天照皇大神社 (桜井市小夫嵩方)


大和国城上郡
奈良県桜井市小夫嵩方440
(アクセス道は狭小であるものの通行困難な箇所は無し)
(社前に大きな駐車場有り)

■祭神
天照皇大神

「上之郷」と称される桜井市北東部の山間部。険しい山中に所々小さな集落が残りますが、その中の「小夫嵩方(おおぶだけほう)」集落の最奥地に鎮座する社。標高は520mほど。
◎当社創建由緒等、その他あらゆる情報は奈良県神社庁のデータを孫引用します。どこかから引用されたものでしょうが、引用元は不明。当社を余すこと無く紹介がなされているように思います。

◎「桜井市大字小夫嵩方小字山ノ神に鎮座し、祭神は天照皇大神、配祀神大山祇神を祀る。社伝に、天照皇大神宮鎮座は小夫天神社に座、天照皇大神宮の御分靈を遷し奉りと伝う。小夫嵩方(※)分離は元享年間(※)の頃といい伝う。天照皇大神社御由緒調査書、明治三十九年八月調によると、元享元年(元享年間は4 ※)より明治39年まで604年を経るとある。当社の境内に杉一丈七尺廻りの大木あるを以て按に300年以後の神社たる事明らかなりと記録されている」

※ 「小夫嵩方」の読みは「おおぶだけほう」
※ 元享年間は1321~1324年
※ 「4」の後に「年間」の字が欠落しているものと思われる

◎長いので途中で分断を施しました。小夫天神社から分霊されたが、社伝と「天照皇大神社御由緒調査書」は分霊創建は元享年間(1321~1324年)としています。
これは明治三十九年(1906年)より604年前であるが、境内の大木から按ずるに300年以上前であることが明らかだと。

◎続いて「小夫嵩方は、真平山脈の頂上にあたる地勢により嵩方といい、大和川の源で美わしい山紫水明の地である。古代倭における磯城から山辺の境界線上(※)にあたり、大倭郷と呼ばれた高天原の聖地で、天照皇大神社の敷地山ノ神につづく笠神は、倭笠縫邑(※)の聖地にして小夫の笠神と並び元伊勢縁の地である。天照皇大神の鎮まる古代の小夫地方は元伊勢の発祥地であり、御山と称せられし奥の鎮は中岳と並ぶ神山で、巨岩があり近隣の割石神社とは古代の磐座である。神の郷の故地として倭、大和の発祥地であることから近郷にはない社名であり、神聖なる地形から天照皇大神社として奉斎されし所以である。往時の神の郷は磯城峡谷の隠国(※)とも称されてきた。泊瀬川を逆り峠を越え小夫より寝地蔵、奥の鎮、笠神、割石、真平山、中岳、貝ヶ平山に通じ、山岳信仰、太陽と水神の信仰盛んなりし跡がうかがえるのである。貝ヶ平山、真平山は大倭郷の線上に位置し、太陽神影向の山、日の出の山と称されてきた。真平山脈より出づる細流は清き流れの渓流となり、万葉の昔は聖なる山の聖水の流れで神の河日の河と呼ばれた泊瀬川は、大和川となって豊富な水資源は灌漑用水として、水穂国として農業に大きな役割を果し、農林産物の宝庫となった」

※「磯城から山辺の境界線上」とは「城上郡」と「山邊(山辺)郡」の境界のこと
※ 「倭笠縫邑」は宮中に祀られていた天照皇大神の御霊を遷したところ。この後各地を転々とし(元伊勢)最終的に伊勢神宮に鎮まりますが、その出発点
※ 「隠国」の読みは「こもりく」。「泊瀬(初瀬)」に懸かる枕詞。山々に囲まれた地。大和盆地(ここでは磯城としている)から見て「三輪山」の裏側(東側)の幽界の地と考える説も

◎甚だ重要な内容が呈示されています。まず諸説ある「倭笠縫邑」の比定地を当地一帯であるとしています。また「小夫の笠神と並び」としています。「小夫の笠神」とは小夫天神社から背後(西方)の山々、笠山荒神社周辺までを含めてのことかと。
寝地蔵、奥の鎮、笠神、割石、真平山、中岳、貝ヶ平山」については推測するしかあるまいかと。「寝地蔵」は当社より北北西500mほどにある磐座(残念ながら仏教徒の仕業か石仏が彫られています)。「笠神」は文面から当社境内地を含む周辺。すると「奥の鎮」はその間のことかと。「真平山」は当社より南西400mほどの山。すると「割石」とはその間のことで、磐座があるとのこと。「貝ヶ平山」は「真平山」から南東500mほどの山。「中岳」とはその間の山のこと(下部写真参照)。
これ以下の文章は筆者の推量から導きだされた所論かと思いますが、これこそが核心であろうと。当社はその中核となる一つのようです。

*写真は2020年11月と2022年4月撮影のものとが混在しています。



小夫天神社前に掲げられる周辺史跡絵図。右下に「笠神」と「貝ヶ平山」が見えます。

鳥居は西面に。「真平山」「貝ヶ平山」は右手奥方面になります。







「小夫」方面を。令和四年4/19の参拝時は八重桜が満開でした。