(画像はWikiより)





◆ 徐福 (方士が見た理想郷) 
~9 (「富士古文書」編)





世の中では徐福の非渡来説が圧倒的趨勢を占めています。

その最大の原因となっているのが「富士古文書」。今回はその書について触れていきます。


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■過去記事
* ~ 1 … 始皇帝を欺く!

* ~ 2 … 神薬を求め出航!
* ~ 3 … 九州の徐福伝承
* ~ 4 … 四国の徐福伝説
* ~ 5 … 新宮市 前編
* ~ 6 … 新宮市 後編
* ~ 7 … 熊野市波田須編
* ~ 8 … 三河地方編
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◎古史古伝「富士古文書」

「富士古文書」という書に徐福のことが詳述されています。各地の伝説はこの書から引用されたと考えられるものがほとんど。

つまり各地の伝説は史実ではない可能性があります。またこの書自体も非常に怪しいもの。「ホツマツタヱ」や「ウエツフミ」などと同様に「偽書」とされます。「偽書」とほぼ断定できる、いわゆる「古史古伝」の一つ。

明らかにおかしい箇所が多く見受けられ、「偽書」と言われる中でもかなりひどい内容となっています。



◎「富士古文書」とは

富士吉田市大明見に鎮座する小室浅間神社(未参拝)の宮司家の宮下家に伝わっていたため、「宮下文書」とも呼ばれます。また相模国の寒川神社(未参拝)に保管されていたと記されているようです。

富士山麓にかつてあったという「富士高天原王朝」から始まる歴史が記されます。そして徐福とその子孫が記述したとあります。ところが文体から江戸末期に編纂されたものとみられます。



◎「富士古文書」の記述

出帆後の部分を当書から引用しておきます。
━━一行は不二蓬莱山(富士山)を目標にして航行した。東に南にまた東にと船を進め、ようやく(始皇帝三年)十月二十五日、木日国(紀伊国)に到着した。ここで三年間滞在した。
一行は孝霊天皇七十四年九月十三日(BC217年)、再び船に分乗して待望の富士山を目標として東に進み、十有余日にして住留家の宇記島原に上陸した。それより富士山の西をまわり、中央の高天原(旧帝都)の地に到着したのが十月五日であった。
まず阿祖山大神宮(不二阿祖山太神宮)初め各七廟を拝礼し、一行は大室中室に居住した。一行中には農夫・大工・壁塗・猟人・紙師・紙漉・笠張・楽人・衣類・工女・酒製造人・塩炊・鍛冶・鋳物師・石工・諸細工夫・医師などがいて、自給自足できたようである。さらに徐福は蚕を養わしめ、糸を作り機を御女等に織らせたという━━

このように詳述されています。
「富士山」を目標にしていたということについては、その可能性は有り得るかと思います。

問題は「孝霊天皇七十四年…」。非実在説が有力ですが、仮に実在したとしても3世紀初め頃のことかと思われ、徐福の時代とは400~450年ほどかけ離れています。

そもそも「富士山」麓に「富士高天原王朝」が存在したということ自体がでっち上げなのでしょうが。また古文書通りに創建由緒を掲げている不二阿祖山太神宮も、大変に怪しいお社かと思います。

━━時に、武内宿祢、大神宮へ奉幣にきて、徐福の来朝を聞いて大いに悦び、その門に入って教えを受け、後に一子矢代宿祢をも門人にした。矢代宿祢は秦人に学んだので姓を羽田(はた)と改めた…(中略)…徐福は八代孝元天皇七年二月八日(BC208年)に逝去した。中室麻呂山の峰に葬られた━━

ここまでくると、もう無茶苦茶…。
武内宿祢まで登場してきました。補足のしようもありません。

この後、徐福が伴い連れてきた男女五百人の内訳を挟み、以下に続きます。

━━徐福の伴える子女は、男四、女三、計七人であったが、日本に来てから三男をあげて、十人の子女となった。長男の福永は、父の後をついで姓を福岡と改めた。次男は姓を福島と称し、かつて三年間居住した紀伊の熊野に、一族五十余人を従えて移住した。その子孫は社祠を建てて徐福の霊を祀った(新宮阿須賀神社内の河面宮)。三男の徐仙は福山の妹を称し、四男の福寿は福田と称した。
徐福第四代目の福仙は、大神宮の神官に任ぜられ、子孫代々これを継承した。かくて徐福の子孫は、大神宮所在地及び紀伊国で繁栄した。…(中略)…日本に残っている徐福の伝記としては唯一のもので、その真偽のほどは別として、今日伝えられている各地の伝承と一致する点が多い━━

「各地の伝承と一致する点が多い」というのは、各地の伝承が軒並みこの書から引用したため。逆に一致していないものがいくつもあるというのが、古代史には当たり前のことなのですが。



◎「義楚六帖」

中国の後周時代(九世紀)の斉州開元寺の僧義楚が著した「義楚六帖」という書があり、こちらには徐福が求めた「蓬莱山」が「富士山」であると記されているとのこと。

巻二十一
━━日本国亦倭国と名づく。東海中にあり。秦の時、徐福五百の童男、五百の童女をひきいて此の国に止まる。今人物一に長安の如し。又顕徳五年、歳は戌午にありて、日本国伝、瑜伽大教弘順大師紫寛輔なるもの有りて又云う、本国の都城の南五百余里に金華山(きんぷさん)有り、頂上に金剛蔵王ありて、第一の霊異なり…(中略)…また東北北千余里に山有りて富士と名づけ、また蓬莱と名づく。…(中略)
徐福此に止まりて蓬莱といえり。今に至るも子孫皆秦氏と曰う。彼の国古今侵略者無きは、竜神の報護なり。法は人を殺さず、過ちを為す者は犯人、島々に配在す。其の他境名山一々之を記すに及ばず━━

こちらの書は信用に足るものでしょうか。ただし編纂時期は9世紀のこと。既に徐福伝承は歪めて伝わっているだろうと想像されます。


(画像はWikiより)