丸山宮址 (伝 神武天皇丸山御陵)


大和国高市郡
奈良県橿原市大久保町(「畝傍山」内)
(登拝記事は→こちら)

■祭神
(不明)


「畝傍山」北東部麓、尾根裾辺りに鎮座する古社地。「宮」と刻まれた5本の石碑で円形に囲われた一角。社殿等は存在せず、現在は奉斎もなされていません。
◎この地が神武天皇の「橿原宮跡」であり、また「御陵」でもあったという伝承が残っています。宮跡比定・陵墓治定の経緯を辿ると、現在の橿原神宮神武天皇陵は明治政府が恣意的に行った結果であることが浮彫りとなります。以下、Wikiより引用。
◎「神武天皇」の「宮」頁より。
━━宮の名称は『日本書紀』では「橿原宮」、『延喜式』では「畝傍橿原宮」、『古事記』では「畝火の白檮原宮」と記す。このほか『万葉集』にも「可之波良能宇禰備乃宮」がみえる。伝承地は奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮
「橿原」の地名が失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。幕末から明治には、天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、 (中略) 内務大臣山縣有朋に対し、宮跡保存を建言した。翌年に明治天皇の勅許が下り、県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。橿原神社が創建された。明治23年(1890年)━━
◎「神武天皇」の「陵・霊廟」頁より。
━━陵の名は畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市大久保町の遺跡名・俗称「四条ミサンザイ」に治定されている。(中略) 記紀によると畝傍山の北方、白檮尾(かしのお)の上にあると記されている。壬申の乱の際に大海人皇子が神懸りした際に「高市社(河俣神社)の事代主神と身狹社(牟佐坐神社)の生霊神」が表れ「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と神託を受けたため、神武陵に使者を送って挙兵を報告したとされる。天武期には陵寺として大窪寺が建てられたとみられる。延喜式の第21巻の『諸陵式』によると、神武天皇陵は平安の初め頃には、東西1町、南2町の広さであった。貞元2年(977年)には (中略) 国源寺が建てられたが、中世には神武天皇陵の所在も分からなくなっていた。
江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっており、水戸光圀が『大日本史』の編纂を始めた頃幕府も天皇陵を立派にすることで、幕府の権威をより一層高めようとした。元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われ、その時に神武天皇陵に治定されたのが、畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第2代綏靖天皇陵に治定されている)。しかし畝傍山からいかにも遠く、山の上ではなく平地にあるので、福塚よりも畝傍山に少し近い「ミサンザイ」或いは「ジブデン(神武田)」というところにある小さな塚(現在の神武陵)という説や、最有力の洞の丸山という説もあった。その後、文久3年(1863年)に神武陵はミサンザイに決まり、(中略) このように神武天皇陵の治定は紆余曲折の歴史があり、国源寺は明治初年、神武天皇陵の神域となった場所から大窪寺の跡地へと移転したが、ミサンザイにあった塚はもとは国源寺方丈堂の基壇であったという説もある━━
◎Wikiに書かれている以上から要点を。
*宮跡は「畝傍山東南橿原地」であったとされており、これに従うなら現在の橿原神宮
問題はその「畝傍山東南橿原地」が本当に正しいのかどうか。「橿原」は既に不明となっており、御所市柏原もその候補地の一つ。国見をしたという「本馬丘(嗛間丘)」もあり、神武天皇社が妥当なのではないかと考えています。
その「柏原」村では、ここが宮跡に定められると立ち退きを余儀なくされるため、証拠書類をすべて燃やした伝わっています。
*陵墓に関してはWikiにも書かれている「最有力」の「丸山」(当社)が、やはり妥当ではないかと考えます。「ミサンザイ」も「ジブデン」も平地、「丸山」だけが山裾にあります。以下写真を見ても分かるように「山の上」です。
また「ミサンザイ」は元々「糞田」と呼ばれた「牛馬の屎尿処理場」。木が一本生えただけの、ごくごく小さな塚(4~5m程度)のように見えるものを神武天皇陵であるとしたとされます。Wikiでははっきりと触れられてはいませんが、業を煮やした幕府が半ば強引に決めてかかったものと思われます。
◎なお当地は上述の通り「洞村(ほらむら)」と称され、村人たちが生活を営んでいました。ところが神武天皇陵が平地に治定されたことにより、上から見下ろす地に当たるということで移住を余儀なくされ、現在は東麓の大久保町に住まわれています。これには同和地区の部落差別に関わる、忌まわしい歴史が含まれていることを付記しておきます。また当地こそが神武天皇の本当の御陵であるとするなら、村人たちがおよそ1500年もの間、大切に守っておられたことも併せて。


当日は畝傍山山頂から下ってきました。このレンガ造りの遺物が目印。この脇を左から50mほど登ったところ。正確にはmapは正しい位置を示していませんが。

「宮」と書かれています。