また垂仁紀三十九年に、「茅渟」の「菟砥川上宮」にて大刀一千口を作ったとあります。これは石上神宮の「天神庫(あめのほくら)」に移され、御神体となったもの。「菟砥川上宮」の推定地は5kmほど東。
◎当社を挟み東西に築かれた巨大前方後円墳が2基あります。一基は五十瓊敷入彦命に治定される宇度墓(淡輪ニサンザイ古墳)。もう一基は
西陵古墳。このどちらかが紀小弓の墓であろうとされます。淡輪ニサンザイ古墳は5世紀後半に推定、西陵古墳は5世紀前半に推定。なお紀小弓が亡くなったのは5世紀後半、五十瓊敷入彦命が薨去(朝敵となったという伝承有り)したのは4世紀代と思われます。
◎五十瓊敷入彦命と紀氏との直接的な繋がりは見出だせません。ところが肥国から遥々畿内へ運び込まれたという「阿蘇ピンク石」製石棺が、紀伊国造家に大いに絡んでいると思われますが、石上神宮のかつての神域内に築かれた古墳にもいくつか用いられています。さらに五十瓊敷入彦命の治定墓名は「宇度(うど)墓」。「阿蘇ピンク石」製石棺が運び出された肥国の地は「宇土(うど)半島」。これは単なる偶然でしょうか。
また五十瓊敷入彦命が作ったという大刀一千口は、紀伊国造家が掌握していた船運を利用したものと考えています。ちなみに桓武天皇の御代に山城国へ遷そうとした時には、十五万七千余人を要したとのこと。五十瓊敷入彦命の時代にこれほどの大がかりな運送は、紀伊国造家或いは同族の船木氏しか考えられません。
◎現在のご本殿は豊臣秀頼の命により建てられたもので、国の重要文化財に指定。神域内の楠の大樹は樹齢300年以上(環境庁による、当社案内は400年以上とする)とされ、府の天然記念物に指定。