石津神社


和泉国大鳥郡
大阪府堺市堺区石津町1-15-21
(境内に駐車可)

■延喜式神名帳
石津太神社の論社

■旧社格
村社

■祭神
八重事代主命
大己貴命
[相殿] 誉田別神 伊邪那美神 白山比賣神 水分神 高野神 高龗神


「石津川」河口右岸、大鳥郡石津郷に鎮座する社。「石津浜」までは1kmほど、その中ほどに石津太神社(現在記事改訂作業中、リンクには飛びません)が鎮座します。当社を「上石津社」、石津太神社を「下石津社」と区分けすることも。
◎「石津」という地名は「和泉国大鳥神社流記帳」によれば、「難波長柄豊前朝廷」の御領である「伊岐宮」を造るための石を讃岐国から当地へ運んできたことに因むとのこと。ところが当社に於いては異なる伝承を有します。それが当社の起源に関わるもの。
◎当社の起源は社伝によると、第5代孝昭天皇七年、勅願により宮柱を立てたと伝えています。記紀等には記録が見えず、欠史八代とも言われ、そもそも存在自体が疑われる天皇の時世のこと。
これとは別に、事代主神(戎神)が当地に降臨し、「五色の神石」を携えここに置いたことを起源とし、かつ当地を「石津」と名付けたとも。「寄神信仰」の一つかと思われます。
◎事代主神はいつの頃からか「ヱビス神」と習合された神であり、原始は「ヱビス神」が祀られていたと考えられます。当社は「わが国最古の戎社」と謳っており、これに関しては一般に西宮戎(未参拝)が最古とされるものの、そちらの神職が当社を訪れた際にはこちらが最古かもしれないと認めたとは、当社側の話。
◎「五色の神石」は社前に埋められているとされるも詳細地は不明。これは石津太神社も同じ伝承を有します。往古の神域がどこまでであったのかは分からず、周辺は既に開発が進んでおり、埋められたのが史実であったとしても、既に消失しているでしょうか。この神石は天変地異のときは地面から浮き出て鳴動するとも。
なお石津太神社の社前には「五色の石」なるものが据えられてはいます。
◎第11代垂仁天皇の御宇、天穂日命十四世孫野見宿禰が当社の神主となったと伝えています。

天穂日命は出雲国造家の祖とされ(出自を良くするため仮冒したと思われる)野見宿禰當麻蹶速と勅による「角力」(相撲の原型)を行うために大和国に連れて来られたという神。

また皇后の日葉酢媛命崩御の際に、陵墓に殉死者を埋めるという習慣を止めて代わりに埴輪を立てることを進言したことでも知られます(考古学の成果から史実ではないことが明かされている)。おそらくは裔の土師氏による潤色かと思われます。

◎土師氏(当時は土部氏)は古墳時代に天皇を始めとした皇族や高官の墳墓造営から埴輪製作、葬送儀礼までを職掌とした氏族。大和や河内のほとんどの大型古墳の近くには、彼らが足跡を残しています。

土師氏(土部氏)は四系統に分かれ「四腹」とも言われます。うち当地を拠点としていたのが「毛受腹(もずばら)」。その名の通り「百舌鳥(もず)古墳群」近くということ。彼等が祖神を祀ったのが当社であろうと思われます。彼等は後に土師氏を名乗りましたが(他の三腹は菅原氏や秋篠氏など)、さらに細分化して石津連と称したようです(桓武天皇母の高野新笠の系統は「大枝氏」、さらに「大江氏」に改姓)。「新撰姓氏録」には「和泉国 神別 天孫 石津連天穂日命十四世孫野見宿禰之後也」と見えます。

◎「式内社 石津太神社」を巡り、当社と石津太神社とで激しく論争が繰り広げられました。

どちらかが分社されたのではないかと思われます。慶安四年(1651年)に「上石津村」と「下石津村」に分村、この時なのかもしれません。当社に有利な点としては、石津太神社の鎮座地が往古は海中であった可能性があること。ただしそちらの御旅所として、漂着伝承地が海岸間際の「石津川」畔に設けられています。

◎白雉三年(652年)に孝徳天皇、天平勝宝元年(749年)に孝謙天皇が当社に行幸。さらに後醍醐天皇の行幸や、元禄十年(1697年)には徳川綱吉より石を賜り河内四郡及び堺付近は悉く当社の氏子となったと伝わり、朝野の崇敬の高さが窺えます。

◎境内社として宿禰神社が鎮座。野見宿禰と相殿に石津王、猿田彦神が祀られています。また菅原道真を祀る天満宮も。

◎境内のクスノキ三体とオガタマノキが堺市保存樹となっています。

*写真は2018年11月と2025年4月撮影のものとが混在しています。


「和泉名所図会」(寛政八年・1796年)より。





右殿(向かって左殿)が野見宿禰社。









堺で生まれた与謝野晶子の歌碑



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