高宮神社 (信楽町多羅尾)


近江国甲賀郡
滋賀県甲賀市多羅尾646
(P有、アクセス道はやや狭いが難所無し)

■祭神


元伊勢「甲可日雲宮」の候補地の一。鎮座地は「多羅尾」と称される甲賀から伊賀、南山城にかけての深い山々の山中。標高は460mほど。現在はもっとも高所と思われる辺りにゴルフ場が開発されてしまい、霊地は破壊されています。
◎天照大神の御杖代として鎮まる地を求めて各地を巡幸した倭姫命は、伊賀国「敢都美恵宮」を経ち、「甲可日雲宮」へ。こちらで四年間奉斎したと「倭姫命世記」には記されます。
元伊勢「甲可日雲宮」の候補地は全15箇所挙げられています。他の候補地は大神宮社(三上六所神社に合祀)(甲賀市土山町鮎河)・川田神社(甲賀市土山町頓宮)・甲可日雲宮(甲賀市土山町多羅尾)・田村神社(甲賀市土山町北土山)・皇大神宮(若宮神社 境内社)(甲賀市土山町大河原)・川田神社(甲賀市水口町北内貴)笠山神社(瘡山神社)(甲賀市水口町高山) ・神明神社(甲賀市水口町神明)・日雲宮(甲賀市水口町神明)・五十鈴神社(甲賀市甲南町)檜尾神社(甲賀市甲南町)日雲神社(信楽町牧)・神明宮(上乗寺境内)(湖南市三雲)・神明神社(湖南市夏見)
訪れたいずれもが霊地と呼ぶに相応しいもの。倭姫命は1箇所だけではなく、いくつか訪れた後に、「日雲宮」を定めたのではないかという可能性もあると考えています。
◎倭姫命の巡幸地は磐座などが座す霊地であり、また「鉄」も関係するのではないかとみています。当地は既にゴルフ場開発され、また磨崖仏なども彫られたりしているため、磐座はほとんど残っていないようです。司馬遼太郎は「街道をゆく」シリーズの中で、「甲賀と伊賀の道、砂鉄の道」を刊行しています。
◎創祀は倭姫命が奉斎したという垂仁天皇の御代。「高宮神社古文書」には、倭姫命が元伊勢「坂田宮」に移ってから日雲岳の麓に社を建て皇大神を奉祀し、神明宮または高宮権現と称したとあるとのこと。

また近衛基平一子、高山太郎師俊がこの地を領有した正安元年(1299年)に、「日雲の宮跡」に火産霊神と近衛家の祖神を合祀したと伝えています。
◎当社の神使は狼であるとされ、ご本殿には狼像が見られます。これはある漁師が参拝した際に、猿がお供え物を食べていたので撃とうすると狼の鳴き声、撃つのを止めると鳴き声も止むが、また撃とうとすると狼の鳴き声、漁師は逃げ出したとのこと。また善人が峠を通ると安全なところまで護衛するが、悪人が通ると追いかけて噛みつくとされるといったような民話が伝わります。
◎「多羅尾」については、いくつかの地名由来が伝わります。
まずは「タラ」が多く自生していたということによるもの。「尾」は接尾語か。空海などという僧侶が「多羅尾」と称するように指導したという民話があるため、少々信用に欠くもの。
次にネット上の情報では、「延喜(901~923年)の頃に羅尾という大いなる獣が棲み、大きいが温順で人には害を加えなかった。煙を好んだことからキセルの樋管を羅尾と名付けた。目出度いものであると後に隠岐守兼家が多羅尾村と名号した」(大意)とあり、「天平永国記」という書からの引用であると。
この書については資料が見当たらず不明。「キセル」が登場することから16世紀以降のものかと(Wiki情報より)。当社の社頭案内にもこの書に、元伊勢「甲可日雲宮」にて四年間奉斎されたと伝わるとしています。
◎また個人的思量ではあるものの、東南アジアの「ラオ人」が古代より受け継ぐ森林に対する「精霊信仰」とも関わりがあるのではないかという可能性を感じています。ひいては「クメール人」との繋がりもあるのではないかと。


このような道を1km半ほど。信楽町側から来た道です。伊賀市から「御斎峠(おとぎとうげ)」を越えて来た場合は、もう少しだけ広めの道。トラック等が通らないためか、路面の凹凸は無く、走り安い道です。

ここまで対向車は1台も無く現地に。信楽方面も伊賀方面も途中に民家はありません。



山中の幽玄な古社という趣。



御幣の両脇に狼像が据えられています。

社殿背後を見渡すも磐座等は見当たらず。

ご本殿脇の境内社。近衛家の祖神を祀っているのはこちらでしょうか。