牟佐坐神社
(むさにますじんじゃ)


大和国高市郡
奈良県橿原市見瀬町718
(P無し、北側に境内に上る急坂がありいつもそこに停めています)

■延喜式神名帳
牟佐坐神社 大 月次新嘗 の比定社

■旧社格
村社

■祭神
高皇産霊命
孝元天皇


身狭村主青(ムサノスグリアオ)が生霊神(イクタマノカミ)を奉斎した社であると、紀に記される社。境内は第8代孝元天皇の「軽境原宮(かるのさかいはらのみや)」跡でも。
身狭村主青は渡来系帰化人で東漢人(ヤマトノアヤウジ)配下の一人。暴君として名高い雄略天皇の側近として寵愛されたようです。
◎また紀には雄略十四年に呉国に遣わされ、漢織(アヤハトリ)、呉織(クレハトリ)、衣縫(キヌヌイ)の兄媛・弟媛を連れ帰り、呉人を檜隈野に置いたとあります(【書紀抄録】応神天皇・雄略天皇「縫工女」を求める の記事参照)。このことから機織に関連する人物であったと考えられます。
◎さらに東漢人の祖とされる阿知使主(アチノオミ)が鍛治氏族であったとも考えられています。当地からは「鉄滓(かなくそ)」が多く出て農家が困っていたという伝えも。また当地の古代名である「軽(かる)」は古代朝鮮語の「刈る」、つまり製鉄鍛治を連想させます。
◎当社についても記紀に記されます。仁申の乱の際に『村屋神(村屋坐彌冨都比賣神社)・高市の事代主神(河俣神社か)・身狭の生霊神(当社)から大友皇子軍来襲予告の神託があり、軍を備えさせた。そこで大海人皇子軍は上ツ道・中ツ道・下ツ道それぞれに軍を配備した』と。さらに『村屋神が祝(神官)に神懸かって「我が社の中の道を防ぐように」と神託があった』と。
また高市県主の許梅(コメ)が話すことができなくなり、高市の社にいる事代主神(こちらも河俣神社か)、また身狭社の生雷神が神懸ったという記述も。
◎上記の2つから見るように元々のご祭神は「生霊神」または「生雷神」であったようで、身狭社「旧記」には安康天皇の御宇に身狭村主青が「雷公」を祀ったとしています。混同されていますが本来は「生霊神」であったように思われます。
この神は難波の生國魂神社に祀られる生嶋大神、そして「延喜式祝詞」に出てくる生島巫祭神二座のうちの生島神のことでしょうか。日本国土の神霊とされます。
◎中世から江戸まで天神(菅原道真公)を祀ったりと紆余曲折があったようですが、現在はなぜか高皇産霊命と当地で宮を営んだ孝元天皇が祀られています。

*写真は2018年2月と2019年12月のものが混在しています。




ご本殿の背後より。