馬立伊勢部田中神社
(またていせべたなかじんじゃ)


大和国高市郡
奈良県橿原市和田町1400
(Pは封鎖、全面道路に路駐か)

■延喜式神名帳
御歳神社 鍬靫 の比定社

■旧社格
村社

■祭神
天児屋根命
豊受姫命
誉田別命


田畑の中に樹叢に覆われた長い参道がひときわ目立つ神社、穏やかな印象の古社。
◎社頭案内板には「延喜の領弊に漏れたるを見れば…」とされているものの、式内 大歳神社の比定社。別に北東200mほどに鎮座する大歳神社(現在記事修正中、後ほど再UPします)が論社として挙げられています。
◎旧社地は豊浦の「小墾田宮跡」とされているところ辺りにあったらしく、飛鳥川の大洪水(慶長年間1596~1615)で流されたために現社地に遷されたとしています。
この地は大歳神社から真東、現社地に遷されたのが間違いないとすれば大歳神社も当社も合致するのではないかと考えます。
◎これに関連するのが式内名神大社「気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社 二座」。廃絶社であり、鎮座地を巡って多説展開されています。
現状、古老口伝のものとして「稲淵山」山頂辺りにあったとする「和州五郡神社神名帳大略注解」説がクローズアップされているようですが(行方不明社 気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社の記事参照)。
この社に対して平田篤胤は、「気吹雷響雷 吉野大国栖御魂神社二坐は雷岡に立て御在まして九頭明神と申奉れるをもおもうへし」としているようです(出処不明)。この社が「雷丘」から洪水で流され、現在は橿原市田中の社叢として残されていると。
少々情報が混乱しているようです。「橿原市田中の社叢」は当社のことと思います。当社の旧社地はおそらく社伝通りに、「雷丘」から西方200mほど、「飛鳥川」の向こう側の「小墾田宮跡」辺り。ともに洪水で流されていることから起こった混同かと思います。
つまり「飛鳥川」を挟み東岸に気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社(異説多数有り)、西岸に当社が鎮座していたものと考えられます。
◎神名帳より古い「三代実録」には貞観9年(867)「馬立伊勢部田中神」と見えるので、この時には大歳神社と馬立伊勢部田中神社の二社があったとするべきかと。大歳神社がいつの時代に馬立伊勢部神社になったのかは不明。合祀でもされたのでしょうか。
また比定された理由は、豊受姫が祀られているからとしています。御歳神と豊受姫とはまったくの別神ですが、同じ穀物神として御歳神社らしいということのようです。少々安易な気もしますが。

※写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。


田畑の中にぽっかりと、東西に長い社叢が浮かんでいます。