日前神宮・國懸神宮 *現在は境内の撮影禁止


■表記
天道根命
天道尼乃命(新撰姓氏録)


■概要
初代紀伊国造とされる弥生時代の人物(神)。
記紀には登場せず、「先代旧事本紀」や「新撰姓氏録」、紀伊国造家の末裔が所蔵する「紀伊国造次第」等に記されます。

◎「紀伊国造次第」や「先代旧事本紀 国造本紀」には、神武天皇により初代紀伊国造に任じられたとあります。
◎「紀伊続風土記」(天保十年・1839年)所載の「紀伊国造家譜」には、日前大神・國懸大神(日前神宮・國懸神宮の各ご祭神)の降臨に随伴、以後は両大神に仕えます。神武東征時には両大神の御神体である「日像鏡」と「矛」の神宝(詳細は → 日前神宮・國懸神宮の記事にて)を奉じて名草郡に到来、「毛見郷」(濱宮)と「琴ノ浦」に鎮座。そこで戦勝祈願をしたため、神武平定後に紀伊国造に任じられ、日前神宮・國懸神宮を奉斎することになったと記されます。
◎ただしこの「紀伊続風土記」には、天孫降臨の際の随伴や神武東征の際の日前宮奉斎等の一切を否定。「先代旧事本紀 地祇本紀」には、紀伊国造は両神宝を祀っていたのではなく、五十猛命・大屋姫命・抓津姫命のいわゆる伊太祁曾三神を祀っていたとしています。

◎「続群書類従」の「紀伊国造次第」には、「天岩戸神話」に於いて石凝姥命が鋳造した「日像鏡」と「日矛」の神宝を高天原の神々から託され、天照大御神の「前霊(さきのようにみたま)」として奉斎。天孫降臨の際には瓊瓊杵命に随伴し、日向にて神宝を「鏡」と「矛」として奉斎。そして神武東征の際にそれら神宝の鎮座地を求めさせられ、諸国を遍歴した後に紀伊国「賀太浦」(加太春日神社の地)に鎮座、「木ノ本郷」(木本八幡宮の地)を経て「毛見郷 舟着浦」の岩上に行宮を設け奉斎。こちらで神武東征の戦勝祈願を行ったことで、平定後に紀伊国造に任じられ、日前神宮・國懸神宮を奉斎することとなりました。

◎「先代旧事本紀 天神本紀」には、饒速日命降臨に随伴した三十二神の一柱に含まれます。ただしこれは饒速日命を天火明命と同神として仮冒したことによるもの。従って天火明命降臨に随伴した可能性はあっても、饒速日命降臨に随伴したというのは有り得ないことと考えます。
◎上述のように同書「地祇本紀」には、紀伊国造は五十猛命・大屋姫命・抓津姫命のいわゆる伊太祁曾三神を祀っていたとしています。
◎「紀伊国造次第」や「先代旧事本紀 国造本紀」、「紀伊国造家譜」などは、神武東征の大和平定後に紀伊国を賜り紀伊国造に任じられたとしていますが、おそらくは遥か以前の数代前から紀伊国を拠点としていたと考えます。
◎宝賀寿男氏(日本家系図学会会長・家系研究会会長)は、紀伊国造家と大伴氏、久米氏はかつて同族であったとしています。
彼らは縄文以前から日本で生活を営んでいた「山祇族」であると。そして信憑性の高いとされる大伴氏の「古屋家家譜」より始祖は安牟須比命としています。香都知命や天雷命と同神ともしており、これらはカグツチ神の別名であるとも。その子神は天石門別安国玉命であり、天手力男神や麻戸明主命、九頭龍神(磐排別命)と同神であると。
おそらくは紀伊国造家から大伴氏や久米氏が分岐したものとしています。以降の系図については宝賀寿男氏の直接の資料が手元に無いため不明ながら、天御食持命(手置帆負命)、天御鳥命(天夷鳥命)、そして天道根命へと続くものと思われます(天御食持命と天道根命の前に数代挟まれている可能性あり)。
◎「先代旧事本紀」の「神代本紀」「国造本紀」において天道根命は、神魂命の子である天御食持命の「次」を天道根命としています。この「次」というのを弟とみなす説有り。ところが世代的にみて合わないため、他書等(「新撰姓氏録」等)でみられる天御食持命の五世孫とするのが妥当なところでしょうか。
◎「出雲国風土記」においては、神魂命が天御鳥命(天夷鳥命)の親神とあります。「楯縫郡」の条には、「天の下造らしし所の大神(大穴持命)のために柱は高く板は厚く十分にととのった宮殿を造り奉れ」とあり、神魂命が天御鳥命を天降りさせています。
◎「古屋家家譜」の始祖は高皇産霊神となっています。その他多くの始祖が神皇産霊神(神魂命)となっているため、これは誤伝なのかもしれません。宝賀寿男氏は、これら多くの氏族が神魂命を始祖としているのは、おそらくは系譜の仮冒であろうとしています。
ただし「出雲国風土記」の記述や多くの伝承等から、神魂命を完全に無視することは困難かとも思われ、系譜内のいずれかのところに別名として挙げられているのではないかという可能性も考えています。
◎紀伊国造家のルーツは筑後国または肥後国、球磨国辺りであろうと察せられます。そして天石門別安国玉命の時代に阿波国へ移る者が出たのでしょうか。その後、大伴氏や久米氏と分岐し天御食持命(手置帆負命)や天御鳥命(天夷鳥命)の時代に出雲国へと移った可能性を考えます。そしてこの時代に紀伊国へ移り、天道根命はそのまま紀伊国を拠点としていたのではないかと。
これとは別に、「出雲紀氏」と「中央紀氏」(紀伊国造家)に分けて考える説もあるようです。

