と。
つまり「御年皇神等」と「御年神」とは別系統の神であつて、而も御年神は後世追加せられたものである事が明白になつたとしています。
何なのでしょうね…この内容にもやもやとした違和感を抱くのは。
二十一文字があることに殊更體裁が整つていないとも感じないですし、出雲系傳承の「御年祭」が追加されたという考えの方が違和感を感じずにはいられません。宗教上の勝利…などといふのはあまりに飛躍し過ぎではないかと思うのです。
そもそもで云ふなら、四箇所のうち最後だけ「等」が無いのは、誤写の可能性すらあるのではないかと考えていますし。
高木敏雄氏の説は腑に落ちませんし、それを激しく支持する次田潤氏に對してもどうかと思います。
◎「奥津御年」
最も晩く(おそく)實る穀物の義。五穀の中で最も遅く實るのは「稻」。だから「奥津」という語を冠したとしています。
◎「手肱に水沫畫埀り」
田植えをするにあたり、農夫が水中に下り立ち、手肱(肘)を水に浸して働く苦労を表しているとのこと。
◎「向股に泥畫寄せ」
上の「手肱に水沫畫埀り」に対比させたもの。つまり股(足)をしっかり水に浸して苦労を厭わぬ様を表しているとのこと。
◎「八束穗の伊加志穗」
長くて勢いの良い穗のこと。「八」は多数の義、「伊加志」は「厳」の義。
◎「初穗」
其の年の最初に實った稻を、先づ神に獻るの義。
◎「千穎八百穎」
「千」や「八百」は多数のこと。「穎(かひ)」は殻のままの稻穗のこと。元々は「貝」から形状が似ていることから轉(転)じたものとしています。
◎「𤭖の閉高知り、𤭖の腹滿て」
「閉高知り」と「腹滿て」とが對句(対句)となっています。「𤭖」とは「瓶」「甕」と同義。「ミカ」の「カ」は容器の總稱。「平瓮(ひらか)」という平らな器のことが神武東征神話に記されます。
「カ」は轉じて「ケ」になります。「カハラケ(瓦笥)」(=土器)、「クシゲ(櫛笥)」などの「ケ」がそれ。ただし「ケ」は一般的に用ゐられるのに對し(対し)、「カ」は神事に關する物のみに用ゐられるとのこと。
「閉」は𤭖の上の部分を指すようです。「腹」はもちろん胴体の部分。「閉高知り」で𤭖を高く造って、「腹滿て」でそれを御酒で満たして、つまり一杯にして…ということ。
◎「汁」
御酒のこと。上の「知り(知る)」に著しくという義があり、それに掛けられているようです。
◎「甘菜辛菜」
「甘菜」は靑菜・薺(なづな)、「辛菜」は蘿蔔(おほね、大根)や野韮(のびる)の類いであるとのこと。種々の蔬菜を網羅しているようです。
◎「鰭の廣物・鰭の狹物、奥津藻菜・邊津藻菜」
こちらも上と同様。大小様々な魚類、様々な「藻」つまりワカメやヒジキ、ヒロメなど。
◎「明妙・照妙・和妙・荒妙」
上代の織物は麻・木綿(ゆう)・絹を原料とし、綿布は未だ用ゐられていなかったとしています。奈良朝に初めて海外からもたらされ、当時まだ一般の者には普及していなかったとのこと。
上代に最も普通に用ゐられたのは、「穀(かぢ)」の樹皮の繊維で織つた「帛」。之を「たへ」(栲)と云ひ、其の原料の楮(こうぞ)は「木綿(ゆう)」。
「穀」を原料とした「帛」は白色。「栲」は白色のまま用ゐたから、「衣」の枕詞に「しろたへの」を冠し、また「たへ」といふ名が一般に織物を指すようになったとしています。
さらに「たへ」は其の音を約めて「て」とも云ふと。「白和幣(しろにぎて)」の「て」はこれのこと。「靑和幣(あおにぎて)」もありますが、これは麻布であり、靑味を帯びているからと「古事記伝」にはあるようです。
