「本系図」巻頭 *画像はWikiより






◆ 丹後の原像
【84.古代海部氏の系図 ~5】






この2~3年ほど悩まされ続ける背中痛。

薬のおかげなのか、
最近はほとんど仕事を休むこともなくなり…

まだもう少しは生きながらえることに一筋の光明が見えつつありました。そして5月頃には丹後へ向かえるかも…と目標を定めていました。


ところが状況は一変。

5月中には到底無理となり、7月頃までに…と目標を変更しました。


或いは3月末~4月早々に向かっているかもしれません。

その場合は人生最後の丹後となるかも…。


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■ 丹後の古墳文化と古社

古墳時代前半は丹後の最盛期。いわゆる「丹後王国」でした。大和に匹敵するほどの文化先進国。

ですから、いくらさほど広くはない地域と雖も、ちょっとやそっとで語り尽くせるほどのものではありません。いくらでも書き続けられる…。

暴走しがちなはやる気持ちを抑え、ここではなるべく本書に取り上げられたものだけに留めて、少々肉付けをする程度にて。
また古墳はほとんど訪れていないため、本書の資料を活用したいと思います。



◎舞鶴市の古墳

舞鶴市には約300基ほどの古墳が存在するようです。本書に掲載されている各古墳の詳細は、その後の調査等で異なる情報があるため、最新かつ正確と思われる情報に修正しておきます。

*切山古墳(4世紀後半)
舞鶴市「境谷」にかつてあった大型円墳。京都府北部では最古。現存せず、石棺のみ舞鶴市歴史資料館に保存展示。凝灰岩製の組合せ式石棺。舞鶴市西地区の平野部を支配していた首長。女性と見られる。丹後の巨大古墳の主との間に政治的関係を結んでいたとされる。

*茶臼山古墳群(古墳時代後期)
舞鶴市「引土(ひきつち)」。現存せず、資料もネット上には見当たりません。後に山城も築かれたとのこと。なぜこの古墳を載せたのか?すぐ側に「天狗岩古墳群」、丹後においては大変に重要な笠水神社があり、関連が考えられる。

*干田(ひだ)古墳(古墳時代後期)
舞鶴市「河辺中」。高校生が発見したもので、その後本格的な調査が行われた形跡は無し。破壊されつつも現存するのは小円墳6基。
地名の「河辺」は「神戸(かんべ)」からの転訛か。また域内の河辺八幡神社は、かつて「三宅社」と称され(村長談)、「式内社 三宅神社」の論社。おそらく当地に「屯倉(みやけ)」が設置されたことと思われる。「神戸」や「屯倉」を管理した者の古墳か。





◎「浦入遺跡(うらにゅういせき)」「千歳下遺跡」

本書には取り上げられていませんが、見過ごせないものなので追加しておきます。

「浦入遺跡」は縄文時代からの複合遺跡で、丸木舟が発見されたことで知られます。こちらの「鍛冶炉」は最先端の技術で鉄の加工が行われていたとされます。

そのすぐ南の「千歳下遺跡」では、4世紀後半~5世紀前葉の祭祀遺構が発見。斜縁獣帯鏡や銅釧(ともに青銅器製)、700点以上の鉄製品、1000点の玉類や石製模造品が出土。

時期が「丹後三大古墳」(「日本海三大古墳」とも/網野銚子山古墳・神明山古墳蛭子山古墳)と重なっており、当時の最大級、最先端の工房であったと思われます。もちろん二つの遺跡は連携するものでしょう。




◎「和江遺跡」

「由良川」最河口の地。丹後を語る上で「由良川」は外せないところですが…
流域の数多の史跡から、古代の歴史浪漫を伴って川水が流れます。穏やかで、たおやかなその流れは、古代丹後への誘いに時を要さない…

独り古代丹後の浪漫に浸ってしまいますが…
「憧憬」の愛して止まない丹後ですが…
すべてを投げ出し丹後へ向かいたいのですが…

恒例の脱線はこの辺で。
丹後遠征時の楽しみの一つが、和江神社の参拝と社前の「由良川」での黄昏のひととき。
森鴎外の「山椒大夫」の童話「安寿と逗子王丸」の舞台となったことで知られますが、それよりも億計王・弘計王の潜伏先であったと伝わります。

