映画探偵室 -2010ページ目

交流あるいは蜘蛛の巣

シムノンが「カンヌ映画祭の審査員」であることをきっかけに,フェリーニと約20年にわたり文通していたことは良く知られています。本物の芸術家であることを互いに認め合っていることがその書簡から伺うことができます。汽車を見送る男であるキースポピンガの唯一の自慢は自家用のボート(カヌー)で,彼はそれにゼートイフェル号という名前をつけています,これは辞書を引くと「エイ」であり,オランダ語のゼートイフェルは英語のシーデヴィル,つまり海の悪魔または海の怪物ということになります。実は,これがフェリーニの「甘い生活」終了間際に浜に打ち上げられる怪物なのであり,口や腹から無数の水母が溢れ出て来る(お,おぞましい)場面に繋がります。フェリーニの意図は明白でこの人間世界のおぞましさ,罪の深さを象徴しているわけですが,その後の一筋の救いのような場面はあまりにも象徴的です。砂浜にできた小さな川のむこう岸で少女が微笑みながら「こっち側にいらっしゃい」と主人公に呼びかけているが(口の動きからすると,「私はおじさんが好きよ」と言っているという説もあります),主人公のマストロヤンニにはその声が聞こえない....。そしてこのマストロヤンニがヴィスコンティの監督した「異邦人」でムルソーを演じたのでした。

手に入るもの,入らないもの

 怠惰な本ブログに正月早々読者が増えたのを機会に,久しぶりの登場です。

かつて自分が傾倒した,溺れたあるいは愛した映画や音楽の話を始めると,時の流れをつくづくと感じるとともに,それらは本当の意味ではもう取り戻せないのだ,という感慨にとらわれてしまうのです。

 シムノンの「汽車を見送る男」が時代の概観を示す重要な小説であることを日本に(あるいはその時代の青年,つまり「私」に)知らしめたのは今は亡き「高橋和巳」でした。「孤立無援の思想」というエッセーの中で彼はキースポピンガを「無明の人」と呼んでいます。この「無明」は通常は「無名」という用語でフランス語でも「sans importance」と言い,文字通り世間から見れば「取るに足りない,用の無い人」ということになります。(このブログの特徴は「以後,話が飛び飛びになること」としますが),この「sans importance」はやはりかつての名画「ヘッドライト」の原題である「Des Gens Sans Importance](無名の人々)に通じ,この主人公の長距離トラック運転手を演じたのがジャンギャバンで,彼がおそらくメグレ警視を映画で演じた最初の俳優であるとともに,この監督のジャンピエールメルヴィルはシムノンの親友でした。

 また,「汽車を見送る男」というタイトルにも表れているようにここにはその後のシムノンの,つまり「メグレ警視」シリーズにおける特徴が殆ど出ています。汽車(列車)への憧れ,多国籍(マルチリンガル)人間,ある種の独特の魅力を持つ女性,性的な偏執とも取れる主人公の逸脱した行動,カヌー,パイプ,そしてほんの一握りの「important」な人々,つまりエスタブリッシュメントに対する限りない軽蔑と憎しみ。(際限なく続く)

観たくても観れない映画(1)

とびとびになるけど、「観たくても観れない」という類の映画もある。70年代に一度観たヴィスコンティの「異邦人」などがこれに入るだろうか。製作上の問題かヴィスコンティ自身の遺言によるのかは知らないが、ビデオ化もDVDかもされていない。もう一度改めて、ぜひ観たい。昔ビデオのパッケージを見たような記憶があるのだが、あれは白昼夢だったのか。オーソン・ウェルズ版を無視するわけではないけれど。だれか情報を教えてください。