映画探偵室 -1997ページ目

ふくろうの河

朝まだ早い霧の立ち込める運河の上に架かる橋の上で今にも敵側に捉えられた男が一人首を吊られようとしている。聞こえるのは橋の上を歩く軍靴の音と短い命令の声のみ。そして粛々と処刑が行われ,男は下の川に向かって落ちていく…


ところが奇跡は起きた。首に巻かれていた綱が切れたのだ。渾身の力を振り絞り,息の続く限り絡みついた綱を切ろうともがく,もがく,もがく。取れた,手が自由になった。そして浮かびあがると辺りに「生きているぞ,撃て」という声がする。また水に潜りそして必死に下流目指して銃弾から逃れるようと泳ぐ,泳ぐ,泳ぐ。水面に当たる弾の音,そして次第に意識が遠のいていく…


ふと気がつくと目の前の木の葉の裏を虫が動き回っている。光が射して葉が透き通って見えているのだ。生きている,俺は生きているんだ!
(この場面には「生きている,生きているという歌詞がスーパーインポーズされている)
生きていることはなんと素晴しいことなんだ。なんという喜びなんだ。虫達も草木もただ生きているというだけで。


浅瀬に寄せられた男は気を取り戻すと,さらに追っ手から逃れるため今度は深い森の中を必死で走りぬける。森の中を走る,走る,走る。木々を通して頭上には空が見え隠れする。もうどれだけ走っただろうか。やがて行く手に鉄製の大きな門が見えてくる。おお,我が家だ。彼は急いで妻をさがす。母屋にはいなかった。庭にまわると妻は幸福に満ち溢れた顔でブランコに乗っている。


美しい。自分の妻をこんなに美しいと思ったことはあったろうか。(ここからスローモーションになる)
「エビ~」と彼は妻の名を呼びながら手をせいいっぱい前に伸ばす,伸びる手の先とブランコに興じている妻。もうすぐ手が届く…


と,突然最初の場面に戻る。処刑は滞りなく行われた。霧の橋に残るのは軍靴の音のみ。(感想は次回)

西部劇を作って来たのは誰か

同時間進行という画期的な手法を取り入れた映画としても有名な「真昼の決闘」。この映画の意味は大学でのリースマンについての講義(「孤独な群衆」)で知った。正義に殉じて立ち上がった彼に味方したのは異教徒の妻(グレス・ケリーはモルモン教徒という設定になっており,もちろん殺人は禁じられている)だけだったからである。なりたてホヤホヤの妻はしかし,敵を背後から撃ち殺す。どこにも正義はないと悟った主人公はバッジを捨てて町を出て行くのであった。アメリカの正義を体現しているとまで言われたゲイリー・クーパーに当時は賛辞どころか罵声さえ浴びせかけられた。あの有名な主題歌「ハイヌーン」の出だしは「愛する者よ,もう俺を当てにしないでくれ」である。

(室長注:これを唄ったフランキー・レインは今年2月の6日に93歳で永眠した。フランキー・レインは「ローハイド」でも有名である)

ゲイリー・クーパーは生粋のアメリカ人ではあるが,もとはイングランド系の移民であった。

ダーティ・ハリー1の最後でハリーがバッジを投げ捨てる場面があるが,これはクリント・イーストウッドによるクーパーへのオマージュではないかと思う(本当は踏みにじる場面までイーストウッドは考えていたそうだ)。
今のアメリカ人はあのバッジを拾い直したとでも言うのだろうか。

強い男と「剣」

洋画の方での約束とは違うが,強いからこそ自殺するという男を描いた小説に三島由紀夫の短編「剣」がある。映画化では主人公の剣道部大学生を市川雷蔵が演じた。ワタシはいちおう剣道部出身なので「それ」に惹かれて観たのだが,結論はまだ得られていない。映画「剣」の最後では,朝陽が射してきた磯で,恐らくひと晩中竹刀を振っていたであろう主人公が満たされた者だけが見せる笑みを浮かべて剣道着姿で横たわっていた。三島の自衛隊のバルコニーからの呼びかけに「諸君は武士だろう」という言葉がある。