◆ 火吹く人たちの神 ~23






古代の「鉄山師」が鉱山を見付ける際に、
あたり構わず探し回って見付け出していたのか、或いはある程度は見当を付けてから探し出していたのか…

ちょっと気になっています。

「中央構造線」沿いに探ると、至るところから探し出せるという経験則を持っていたのではないかと考えているのですが。

太伯の裔である美人姉妹が呉越同舟で日本にやって来た…という話が史実なら、あり得ること。
妹の方の稚日女尊を奉戴したのは「丹」採取に優れた人たち。中国大陸から続く「中央構造線」上に鉱山があることは周知の事実だったことでしょうし。
元より「中央構造線」上に住んでいた大伴氏(久米氏は同族)と接点を持ったのではないか。そして後に稚日女尊は丹生都比賣大神として紀伊国に鎮まることとなり、丹生族と繋がりを持つことになった…と。

また中国山地を探ると、こちらも至るところから探し出せるということを発見したのではないかと。

当時はまだ山中に鉄塊がゴロゴロと転がっていたのでしょうけど。




第一部 青銅の神々
第二章 目ひとつの神の凋落


■ 西播地方━━天目一箇神の末裔のもう一つの根拠地

播磨国には、瀬戸内海に河口をもつ四つの大川があると示しています。「加古川」「市川」「揖保川」「千種川」。

その四大河川のいずれも上流で銅や鉄を産出し、天目一箇神金山彦神といった金属神が多く祀られていることを、この企画物記事内で幾度となく紹介してきました。

「中国山地」においての鉄の産出量は尋常ではない…。それは谷川健一氏のこの書で学んだことを契機に、あらゆる場面で思い知らされてきました。
伊和神社然り…射楯兵主神社然り…
出石神社然り…
吉備津神社然り…石上布都魂神社然り…
金屋子神社然り…。

この項では既に紹介済みの内容が蒸し返されているため、ここでは取り上げません。これまでに無い情報のみを。



◎鉄山と金山彦神の遷座

ふつう鉄山は一箇所を二十年かかって掘り、その後別の鉄山に移動するとのこと。その際に金山彦神の神霊を奉斎して遷座すると。このことから金山彦神が随所に祀られることとなり、これは天目一箇神も同様な事情を背景にして移動したのであろうとしています。



◎佐用郡の神羽神社

第20回目の記事の「片目魚」伝承で登場した、佐用郡「長尾」の「神羽神社」(本書では「神場神社」としている)天目一箇神を祀る社。類似社名の「神場神社」が佐用郡「仁方」に鎮座します。こちらは大伴狭手彦をご祭神とし、金山彦神を合祀しています。

*大伴狭手彦
先日記事を上げたばかりの、紀伊国名草郡の刺田比古神社にて祀られています。

大伴氏(久米氏と同祖同族)は九州肥後の「球磨川」に端を発し、「阿蘇山」南西麓へ拠点を移した後、さらに筑後川で神武東征軍と合流、従軍し東征。先に紀伊国へと移住していた同族と合流したのではないかと考えています。

そのようなことをつらつらと書いてきた【阿蘇ピンク石】の企画物記事が中断中ですが…。

大伴氏(久米氏)の痕跡が、「中央構造線」上に多いことに気付かされます。ルーツの「球磨」も「中央構造線」上ではないものの、その延長線上。また播磨国等にも拠点があり、こちらも線上ではないものの、鉄または銅、或いは水銀(辰砂)を多く産出する地域。彼らがその採掘に関わる氏族だった可能性を考えています。

[紀伊国名草郡] 刺田比古神社
「中央構造線」 *画像はWikiより



*「仁方」
「仁方」の神場神社近くの「仁方たたら」は、考古学者の大家 和島誠一氏が、日本最古のたたら跡としているようです。

そもそもたたら跡などはほとんどが見つかっておらず、発見例はごく一握りのもの。ただ山中を歩くだけではほとんど気付かず、伐採をしたり、タケノコ狩りをしたり…などでもない限り見付かるものでもありません。またそのような従事者が見つけたところで、誰かに報告するのかという問題も。最古だと言ったところで無意味なのですが…。ただし極めて古いものであるということは確かなのでしょう。

この「仁方」について谷川健一氏は、まったくもって予想だにし得なかったことを記しています。「仁方(にかた)」を「額田(ぬかた)」からの転訛ではないかと。

額田部湯坐連(ヌカタベユエノムラジ)という氏族が「新撰姓氏録」に、天津彦根命の子の明立天之御影命(=天目一箇神)の後とあります。つまり祖神である天目一箇神を奉斎していた氏族ではないかと。天久斯麻比止都(=天目一箇神)を奉斎していた菅田首とは同祖であったということが分かります。


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■ 九州、四国にも鎮座する金属の神

どうやらまだこのテーマが続いていたようです。既に十分過ぎるほどに紹介されてきましたが、確かに九州・四国はほとんど出てきてませんね。



◎肥後国山鹿郡の天目一箇神

山鹿郡(現在の山鹿市)「久原(くばる)」に天目一箇神社があるとしています。Googlemapsでは見当たりません。代わりに「薄野一目神社」というのがあり、こちらが該当するのだろうと思われます。

*薄野一目神社の旧社地
「菊池川」中流域沿いに広がる「山鹿盆地」北側の山地麓に位置します。元は盆地中心部の大宮神社の東方「杉山」の地にあったのを、継体天皇四年に現社地「久原」に遷したとのこと。

