有南神社 (在南神社)


大和国高市郡
奈良県高市郡高取町大字越智634
(P有)

■祭神
越智親家


中世に当地一帯を支配した武家、越智氏が祖である親家を祀った社。創建はおそらく中世の頃であろうかと思われる新しい時代のもの。
◎諸説あるものの越智氏は、源頼親(源満仲の次男)の末裔とされ、また大和国高市郡の越智氏はその子孫である親家の後裔とされます。
越智氏は南北朝時代に南朝方についたとされ、南北朝統一後は大和国南部の高市郡全土をほぼ手中に収め、勢力を拡大したようです。ところが大和北部の筒井氏と長年に渡り対立、ここに興福寺やら春日大社やらも絡み、中世の大和国内は大混乱状態にありました。将軍足利義教や織田信長、羽柴秀吉もたびたび介入を行ったりしていたようです。結局は筒井氏が大和を統一しています。
◎日本家系図学会及び家系研究協議会会長である宝賀寿男氏のサイトによれば、
━━大和の大伴氏族の流れは、大和源氏(清和源氏頼親流)のなかに入り込んだ模様で、源姓を称した中世大和南部の大族越智氏も実際には大伴氏族の流れをなんらかの形でうけたものか。━━としており、大伴氏(同族の久米氏)との関連に言及しています。
◎越智氏が拠点とした貝吹山城(「貝吹山」山頂)の北側は、神武天皇二年に道臣命が「宅地(いへどころ)」を賜ったという「築坂邑」(「築坂邑傳稱地」碑、氏神は鳥坂神社)。またその東隣は久米氏が拠点とした「來目邑」(「來目邑傳稱地」碑、氏神は久米御縣神社)。さらに貝吹山城の北西には大伴一族の奥津城とされる新沢千塚古墳群があります。
そして貝吹山城の西方に鎮座するのが当社。すぐ北側には大伴氏・久米氏に関連する天津石門別神社が鎮座しています。