大狛神社


河内国大県郡
大阪府柏原市大字本堂88
(P無し、社前に共用Pがあるがかなり狭小道路なので困難、或いは「とっくりダム」付近に停めて20分ほど歩くか)

■延喜式神名帳
大狛神社の比定社

■旧社格
村社

■祭神
大狛連祖
[配祀] 大山咋神 木花開耶姫神


猪上神社が鎮座する信貴山朝護孫子寺という仏教施設から、直線距離で500mほど下ったところに鎮座する式内比定社。小さな山村集落内にあります。
◎社頭案内板を要約すると、「当地は河内国大県郡巨麻(こま)郷と呼ばれ、高句麗からの渡来系氏族である狛氏の居住地。7世紀初頭の唐・新羅連合郡との逼迫状況の中、防衛拠点として築かれた安城の維持管理や要員として集落が作られたのではないか」としています。
◎内容から鑑みて、「7世紀初頭」は誤記で「7世紀中頃」の唐・新羅連合郡との逼迫状況かと思われます。「白村江の戦い」にて連合軍に敗れた大和朝廷に緊張が走ります。
そして紀の天智天皇六年(667年)に「大和国高安城(たかやすのき) 讃岐国山田郡八嶋城 対馬国金田城を築く」とあります。社頭案内の「安城」とは「高安城」の誤記かと思われます。
◎「唐・新羅連合郡との逼迫状況」というのは、高句麗・百済の連合軍が新羅を攻撃したことに端を発するもの。新羅は唐に救援を求め唐と新羅の軍事同盟が成立(660年)。その年に百済を攻撃、663年には百済遺民・倭国連合軍を「白村江の戦い」で破り、続いて668年には高句麗軍を滅ぼしています。
◎「高安城」の維持管理などに高句麗系渡来人の狛氏があたるのは、ごく自然な流れかと。なお「高安城」の正確な位置は未だ分かっていないものの、当地付近ではないかと。
「河内国高安郡」という地は当社の西方。紀に大和国とある以上は「河内国高安郡」の東方。つまるところ当社に近い所であろうと導き出されます。また任務遂行のためには城の近くに住まわなければならないかと。
◎ご祭神は上記三柱に山王権現、富士権現なども。宮司さん(金山彦神社金山媛神社等と兼務)のお話では「たたら製鉄に必要な火の神が祀られているのでは」とのこと。この辺り一帯は古代たたら製鉄が行われていた地。さらに下ると金山彦神社金山媛神社が鎮座しています。
◎狛氏は河内国、山城国、武蔵国、相模国などに広がっています。河内国内でも渋川郡に許麻神社が鎮座、錦織郡には高向神社が鎮座。当地に住み着いた大狛連は皮革染めの職能集団であったとされます。
◎式内比定社にもかかわらず、ちょっと大きめの神棚程度の祠があるのみ。道案内等もほとんど無く少々寂しげな状態になっています。

*写真は2017年末~2018年初頭のものと、2021年7月撮影のものとが混在しています。


こちらが共用P。当社へは右の坂を登ります。



青々とした榊が立てられていました。