多太神社
(おいだじんじゃ、ただじんじゃ)


大和国葛上郡
奈良県御所市多太304
(いつも北向かいの公民館駐車場に停めています、氏子さんたちには特に何も言われていません)

■延喜式神名帳
多太神社の比定社

■祭神
太田田根子


御所市名柄の南側、「多田(おいだ)」という古い集落内に鎮座する古社。
◎「大和志料」では、賀茂御祖神社(下鴨神社)を創祀した大賀茂津美(大鴨積命)がその祖父神 太田田根子命を祀ったものであろうとしています。そして「新撰姓氏録」では賀茂朝臣と大神朝臣は同祖としています。
◎太田田根子命は鴨都波神社も創祀、鴨氏の中では重要な位置を占めるであろうにもかかわらず、事蹟の少ない神でも。ただ一つ大神神社の初代神主に選ばれたこと。古代史においてこの神の重要さはこれだけで知れようかと思います。そういう意味では当社の存在は、甚だ重要なものであるかと。
◎太田田根子命は紀によると大物主命の御子、記では五世孫、一方「先代旧事本紀」には事代主神の七世孫とされています。崇神天皇の御代に行った疫病蔓延などによる国難の際に探し出され、大神神社の神主となっています。
◎発見された場所が、紀では「茅渟県陶邑(ちぬのあがたのすえむら)」と記され、比定地は和泉国大鳥郡の陶荒田神社。また記では「河内国美努邑」とされ、こちらは御野縣主神社の周辺だろうとされます。祭器製作の材料となる「陶」の生産地である「陶邑」と、鉄資源が採取された「美努邑」、いずれかに移住していた理由は分からなくもありません。ところがなぜ探し出さねばならぬほどに、行方が分からなくなっていたのかが不可解。この時代にそれほどまでに没落してしまっていたのでしょうか。なお当社地は元々拠点としていた地であろうかと思います。
◎本居宣長は「古事記伝」にて、当社地が太田田根子命の出生地ではないかとしています。
◎椋(ムクロジ)やイチョウの巨樹が美しい境内。ただ、拝殿らしきもののの貧相さや、ご本殿には賽銭箱が無かったりと、少々寂しすぎる感も否めません。かつての式内社であり、古代の鍵となる社の一つにもかかわらず。

*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。