一方で「衣」を冠する「明・照・和・荒」の解釋には種々あるようです。其の中から次田潤氏の推しを一つ。
━━「明」も「照」も共に織り立てたものの美麗しきを云ひ、「和」は絹布を云ひ、「荒」は布を云ふ━━
これを踏まえて以下を記しています。
━━思ふに「妙」は織物の總稱であつて、それに「明」「照」を冠して光澤を表し、「和」「荒」を添へて織地の種類を表し、此の四語によつて、種々の織物を奉る事を表したと見るのが最も穏當であらう━━
[大和國添上郡] 穴栗神社
(靑和幣・白和幣などの四柱がご祭神)
◎「白き馬白き猪白き鶏」
先に「御年の皇神等」の項に於て、高木敏雄氏の説が掲げられました。其の最後の「御年神」に限つて、三種の白色動物を奉る事になつてゐる由来について疑問が残るとしています。
ここで「古語拾遺」の末尾に、此の特殊の動物を供へる事の因縁を物語る傳説が載せられています。本書では漢文の原文のままに掲載されていますが、こちらでは意訳文にて。
━━昔、神代に大地主神(オオトコヌシノカミ)は田を造営する日に牛の宍(牛肉)を田人に食べさせた。そのとき御年神の子がその田にやってきて、饗(あへ、ここでは牛肉のこと)に唾を吐いて帰り、その状況を父に報告した。御年神は怒り、蝗(おおねむし、=イナゴ)をその田に放ち、苗葉はたちまちに枯れ損なわせ篠竹になした。ここで大地主神は片巫(かたかむなぎ) [志止止鳥・シトトトリ]・肱巫(ヒジカムナギ) [今俗に云う竈輪(かまわ)と米占(よねうら)] をして、その理由を占い求めたところ、「御年神の祟りであるため白猪・白馬・白鶏を献上しその怒りを解くべきだ」となった。その教え通りに謝り奉った。御年神は答えて言った。「まことに我が意志である。麻柄を桛(カセヒ、糸を巻き取る道具)を作り、それで宜しく桛をするように。乃ちその葉で蝗を掃い、天押草で蝗を押し、烏扇で蝗を扇ぎなさい。もしそれでも蝗が出て来ないならば、牛の宍を田の溝の口に置き、男茎の形にして加え添え [是は御年神の心を和ませる也] 薏子(ツスダマ、=ハトムギ)・蜀椒(ハルハジカミ、=山椒)・呉桃(クルミ)の葉と塩をその畔に分けて置くように」と。[古語で薏子は都須玉也] 仍ちその教えに従うと、苗葉がまた茂り、年穀も豊かに実った。是は今、神祇官が白猪・白馬・白鶏を以て御年神を祭る由縁である━━
この一節は神代に重要な祭祀を掌つてゐた斎部(忌部)氏が、現在は要職から外されてゐることなどを訴へる十一の条文が示された後、不自然にこの一節が載せられています。
高木敏雄氏の説には特殊動物が獻じられる理由が示されておらず、星野日子四郎氏の研究による説を載せています。
「隋書」の眞臘國(現在のカンボヂア)の記事に、疫癘鎮禳(疫病鎮魂と似た意味かと思われます)の他に、五穀豊穣六畜繁殖等の祈願を行ふ門外祭に於ても、「白猪白牛白羊」の三牲を奉る慣習が行はれてゐて、是が志那に傳わつたいふ事が記されているようです。此の「隋書」は奈良朝に將來されていたとのこと。
おそらくこれが元ネタであろうとされます。現在は既にこれが定説化されていますが。
◎「宇豆の御幣」
今回はここまで。
記事作成にずいぶんと時間を要しました。これも自身の身になっていくと捉え励んでおります。
入れたら入れた分だけ抜けていくと
最近は感じることが多いのですが。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。