加太春日神社
(かだかすがじんじゃ)


紀伊国海部郡
和歌山市加太1343
(境内に駐車可)

■延喜式神名帳
加太神社の論社

■旧社格
村社

■祭神
天児屋根大神
武甕槌大神
経津主大神
[配祀] 天照皇大御神 住吉大神


万葉の時代から「潟見の浦」と詠まれた景勝地、「紀淡海峡」に面して美しい海岸線が続く「加太(かだ)」。その海沿い集落内に鎮座する社。淡嶋神社からは東へ500m余り。
◎当社の創建年代は不明。「紀伊国造家旧記」という書には、「神武天皇の御代に天道根命が神鏡と日矛の二種の神宝を奉戴して加太浦に上陸、頓宮を設けて天照大御神を祀ったことに始まるという」とあるようです。
天道根命は紀氏の祖、神武天皇により紀伊国造に任じられています。「新撰姓氏録」においては、滋野宿禰・大坂直・紀直・大村直田連・川瀬造にそれぞれ「神魂命五世孫天道根命之後也」とあります。一方「先代旧事本紀」には神皇産霊尊(神魂命)の孫とあります。時代から考えると孫というのは少々無理があるかと。
その「先代旧事本紀」に記される饒速日命降臨(随伴神)には、「32人の防衛」の第6番目に上げられています。
◎神鏡と日矛というのは、最終的に日前神宮・國懸神宮に鎮まった御神体のこと。
「紀伊国造系図」という書には、紀伊国「賀太浦」に到り、「木本郷」へ移り、さらに「毛見郷舟着浦」の海中に聳える奇岩上に行宮を立てて奉斎したとあります。
「賀太浦」は当地のこと。「木本郷」は木本八幡宮のこと、「毛見郷舟着浦」の海中に聳える奇岩は破壊されて現存しないものの、崇神天皇の御代に濱宮へ遷座、垂仁天皇の御代に日前神宮・國懸神宮へさらに遷座したとされます。
◎当社は式内社 加太神社の論社として上げられています。比定社は淡嶋神社。上記の経緯等を鑑みるなら当社の方が本来の式内社だったのではないかと考えています。
◎中世には住吉社とも称されていたとのこと。配祀神に住吉大神がみえます。これは漁業の盛んなことからとされています。ところが神功皇后三韓征伐の際に、沖合いの「友ヶ島」で祀られる大己貴神と少彦名神の効験があったという伝承があることから(淡嶋神社の記事参照)、関わりがあるように考えます。
◎主祭神の春日三神は、嘉元年間(1303~1317年)に地頭として赴任した日野左衛門藤原光福が、自らの祖先神を勧請合祀したということによるもの。この時に日前神・國懸神から祭神替えがなされたのではないかと。
◎往古は東側の山中に鎮座していたようです。役小角が「友ヶ島」に当社を勧請して祭場としていたと伝えられ、南側の山腹には行者堂などという修験道施設があるようです。
◎毎年5月には例祭「えびまつり」が行われるようですが、これはかつて当地で伊勢海老が多く獲れたことによるものとのこと。漁師町でもあり獅子舞や御輿を先導しながらの長刀振りなど、氏子たちの崇敬は今でも篤いようです。




ご本殿は拝殿に覆われ全景を仰ぐことができないため、社頭案内の写真から。

どうせなら鯛ではなく伊勢海老の方が…。



以下は境内社。