勝手神社 (奈良市油阪町)


大和国添上郡
奈良市油阪町420
(P無し)

■祭神
事代主命


かつて興福寺・春日大社に属したという「油座」商人たちが居住していたことからの地名という奈良市「油阪町」に鎮座する小さな社。
◎「油阪町」は「奈良町」の「奈良回り八か村」の一。「奈良町」は関ヶ原の戦い後、徳川家康が側近の大久保石見守長安を「奈良大官」に任命し、町域の画定がなされ、100町が直轄地として確定しました。これが慶長八年(1603年)頃のこと。そしてその総称が「奈良町」。
その後「奈良奉行」が幕府の直轄地として支配されました。やがて「奈良町」をとりまく幕府領の「杉ヶ町」などの「奈良回り八か村」が、こちらも「奈良奉行」の支配下であったため、広義での「奈良町」と考えられるようになったとされます。
◎当社の創建年代は不詳。「奈良坊目拙解」(享保二十年・1735年)に、「勝手明神社 当町坂新屋南の辻と北西南の町会所裏に在る」と記されているようです。
この書によると一番古いもので宝永元年(1704年)に火災に遭ったとあり、少なくともこの時代には存在したと思われます。
◎その後もたびたび火災に遭うも再興を繰り返したようですが、大正元年に漢國神社に合祀。現在はその境外末社として復社しています。

◎六月の晦日に当社で婚姻祝言を模した儀式を行った後、「大宮通り」を挟んだ南隣の「今辻子町」に鎮座する住吉神社の例祭に参列するという「勝手明神の祝言」というものがあったようです。
◎ご祭神に上げられているのは事代主命。ところが、「奈良坊目拙解」は吉野山口神(勝手明神)としています。
また上記の住吉神社では、住吉三神と九頭明神としています。この九頭明神が白山権現を由来とする説と、吉野国栖明神を祀るとする説とが有り。さらに当社を吉野山口神(吉野山口神社)、住吉神社を吉野水分神(吉野水分神社)と対になっているという説も。


「大宮通り」(片道4車線、計8車線)沿いに建つ、斬新な建物の脇(手前、東側)から進入します。

この扉の路地奥にひっそりと鎮座します。


春日下ろしのようです。

近年このような案内板が多く設置されました。県外、海外から訪れる方々のためですが、ほとんど知る人がいなくなった地元民の方にも必要な情報提供かと思います。



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