そして「和江ニイザ古墳群」3基、「和江谷古墳群」2基、「大足谷古墳群」2基などがあるようです。いずれも古墳時代後期のもの。

北西に聳える霊峰「由良ヶ岳」。こちらにも本書では古墳があるとしていますが不明。おそらく西麓の宮津市方面かと思われます。

和江神社の対岸から「由良川」を。橋梁は北近畿丹後鉄道のもの。右手の山は「由良ヶ岳」。



◎與謝郡(宮津市、与謝野町)の古墳等

*今福古墳群
上記の通り「由良ヶ岳」西麓に見られる群集墳。ネット上から資料は得られず詳細は不明。

*大風呂南墳墓群
前回の記事にて紹介済み。弥生時代の墳丘墓であり、古墳には含まれない。

籠神社境内
古墳時代の須恵器が出土。そもそも弥生時代の伝世鏡があり、その後も連綿と奉斎が続けられているので当然のこと。



◎「加悦谷」の古墳
与謝野町内ですが、丹後の大変な主要地であり、あまりに群集しているため独立させます。書きたいことは山ほどありますが、暴走を控えつつ…

「野田川」下流域、東西の山々に挟まれた南北に細長いエリアが「加悦谷(かやだに)」と称されます。古墳を始め、神社や史跡の宝庫。前回の記事で記した銅鐸出土地の須代神社、同じく銅鐸出土地の阿知江いそ部神社の周囲の丘陵地もこのエリア。

*式内社 倭文神社(与謝野町三河内)が古墳群の頂に鎮座(前回の記事参照)。こちらも銅鐸出土地。

*蛭子山古墳群
与謝野町「明石(あけし)」の古墳群。4世紀後半の国史指定の2基を始めとした、計8基が築かれる。古墳公園として整備。
蛭子山古墳 … 日本海第3位の規模を誇る。全長145m前方後円墳、舟形石棺、4世紀中頃。全3基の古墳群。
・作山古墳 … 全長36mの円墳。全5基の古墳群。
・北側に隣接して日吉ヶ丘墳墓群、東側に隣接して明石墳墓群(弥生時代後期末~古墳時代前期中頃、そうすう)がある。

*温江丸山古墳
与謝野町「温江(あつえ)」の古墳。「阿知江」などという表記も見られ、渡来人系の地名と思われる。大虫神社小虫神社(ともに式内名神大社)が近くに鎮座。
径50~80m円墳、組合せ式石棺、方格規矩鏡・三角縁神獣鏡、4世紀中頃。

*温江大塚古墳
温江丸山古墳の北に隣接。径39~48mの円墳。4世紀後半~5世紀中頃。崩壊しており現存しないというレベル。

*愛宕神社古墳群
与謝野町「明石」内の古墳群。全9基、すべて円墳で、最大のもので径27m。

*白米山古墳(しらげやまこふん)
与謝野町「後野(うしろの)」の古墳。国史指定。全長90mの前方後円墳。古墳時代前期中葉(4世紀代)、この時期のものとしては全国有数の規模。私有地のため未調査。
白米山西古墳群が隣接。他に白米山北古墳群、白米山東古墳群もあるとのこと。

*日ノ内古墳
「野田川」の最河口部、与謝野町「弓木」の古墳。築城により原型を留めず。推定径25m程度。5世紀中頃。


左下のポイントが密集する部分が「加悦谷」。



◎丹波郡の古墳

京丹後市は広いので、便宜的に令制国上の丹波郡・竹野郡熊野郡とに分けます。

*新戸古墳(しんどこふん)
「竹野川」中流域に広がる平野部の南端、京丹後市「大宮町」の古墳。全長35mの前方後円墳。6世紀代の築造、丹後では最大の横穴式石室。雲珠・鏡板・水晶製切子玉・瑪瑙製勾玉・金環が出土。市指定史跡。

*湧田山古墳群
京丹後市峰山町「丹波」に鎮座する多久神社の奥山に6基あり。地名「丹波」から丹波国発祥地とも考えられる。

大宮賣神社の御旅所で南方300mほど。露出した石室のみが残る(崩れたものを再構築)。




今回はここまで。

やや中途半端ですが
残る竹野郡と熊野郡の古墳はボリュームが大きくなるため。

「丹後王国」の最盛期の古墳、関連する古墳が次々と登場します。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。