☆ 「埴安池」伝承地 (天香山神社 北)



大和国十市郡
奈良県橿原市南浦町
(詳細住所不明、天香山神社の北50m)



【埴安池とは】
「埴安池(はにやすのいけ)」というのが万葉集に記されます。

飛鳥の都人にとっては、特別な地であったようです。この池の堤にて天皇が国見する…と。
もちろん国の様子を眺めただけというものではありません。とても重要な天皇の儀礼の一つだったと思います。

池の水は神聖な「御井の清水」だと歌われています。「籠り沼」(流れ口の無い淀んだ沼)であるとも歌われているにもかかわらず…。
また船遊びをする場所でもあったようです。


【埴安の土について】
そもそも「埴安の土」とは聖なるものでした。
これは大和三山の一つ「天香山(天香久山)」の土のこと。

◎神武東征の折、敵軍に四面楚歌となり絶体絶命の窮地を救ったのが、「埴安の土」で拵えた祭器。
「埴安彦の謀叛」においては、妻の吾田媛が「埴安の土」を密かに奪い取りに来た。この土を採ることにより大和王権を奪うことができると考えたのか?
◎「住吉大社神代記」には、住吉大社が「埴安の土」で拵えた祭器を使っていたと(現在は「畝傍山」の土を使用)。


(天香山神社境内の石碑)



【万葉集】(Wikiより引用)
◎(巻一 五十二) 藤原宮の御井の歌
やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 荒たへの 藤井が原に 大き御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経(タテ)の 大き御門に春山と しみさび立てり 畝傍の この瑞山は 日の緯(ヨコ)の 大き御門に 山さびいます 耳梨の 青菅山は 背面の 大き御門に 宜しなへ 神さび立てり 名ぐはしき 吉野の山は 影面の 大き御門ゆ 雲居にそ 遠くありける 高知るや 天の御陰 天知るや 日の御陰の 水こそば 常にあらめ 御井の清水

天武天皇が「埴安池」の堤の上にて国見をしたという歌。訳文は省略します。知りたい方は → こちら(Wiki)を。

この池の堤から藤原宮を望むと以下の通り。
*東 → 天香山
*西 → 畝傍山
*北 → 耳成山

*遥か南方 → 吉野の山
以上から「埴安池」は、藤原宮と天香山との間にあったことが導き出されます。

◎(巻二 二百~二百二)
歌は省略します。
*二百で高市皇子が薨じて殯を行うと。
*二百一で「埴安の堤」が出てきます。
*二百二で「哭澤の神社」が出てきます。
「哭沢の神社」とは畝尾都多本神社のこと。つまり「埴安池」はこの近くであり天香山との間であると導き出されます。
距離にして最短200m最長400mほど。





【候補地】
畝尾都多本神社の境内北東と、天香山北西麓の間に、かつての沼地のようなものがあるようです。
具体的な場所は確認できていません。境内北東には隣接して畝尾坐健土安神社が鎮座。おそらくこの東側であろうと思います。

◎今回訪れたのは天香山神社の北50m辺りの小池(冒頭写真)。地元民にはこれこそが「埴安池」であると言い伝えられてきたとのこと。
上記候補地とは100~200mほどしか離れていません。上述のように「埴安池」は船遊びをする場所でもあったと万葉歌にあり、大きな池だったと思われます。上記候補地と当池とは一体のものであったと考えます。つまり当池はその一角として残されたものではないかと。
天香山神社の境内は「天香山埴安傳稱地道」と「天香山白埴聖地」なる石碑が建てられおり、境内がその比定地。また大嘗祭に使われる「波波迦の木」もあるなど、境内畔に「埴安池」があるというのは自然なことかと思います。

◎一方で「大和国名所図絵」や「大和志」には、天香山の南麓の「鏡池」を比定しているようです。詳細地不明で現地未確認、Googlemapの航空写真を見る限りでは池らしきものは見当たりません。消滅したのでしょうか。


天香山神社への裏参道ともなっています。