「杉山」という地名は確認できていません。大宮神社が薄野一目神社の南西にあたるので、「杉山」は南方ということでしょうか。

「杉山」には今も「市目坂」という地名があり(調べるも見当たらない)、地元民は「一目」を意味するとのこと。この土地には鋳物師も多いようです。

*大宮神社
景行天皇の九州遠征の際に陣を構えた所として、「大宮」の名が残るようです。「杉山」の地にも行在所があったとされるようです。

景行天皇は八頭の大亀を退治し、首を斬って埋めたと伝わるのが、「千田村」の聖母八幡宮の鳥居前。大宮神社から南方5kmほど。玉名郡に属します(現在は「山鹿市鹿央町千田」)。そこは「八島」と称され、池の鮒は悉く片目であると伝わります。

*薄野一目神社と鉱山
薄野一目神社の山の尾根続きである「日の岡」に、終戦後まで銅山があったようです。

また神社左手の山道を辿り、深倉峠を越えた先にあるわずか数戸の「深倉集落」に住む古老から情報を聞き出しています。
眼前の山には銅を試掘した穴が数箇所あるとのこと。また畑からは鉄滓(かなくそ)が出て、「鍛冶屋敷」と呼ばれていると。さらに深倉峠から向こうの川は、清流を好むアブラメという魚は棲まないという情報も。

*「震岳」の「土蜘蛛」
薄野一目神社と向かい合う「震岳(ゆるぎだけ)」には「土蜘蛛」の類いが居て、景行天皇軍に激しく抵抗したが滅ぼされたという伝説があるという情報も古老から聞き出しています。これを裏付ける説話が「肥後国誌」に記載されているようです。

谷川健一氏はこのことから、ヤマト朝廷(現在は朝廷の体を為していない為、「ヤマト王権」という)の威令が行われる以前から、天目一箇神を奉斎する銅山労働者が住み着いていたのではないかと。そしてその鉱山の利権を巡って、鉱山所有者とヤマト朝廷(ヤマト王権)とのいざこざが起こった反映がその説話ではないかとみています。



◎豊後国国東郡の天目一箇神

瀬戸内海に丸く突き出た国東半島(くにさきはんとう)の国東市安岐町に、天一目命を祀る金比古神社があるようです。Googlemapsには記録されていません。

*奈多八幡宮
国東半島では海岸一帯で砂鉄を産するが、安岐地方には特に多く、「奈多の浜」で採られたようです。その「奈多の浜」に鎮座するのが奈多八幡宮。

天平元年(729年)に宇佐公基が創建したと伝わります。代々宮司は奈多氏が務めますが、元は宇佐姓であったとのこと。一族は優秀な砂鉄を採取し製鉄を行っていたようです。

宇佐神宮の「行幸会」では、古くなった祭神の装束や神像を取り替えて新しくするものだそうですが、宇佐神宮から奈多八幡宮へ持って来るとのこと。宇佐神宮にとって奈多八幡宮が重要なのは、砂鉄の産地であることと無縁ではないだろうとみています。

*豊州のその他の天目一箇神
大分県下では以下の三社に天目一箇神が祀られるとしています。GoogleMap他あらゆる資料を探すも見付けられません。廃社となったのでしょうか。
・大分郡「戸次(へつぎ)」の一目連社
・海部郡(現在の佐伯市)の黒塀神社
・大野郡(現在の豊後大野市)の嶽将軍社

岩礁に鳥居の立つ奈多八幡宮。*フリー画像より



◎阿波の天目一箇神

阿波と言えば忌部氏。この地にも天目一箇神を祀る神社があります。
忌部氏と一口には言えないほど様々な広がりをみせる氏族ですが、天太玉命を祖とする流れ、天日鷲命を祖とする阿波忌部、天道根命(大伴氏の祖)を祖とする紀伊忌部・讃岐忌部、櫛明玉命を祖とする出雲忌部が知られます。「古語拾遺」には他にも筑紫や伊勢に天目一箇神を祖とする忌部氏がいたと記されます。

*高越(こうつ)鉱山(銅鉱)・川田山銅山
吉野川市山川町木綿麻山~山川町川田といった地域。川田には忌部氏の守護神であったという川田八幡神社が鎮座、これらの鉱山は阿波忌部氏が携わっていたものと思われます。

そして本書では「奥川田」という地に天一神社が鎮座し、天目一箇神を祀ると記しています。残念ながらこちらも見付けられません。近傍には「鍛冶屋淵」という地名があるとのこと。こちも見付けられません。

*山川町「湯立」
「川田」の近くには「湯立」という地もみられます。「射立郷」があることから谷川健一氏は、「射楯」であろうと。これは播磨国の射楯兵主神社に通ずるもの。武器に由縁があろうとしています。

「高越山」標高1133m *画像はWikiより



*阿波国の銅鐸
本書では阿波国内で2箇所の銅鐸の出土例を挙げ、忌部氏と銅鐸との関連を想定しています。

ところが本書発行後になるのでしょうか、現在は49点もの銅鐸が出土。全国3番目に多い出土県となっています。阿波国にあまねく拠点としていたと思われる忌部氏。銅鐸との関連は切っても切れないものと思います。





今回はここまで。

これで一通り産鉄(銅)鍛冶氏族の分布が示されたようです。現在はさらに多くのことが分かり、紹介できていないものも多いとは思いますが。

次回はこれまでの事例から分かることが示され、次々回からは第三章へ進みます。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。