穴石神社


伊賀国阿拝郡
三重県伊賀市石川2291
(Pは不明、困らなかったと思います)

■延喜式神名帳
穴石神社の論社

■旧社格
村社

■祭神
木花佐久夜比賣命
天津兒屋根命
天香香脊男命
[合祀] 市杵嶋比賣命 宇迦能御魂命 大山祇命 火産靈神 彌都波能賣神 武甕槌命 經津主命 健速須佐之男命 仁徳天皇


伊賀市「石川」の古い集落の端の山裾に鎮座する、非常に趣ある古社。
◎社名の「穴石」からいろいろな連想がされますが、特筆すべきものは「穴石」を「穴師」と捉え、大和国の名神大社 穴師坐兵主神社との関連。ご祭神も同じではないかという見方も。つまり製鉄が行われていたと考えられます。
◎元々は南方の「波敷野村(はじきのむら)」に鎮座していたとか。村名からおそらく「土師器」に関わることが分かります。南方1.5kmに鎮座する天津社がそれであろうかと思います。その社は明治の合祀令により陽夫多神社に合祀されているので、元社として奉斎が続けられているものかと思います。
◎この天津社が「波敷野村」と「石川村」(当村)に分祀され、御神体は「波敷野村」(天津社)に、御神宝は「石川村」の穴石神(当社)に祀ったという伝承があります。つまり穴石神が祀られていたところに、「天津村」から御神宝が遷されてきたと解することができます。やはり当社の原初は「穴師」に関わる社であったのでしょうか。
◎また伊賀国全体として捉えるなら、一ノ宮の敢國神社を中核として、北に天津神社、南に国津神社(確認しているだけで5社あり、うち一社は上比奈地「国津神社」)を鎮座していたと考えるものもあります。
◎当社は「式内社 穴石神社」の論社として上がっています。上記のように当社は「穴石神」と称されていました。
他に論社として上がるのが伊賀市「柘植(つげ)」に鎮座する都美恵神社。旧記によると、第31代敏達天皇の御代に「穴石大明神」と号したとあるとのこと。こちらは江戸初期の大洪水で社殿が流失。かつては南東2kmほどの山中に鎮座していたようです。
両社の沿革、地形からはいずれも「穴石神」に相応しく、また製鉄が行われていた可能性がある地。決しがたいかと思われます。

*写真等の情報は2017年9月のものです。