吉姫神社
(よしひめじんじゃ)


近江国甲賀郡
滋賀県湖南市石部東8-4-1
(一の鳥居のある北側からでも可、南東裏側から境内のどちらでも可、「八起会」の車が常時停車しているが当社から貸しているもので周辺に駐車可)

■延喜式神名帳
石部鹿鹽上神社の論社

■旧社格
村社

■祭神
上鹿葦津姫大神
吉比女大神
[配祀] 木花開耶姫


「野洲川」の南岸、民家等の密集地内「石部東」に鎮座する社。一の鳥居は旧「東海道」に面しており、かつては栄えた様子が垣間見えます。
◎創建由緒等は不明。社伝によるとかつては「上田」の地に鎮座していたものが、明応年度(1492~1501年)に兵火により焼失、天文三年(1534年)に現社地にて再興されたとしています。
江戸時代には上田大明神と称されており、現社名となったのは明治から。
◎旧社地「上田」は、北東200mほどの現在の御旅所。こちらが式内社 石部鹿鹽上神社に挙げられています。
論社は西隣村の吉御子神社、参考社として甲賀市の柏木神社(未参拝)があります。
◎その吉御子神社と当社は対になるという説があります。これは「上田」にあった社が焼失し再興される際に分かれたというもの。石部鹿鹽上神社が当社に、石部鹿鹽下神社が吉御子神社に宛てられます。したがって厳密には当社こそが式内社の後継社かと。
◎ご祭神の上鹿葦津姫大神は木花開耶姫のこと。同じ神が主祭神と配祀神に見えるという不可解なことに。神名帳においては一座であり、吉比女大神こそが本来のご祭神であろうと思われます。
◎記紀には見られない神名ですが、「倭姫命世記」に登場します。「(垂仁天皇)十八年 阿佐加の藤方片樋宮に遷坐し四年間奉斎す (中略) その地(宇礼志)を渡り坐す時に阿佐加の加多なる多気連等の祖 宇加乃日子の子 吉志比女 吉彦の二人が現れ参上した」と。
「阿佐加の藤方片樋宮」の比定地は現在の津市藤方、海岸沿いに位置し、当地からは遠く離れた地。果たして当社ご祭神のことなのか疑問に感じます。多くの資料は多気連が奉斎する社としていますが。
吉御子神社の方は社伝によると、崇神天皇六十八年に「石部山」に神が降り、垂仁天皇二年に宇加之彦の子が吉比古・吉比女の二神を祀ったとしています。これは「倭姫命世記」の記述と整合性のあるもの。
◎以下は個人的な見解、確証に乏しくあくまでも想像上の仮説ですが。近江国から丹波国、丹後国にかけていくつかの「石部神社」が点在します。「山」偏に「石」も有り。南から順に参拝済み社のみを挙げると、
*船井郡京丹波町の何鹿神社(式内社 出石鹿石部神社の比定社)
*丹後国與謝郡の阿知江石部神社
*近江国野洲郡の馬路石部神社
また未参拝社を挙げると
*近江国愛知郡の石部神社
*丹波国氷上郡の石部神社
*但馬国出石郡の石部神社
他にも探せばまだあるのだろうと思います。これらの地に共通するのが、磐座や製鉄鍛冶。製鉄鍛冶でこの辺りに関わる神といえば彦坐王アメノヒボコ神。いずれかの後裔氏族が奉斎した社ではなかろうかと。
その多くが「いそべ」であることから海神系氏族、また「山」偏に「石」になっていることも関係があるのでしょうか。
◎吉御子神社の方は「倭姫命世記」と整合性のあるものであり、或いは当社 吉姫神社と吉御子神社はまったく関係の無い神社だったのかもしれません。詳細は不明ながら宮司の言う通りに別々のお社ではないかという通りの可能性も。
◎なお社殿は丘陵(標高200m余り)の中腹に鎮座。頂には古墳があるようです(現状は埋め返され盛土のみとのこと)。



こちらからも入って奥に停められますが、やや転回は困難。境内南東をぐるっと回り込んで住宅街の中から進入するのがおすすめです。




後継者がおらず現宮司さんの代で廃社になる可能性があるとのこと。

ご高齢であるにもかかわらず、お一人でとても美しく清浄に維持管理なされています。


この奥の方に古墳があるようです。