椿井春日神社


大和国平群郡
奈良県生駒郡平群町椿井1278
(いつも社前道路に停め置きしています)

■祭神
天児屋根命


南北に連なる「矢田丘陵」の平群側(西側)の山裾に鎮座する社。平群氏が奉斎していた主要な社の一つかと思われ、なぜ式内社となり得なかったのかは以下に記します。境内には宮山塚古墳があります。また隣接して下蔵神社が鎮座しています。
◎社頭案内板に平群氏第82代嫡子、椿井一見氏の「平群氏春日神社沿革記」が掲げられています。非常に重要な内容を含んでいるので、原文のまま掲載します。
━━平群氏ハ天大吉備諸進尊(アマノオオキビモロズミノミコト)ヲ祖トスル、孝霊五十四年甲子十一月十三日薨ジ、上辺 槍掛山丘上陵 平群坐神社ト申ス也、二代天岩床尊ハ平群郡勢益原丘上陵 天岩床神社ト申ス也、景行の朝 提原王ハ武内宿祢ノ養子トナリ勅命ニヨリ平群ノ姓ヲ賜リ二十九代神手小将軍大宿祢(日本書紀)ハ聖徳太子ニ従イ守屋氏ヲ討チ以テ氏寺平群寺ヲ勢益原丘ニ創建ス 推古ノ朝 
三十四代式部卿従二位中納言直広隅(日本書紀)大海人皇子(天武天皇)ニ仕ヘ吉野上市大淀町増口(ましぐち、旧 摩志口)ニ住シ仁申ノ乱起ルヤ鈴鹿ニ進軍、出陣ニ先立チ神前ノ井戸ニ椿ノ木ヲ挿シ戦勝ヲ祈願ス、自後始テ椿井ヲ以テ稱号トナス(千三百年前)軍功ニヨリ鈴鹿ノ関ヲ拝領 自後椿井トナル 此時 社寺創建セシモ戦国時代ニ織田信長ノ兵火ニヨリ灰燼トナル 現在 伊勢一之宮椿大神社是也 三十六代中将懐房ハ藤原房前ノ養子トナリ仍テ藤原ノ平群ト稱ス
大和官領職越前懐泰ハ神護景雲二年正月九日 河内平岡ヨリ三笠山江春日大明神ノ臨幸ニ供奉シ以テ初代興福寺官務衆徒トナル 天徳年間(千〇十年)伊豫律師懐休 初テ椿井寺並春日社ヲ創建 当春日社ノ初メ也
椿井寺ノ一部佛像ハ当村乾氏宅ニアリ 五十七代椿井中納言氏房ハ実ハ征夷大将軍藤原頼経ノ三男ナリ 母ノ遺命ニヨリ血脈ヲ継グ為、養子トナリ弘安五年六月二日菊桐ノ御紋ヲ賜ウ
伊賀・大和・河内・阿波 四ヶ国ノ太守トシテ勅贈正二位大納言トナリ当村ニ椿井城ヲ築城セリ
越前政里奈良探題トナリ館ヲ奈良吉野町ニ移シ以後椿井町ト改ム、永正年間懐慶政信公 山城一円ヲ賜リ周辺ニ居城ヲ構ヘ以後山城椿井ト稱シ星霜二千二百有余年ヲ経テ今日ニ至ル、斯クノ如ク古代ヨリ代々築カレタル平群一円ノ文化財ヲ保護シ後世ニ残シ度キ念願ニヨリ以テ一文トナス次第也━━
このように平群氏について詳細に記されています。
◎まず平群氏は一般に武内宿禰の後裔であるとされていますが、この沿革記にはそれまでの詳細が記されています。祖神は「天大吉備諸進尊」であると。そして景行朝の時に「提原王」という者が武内宿禰の養子となり、平群姓を賜ったと。また槍掛山丘上陵 平群坐神社に鎮まっていると記されています。これは平群坐神社のことかと思われます。神名帳に見える「式内大社 平群坐神社」については、平群坐神社が比定社に、斑鳩神社が論社に挙げられていますが、この案内板を史実と取るのであれば平群坐神社が該当するのかと思われます。

◎天大吉備諸進尊は記のみに記される神、第6代孝安天皇と忍鹿比売との間に生まれた子。第7代孝霊天皇の兄。当時は末子相続制であったと考えていますが、それを取るなら吉備諸進尊は祭祀を行うという孝霊天皇よりも重責を担っていたと考えます。忍鹿比売は紀の一書に、磯城縣主系であるとも十市縣主系であるとも記されており、定かではありません。
◎二代目の「岩床尊」が天岩床神社に鎮まっていると記されています。これは式内大社 石床神社のことかと思われます。創建由緒とも不明な社で諸説出されていますが、それに加える必要があるかと思います。
◎紀には履中朝辺りから木菟宿禰(ツクノスクネ)が国政に進出、御子の真鳥が大臣になるも国王になろうとして孫の鮪(シビ)とともに誅されたとあります。これらは史実ではないとするのがおおよその見方ですが、この沿革記にも二人の名は見えません。
◎29代神手の時に聖徳太子に従って物部守屋を誅したとありますが、おそらくこの辺りに頭角を表した氏族であると考えられています。
◎34代直広隅が大海人皇子に仕え、吉野に住んでいたとあります。そして鈴鹿に進軍し戦勝祈願したと。これを椿大神社の社名起源としているのが興味深いところ。これは史実なのでしょうか。
◎36代懐房が藤原房前の養子となり、藤原の平群と称されるようになったとあります。この時に藤原一族となったようです。
◎懐泰の時代、神護景雲二年(768年)に春日大明神が河内国枚岡神社から遷座され、春日大社が創建される際に懐泰が供奉、懐休が天徳年間に当社創建に至ったと記しています。天徳年間とは957~961年ですが、案内板は1010年(寛弘七年)と記しています。どちらが正しいのでしょうか。いずれにしても創建は神名帳編纂後のこと。

宮山塚古墳

椿井井戸


*写真は2019年4月と2022年8月撮影のものとが混在しています。


車はいつもこのように停め置きしています。アクセス道はやや狭いので要注意。





「春日社」と「甲大明神」の扁額。

隣の下蔵神社より。


こちらが宮山塚古墳

「椿井」の地名由来となったとも言う「椿井井戸」