◎上述の「紀伊国造次第」や「先代旧事本紀 国造本紀」のように初代紀伊国造に任じられたのは、天道根命だったのでしょうか。七代ほど後の大名草比古命が初代ではないかという説も。或いは大名草比古命の二代後の于遅比古命(宇遅彦)というものも。さらに敏達天皇十二年(583年)に、紀忍勝が国造に任命されたことが紀に見え、これを初代紀伊国造とみる説も。
◎一般に国造職の任命は、成務朝に概ね主要国から順次定められていきました。大名草比古命の代辺りがちょうどその頃でしょうか。
ところが日前神宮・國懸神宮が神階授与はなされない等、特別視され伊勢の神宮に次ぐ扱いを受けていること、国造の就任式が朝廷で行われるのは出雲国と紀伊国のみであることなど、やはり特別な存在であると認識されます。神武天皇の即位後に、天道根命が初代紀伊国造に任命されたという件りは無視できないようにも思います。


■系譜
上述のように父母等の明確な記述は、あらゆる文献等においても見受けられません。
*「紀伊国造次第」には、子に比古麻命がいると記される。
*「紀伊国造系図」には、弟に天枝命がいると記される。

◎以下は推定系譜。
安牟須比命(香都知命、天雷命、カグツチ神)
天石門別安国玉命(天手力男神、麻戸明主命、多久豆魂命)
(*数代挟む可能性あり)
天御食持命(手置帆負命)
天御鳥命(天夷鳥命)
(*数代挟む可能性あり)
天道根命
麻枳利命
比古麻命

◎後裔氏族には「新撰姓氏録」等に、滋野宿禰、大坂直、紀直、大村直田宿禰、川瀬造(河瀬造)、伊蘇氏、楢原氏、滋野氏が載せられています。


■祀られる神社等(参拝済み社のみ)
◎奉斎した神社
[紀伊国名草郡] 日前神宮・國懸神宮

◎祀られる神社
[紀伊国名草郡] 日前神宮・國懸神宮の摂社 天道根命神社

◎関連する神社等
[摂津国] 網敷天満宮(記事未作成) … 社伝による創祀は「茨城国造の天道根命が天神山に別雷神を祀った」とされる
[紀伊国名草郡] 加太春日神社
[紀伊国名草郡] 木本八幡宮
[紀伊国名草郡] 濱宮


*現在は境内の撮影禁止。以下3枚の写真は、禁止前の2000年頃に撮影したもの。