御野縣主神社


河内国若江郡
大阪府八尾市上之島町南1-70
(P有)

■延喜式神名帳
御野県主神社 二座 鍬靫 の比定社

■旧社格
村社

■祭神
角凝魂命(ツノコリムスビノミコト)
天湯川田奈命


八尾市「上之島町南」の住宅密集地内に鎮座する社。すぐ西方を「玉串川」が流れています。
◎かつては「三野郷」あるいは「美努郷」と称された地。三野県主(美努連)が奉斎した社とされます。
「県主」とは、朝廷が直接支配していた「県」(直轄地)の長のこと。いつから当地を治めていたのかは不明、全国的(ほとんどが西日本)には5~6世紀頃と考えられます。記紀での初見は神武東征時にいち早く帰順した弟磯城が磯城県主に任命されたもの。
「新撰姓氏録」には「河内国 神別 天神 美努連 角凝魂四世孫天湯川田奈命之後也」と記されています。つまり祖神を祀っていた社であろうと。
◎まず天湯川田奈命の方からについて。記紀においては、垂仁天皇の本牟智和気皇子が大人になっても話すことができず、治すためにと湯河板擧命(天湯川田奈命)が鵠(くぐひ)を追って東奔西走する神話が載せられています。捕まえて皇子に献上、話すことができるようになった論功行賞として「鳥取姓」が与えられたと(「もの言わぬホムチワケ皇子のためなら…」の記事参照)。製鉄鍛冶に関わっていた氏族であるとみるのが有力。同じ河内国では大県郡に天湯川田神社が鎮座しています。
◎次に角凝魂命(ツノコリムスビノミコト)について。「斎部宿禰本系帳」には、角凝魂命の四世孫に天日鷲翔矢命(天日鷲命)が見え、これは阿波忌部氏の祖。角凝魂命の御子神と記される天羽雷雄命の後として、美努連や鳥取部連らが記されているようです。これは概ね「新撰姓氏録」と整合性のあるもの。
◎「美努」に関して、河内国美努村で見つかったとされる太田田根子と、美努王を無視するわけにはいかないかと思います。
疫病の流行などに苦しんだ崇神天皇の夢に現れ告げられた神託は、「太田田根子を探し出し我を祀らせよ」というもの。紀では「茅渟県陶邑」で、記では「河内国美努村」でそれぞれ発見されたとしています。和泉国大鳥郡の陶荒田神社が「茅渟県陶邑」に該当するとされ、こちらが有力。一方の「河内国美努村」は当社付近と思われ、当社から400~500mほど北東の「加茂神社跡」(現地未確認)がそれに該当するのかもしれません。記の記述を無視するのもどうかと思いますし。
美努王については遥かに時代は下り、敏達天皇の五世孫。当地周辺に拠点を持ったのであろうと推されます。
◎ご本殿は東向き。明らかに、高安山などが南北に連なる大和国と河内国との境の山脈を向けて建てられていると思います。この山脈の南端付近に天湯川田神社が鎮座します。
◎ご本殿の裏側には南北数十mに渡る堤状のものが残されています。これはかつての大和川の堤防跡。200mほどの川幅があったとか。なぜこのような「暴れ川」の際に当社を建てたのか理解し難いところ。
◎なお当地は江戸時代においては河内国河内郡に属していたとされ、これは大和川の付け替えによる地勢変化によるものと思われます。大坂夏の陣により社殿等すべて焼失、天日大明神として再建がなされたようです。現社名になったのは明治時代になってから。






こちらが堤防跡。


境内から東方を。明らかに山脈を意識した造りとなっています。